やまとことばと原始言語 32・正義なんかいらない

西洋人は神との関係を持っているから、あまり人に追いつめられることはないのだろうか。
けっこう平気で傷つけることをいい合う。傷ついても、神との関係に逃げ込めるのだろうか。
いいかえれば、人間関係がハードだからこそ、神が必要なのかもしれない。
西洋に比べたら日本列島の人と人の関係は穏やかかもしれない。しかし、いったん傷ついたら、避難するところがなく、なかなか立ち直れなかったりする。
われわれは、けっこう傷つきやすい民族かもしれない。
傷つきやすいから、忘れようとする文化になっている。
傷つくなら、自分をしっかり持って傷つかないようになれ、というのが西洋流の解決で、日本列島では、傷つかないような人と人の関係の文化をつくろうとしてきた。
その文化の伝統が壊れて、傷つかないような人と人の関係がつくれない社会になり、年間3万人以上の自殺者が生まれる状況になった。
人が人を追いつめている社会なのだ。
日本人は、「全体=公共性=規範」に対する意識が薄い。したがって社会の公共性から追いつめらることもない。
その代わり日本列島は、ことのほか人が人に追いつめられる社会になっている。
だからこそ、人と人の関係によって救われてゆくカタルシスも深く、そういう文化が生まれ育ってきた。
それに対して最初に「神=公共性=規範」を発想する西洋人は、それが救いであると同時に、そこから追いつめられてもいる。いまや西洋の「神」はあやしくなってきているが、同時に世界的な宗教原理主義復活の兆候もある。
日本列島においてもまた、人間関係に追いつめられている人が増えていると同時に、いつにも増して切実に人と人の関係が模索されている時代でもある。
われわれを追いつめているのは、社会ではなく、人間なのだ。日本列島において「世間=世の中」はあくまで具体的な人間の寄り集まりのイメージであって、幻想としての「共同体=公共性」を意味するのではない。現在のこの国で生きていることができなくなっている人を追いつめているのは、社会ではなく、社会的合意=正義を背負った人間の群れにほかならない。そうやって社会や人にクレームを付けたがる人間ばかりの世の中になっている。そうやってマスコミは、政府を批判し、スキャンダルを鵜の目鷹の目で探しているし、庶民は庶民で、学校や居酒屋やファミレスといった公共の施設のサービスにいちゃもんばかりつけている。まるで自分が社会的合意=正義を背負っているかのような顔をして。
しかしそれは、われわれがすでに何かから追いつめられているからだ。そして、追いつめられてあることを、社会的合意=正義を背負って追いつめるがわに立つことによって解決しようとしている。
これは、戦後の日本に生まれてきた傾向である。そういう解決法は、神との関係を持っている西洋の流儀であり、いつのまにかそんな流儀に染まってしまった。そうやって人を追いつめることが正当化されてゆけば、追いつめられるがわの人間は、ますます深く追いつめられてゆかねばならない。「もう生きられない」というところまで。
まあ、人間としてのつつしみを失くしてしまっているのだ。
「神=公共性」との関係を持っていない日本列島では、たがいにつつしみあって人と人の関係を穏やかなものにしてゆこうとする文化を育ててきたはずである。そうやって深くお辞儀をし合ってきたのだ。そうやって社会的合意=正義という「全体=公共性」を振り回さない人と人の関係を守り育ててきたはずである。
われわれは、「全体=公共性」など知ったことではないが、人から追いつめられることには耐えられない民族なのである。
いま、われわれを追いつめているのは、社会的合意=正義ではなく、それを振り回す人間なのだ。
この国の秩序は、「社会的合意=公共性」によってつくられてきたのではない、深くお辞儀し合い、その出会いにときめき合って、人と人の関係を穏やかなものにしてゆくことによってつくられてきたのだ。
そしてこれこそが、直立二足歩行をはじめた原初の人類が見出していった人と人の関係の流儀にほかならない。われわれは、そういう人間としての根源と究極を模索して歴史を歩んできたのである。
なにが社会的合意だ。なにが公共性だ。なにが正義だ。そんなものは、ただの日和見的なご都合主義にすぎない。そこに、おまえらの限界がある。なにがハーバード白熱教室か。正義なんか議論して、なにがうれしいのか。
正義こそ、人間を醜く卑しいものにしている。
僕は、そんなものが欲しいとはちっとも思わない。
あなたにときめいていられたら、なんとか生きていられる。
西洋人のように正義に味方する自分を大切にしたいのではない、自分のことなんか忘れてあなたにときめいていたいだけであり、それが、直立二足歩行の流儀なのだ。
人間には、正義や幸せよりも大切なものがある。と同時に、大切なものなど何もない。
いやいやしょうがなく生きているだけだ。しかし、いやいやしょうがなく生きている人間は、世界にときめいてしまう。この気持ちから逃れられない。そのようにして、この身体もこの心も、生きてあるという事実を受け入れてしまっている。その事実には、したがうしかない。それだけのこと。
大切なものなど何もないが、人間の心は世界にときめいてしまう。いやそれは、魚や鳥だって同じかもしれない。クラゲやミミズだって同じかもしれない。
正義なんか、いらない。
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