やまとことばと原始言語 29・無意味なことば

たとえば、同じ中学か高校の、知らないどうしの少年と少女がいつも廊下ですれ違い、やがてどちらからともなく「おはよう」「こんにちわ」とあいさつするようになっていった、としよう。
あるとき、教室から出てきた少女と遭遇した少年は、
「ああ、きみはC組だったのか」
といった。
少女もうれしそうに笑って、
「ええ、C組なんです」
と答えた。
それは、第三者にとっては何の変哲もない会話だが、これによって二人の関係は大いに進展した。
このときの「C組」ということばの意味に、なんの価値もない。それはべつに、A組でもB組でもよかった。
しかしそのことばによって彼は、「ずっと君のことを想っていた」ということを告白した。
そして彼女もまた同じ想いだったから、その「C組」ということばにこめられた想いに気づき、同じように「C組」ということばを返した。
彼らはすでに同じ想いを「共有」していて、それを「C組」ということばで確かめ合った。
すでに同じ想いを共有してる、ということがなかったら、この会話は生まれてこなかったし、大切なものにもならなかった。
ことばの意味なんか、どうでもよかった。この「C組」ということばの意味が、二人を近づけたのではない。
二人はすでに同じ想いを共有していたのであり、そこから「C組」ということばが発せられ、「共有」されていった。
これは、ことばの原初的な体験なのだ。すでに何かが「共有」されているところからことばが生まれてくるのであり、すでに「共有」しているものによって人と人の関係が結ばれる。
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ことばは、「伝達」されるのではない、「共有」される……これが、ことばの原初的な体験であり、その機能の本質なのだ。
彼らは、「C組」ということばの意味を伝えあったのではない。「C組」ということばを「共有」していったのだ。
同じ「音声=ことば」を発する、という連携。原初の人類は、「あー」とか「うー」という意味もないうなり声を、同じように発し合うことによって「共有」することのカタルシスを体験していった。これが、ことばの起源であり、「共有」することそれ自体がカタルシスだった。
そういう気持ちは、われわれ現代人にもある。長屋のおかみさんが夕飯のお惣菜を隣におすそ分けするのと同じで、それは、「贈与」ではなく「共有」してゆく行為だ。たかがお惣菜のおすそ分けに「贈与」という意識などあるものか。しかし、「共有」することのよろこびはきっとあるだろう。
家に眠っていた古着などをバザーに出すことだって、「贈与」の意識ではなく、「共有」するよろこびがあるからだろう。
人間は、必ずしも「所有」という意識に凝り固まっているわけではない。
ことばは、「共有」の機能として生まれてきた。
原初において、それは、「伝達」の道具だったのではない。
伝達して「一体化」してゆくためだったのではない。
たがいに「あなたとわたし」として分節されてあることを祝福し合う機能として、同じ音声を交わしていったのがはじまりだ。
あなたがあなたであること、すなわちわたしの分身でもわたしの延長でもなく「わたしではないあなた」であることにときめきながらことばが生まれてきたのだ。
われわれは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を「共有」している。それによってあなたはあなたになり、わたしはわたしになっている。たがいに分節された存在として、同じ「空間=すきま」を「共有」しながらときめき合い、同じことばをその「空間=すきま」を「共有」してゆく。
そのようにしてわれわれは、ともに孤立した個体であることの不安と怖れを共有しながら、たがいの身体のあいだで同じ「空間=すきま」を「共有」し、その「空間=すきま」に「ことば」を投げ入れときめき合っている。
人は、たがいに孤立した個体としての不安と怖れを共有しながら、恋をしてゆくのだ。
したがって、そういう不安と怖れを生きることのできないものは恋をすることもできない、ともいえる。
「C組」という言葉を共有していった彼と彼女も、そのようにしてときめき合っている。
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人と人の関係は、その根源において、「伝達」するのでも「贈与と返礼」をするのでもなく、「共有」してゆくのであり、「共有」することは、たがいに「献身」してゆくことだ。
そのとき彼女は、「C組」ということばをたがいの身体のあいだの「空間=すきま」に押し戻しつつ、そこにみずからのときめきを差し出していった。これが、長い人類の歴史を通じて育まれてきた「献身」の態度なのだ。
ことばは、「おしゃべり」の道具として生まれてきた。「あいつバカだよね」「そうだよ、ほとにバカだよ」そうやって同じ音声(ことば)を共有してゆくときがいちばん盛り上がるのであり、そうやってたがいの身体のあいだの「空間=すきま」に同じことばを差し出し、「献身」し合っているのだ。
僕はべつに、倫理や道徳の問題として「献身」といっているのではない。それでも、人と人の関係は、もともとそのようなかたちで成り立っている。そうでなければ、ことばの発生の問題はつじつまが合わない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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