やまとことばと原始言語 33・東京暮色

クリスマス・イブ。
今夜の東京の町の風景は、どんなだろうか。
そして、この時代の風景は、われわれを癒してくれているだろうか。
癒されている人と、追いつめられている人がいる。
それはもう、いつだってそうだ。
誰だって、どこかしらで癒され、どこかしらで追いつめられている。
まだ生きているということは、どこかしらで癒されているのだろうし、まだ生きているということは、いまだに追いつめられているということだ。
誰だって、この生から追いつめられている。生きているということは、そういうことなのだろう。追いつめられているからものを思うのだろうし、人と出会ってときめきもするし、うんざりしてしまいもする。
クリスマスなんかあってもなくてもいい、というわけにはいかない人たちがいる。この日の夜だけは癒されときめく夜であらねばならない、という思いをどこかしらに抱え込んでしまっている。
それほどに、どこかしらで追いつめられてしまっている。
この日の夜だけは大切な家族や大切な恋人と過ごしてこの生が癒されてあることを確認する……毎日が癒されてあるなら、べつにそういうとくべつな夜を持たなくてもいいはずなのに。
とくべつな夜が必要なくらい、いつもはどこかしらで追いつめられているのだろうか。
まあ、生きているということは、追いつめられているということだともいえる。そして、追いつめられていることに耐え切れなくなっているから、とくべつな夜が必要になる。
いまや人々はもう、いかに生きるべきか、などとは問うていない。
無数のイルミネーションの向こうに、もっと切実で原初的な「どうすれば生きて生きていることができるだろうか」、という問いが浮かんでいる。
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誰とクリスマスを祝うかは、もう、人さまざまだ。
今になって、芸もなく家族家族と連呼する人たちがいるが、もうそんな時代ではない。
若い恋人たちは、家族を捨てて町のホテルに二人だけの部屋を予約している。
自分を安売りしたくない女友達どうしのパーティもある。
家族と共同体がセットになって秩序をつくってゆく、というクリスマスの祝い方は西洋の流儀であって、この国にはけっきょく定着しなかった、ということだ。この国の人の心の動きは、そんな秩序に癒されるようにはなっていない。
われわれは、家族であれ共同体であれ、集団の秩序に癒されるのではない。人と人の恣意的な連携こそが、この国の人の心を癒している。
勤労感謝の日のことを、戦前までは新嘗(にいなめ)祭といった。それは古代からずっと続いてきた行事で、新しく収穫した米を神に捧げて食べてもらう日である。昔は旧暦だから、だいたいクリスマスのころだ。
一年に一回、神が俗界に降りてくる日。その神をもてなすのは、女たちの役目だった。それぞれの家に降りてくるから、それぞれの家の女がもてなす。
セックスの相手もする。
だから、その夜だけは、男たちはみんな家を出ている。
何のことはない、ようするに、神をもてなすという名目で、みんな一緒によその家の男女と浮気をする日なのだ。
そういう相手は、おそらくあらかじめ約束してあるのだろう。
しかし、誰とも約束しない女もとうぜんいるわけで、嫁いだばかりの若妻は、たいていそうにちがいない。そういう若妻にとって新嘗の夜は、とてもさびしく怖い夜になる。約束していないのに、一晩中、誰かが家の戸を叩く。そのたびにドキッとする。もしほんとうに神なら、開けないとたたりがあるかもしれない。いやいやそんなはずはない、とじっとしている。そして愛する夫は今ごろほかの家の女を抱いているのかと思うと、嫉妬で狂いそうになる……そういう気持ちを歌った万葉集の歌もある。
そして、こんな思いするならみんなと同じようによその男と約束しておけばよかった、という気にもなってくる。そうやって新妻は、村の一員になってゆく。
多くの村人はその習俗を楽しみながら、しかしそこから村のより親密な連携がつくられていった。これが日本列島の伝統の原型であり、彼らは、村という共同体や家族という単位の秩序をいったん解体することで、村における人と人の連携をつくっていった。
日本列島の住民の心は、もともと家族や共同体の秩序によって癒されるというようなかたちにはなっていない。家族や共同体の秩序が重んじられるようになったのは、江戸時代の儒教道徳以来のことだ。げんみつには、西洋の近代を輸入した明治以降のことかもしれない。
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この国では今、太平洋戦争の敗戦によって失われた伝統的な心の動きがよみがえりつつある。
そうでないと、生きていることができなくなってきている。
われわれはもう、「いかに生きるべきか」とは問わない。なにはさておいても生きてあることの困難を感じながら、われわれの心を癒すものは何か、と問うている。
そういう心で今、東京のイルミネーションが瞬いている。
東京に、共同体としての秩序などない。東京は、共同体ではない。人が住むただの「町」なのだ。家族の秩序だって、いまや信じられなくなってきている。われわれは、もともとそういう民族であり、それでいいのだ。
われわれは、集団(共同体)の秩序など欲しがっていない。ただもう切実に、人と人の癒される関係を問うているのだ。
東京のクリスマスは、人と人の恣意的な連携によって祝福されている。イルミネーションは、あちこち勝手に、無数に瞬いている。
支配者やマスコミは、相変わらず共同体の幻想としての「いかに生きるべきか」の解答を提出することばかり躍起になっているが、人々は今、誰もが胸の奥で、どうすれば生きていられるか、という問いを共有し始めている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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