やまとことばと原始言語 28・「幼児の幸福」2

<承前>
あるブログで見つけた引用文の孫引きなのだが、
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子供のときには、もっぱら不快、不安、恐れとして、身体と感情でじかに反応するしかなかった事態は、大人になることで少しずつ理解され、克服され、懐柔されていく。なぜかわからないまま、不気味だったり、恐ろしかったりした対象は(それは対象でさえなく、自分の心身そのものと区別がつかなかったのだが)、手なずけられ、退けられ、解釈され、いつのまにか解消される。そのような対象は、しばしば死の脅威に、あるいは性的な次元に結びつき、また大人たちの生活の気苦労やタブーや、歴史的、社会的な事件からやってくる直接、間接のさまざまな不安だったりする。
宇野邦一『他者論序説』(書肆山田2000)>
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このブログの管理人氏は「(それは対象でさえなく、自分の心身そのものと区別がつかなかったのだが)」というところが気に入ったといっておられる。つまりそこに「幼児の幸福」がある、と。
だが僕は、前回のエントリーで「生き物の生は、世界が分節されてあることを自覚するところからはじまる。体が動けば、必然的にその自覚をもたらす」と書いた。そんなことはアメーバだって自覚している、といいたい。
だったら僕の考えは、この人たちと真っ向から対立していることになる。
この人たちは、「幼児の幸福」は「世界が自分の心身そのものと区別がつか」ずに一体化していることにある、と思っておられるらしい。まあ、これが世界の常識なのだ。
「原初の混沌」…世の心理学者や哲学者は、いつまでこんな制度的でステレオタイプな思考に居座っているつもりだろう。
みずからの身体と世界が分節されてあるという前提を持っているから、幼児において、「もっぱら不快、不安、恐れとして、身体と感情でじかに反応するしかなかった事態」が起きるのだ。「区別」がつかなかったら、怖がったり不安になったりするものか。彼らは、自分たちの思考の、その論理矛盾に気づかないのだろうか。
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子供は、おもちゃの電車にだって当たり前のように話しかける。それは、おもちゃと自分との区別がついていないからか。そんなはずはない。「自己と他者」として分節されてあると自覚しているから話しかけるのだ。分節されてあることを止揚する機能としてことばが生まれてきたのだ。おもちゃと自分との分節されてある関係を止揚しようとして、話しかけているのだ。
そしてことばの本質が「伝達」する機能ではないから、話かけることができる。そのとき子供は、分節されてあることの証しとしての自分とおもちゃとのあいだの「空間=すきま」にことばを投げ出している。
伝達されているという確証なんか何もなくても、ことばは発することができる。それは、ことばが、分節の証しとして他者とのあいだの「空間=すきま」に向かって投げ出されるものであるからだ。
そのとき子供は、おもちゃと、たがいにこの世界の孤立した個体であることの不安と怖れをもった存在であるという自覚を共有している。現実問題として共有しているはずもないが、子ども自身には「共有している」という「信憑」があるから話しかけることができているのだ。
つまり、これはこれで、おもちゃに対する「献身」の態度なのである。
子供とは、それほどに嘆きの深い存在であると同時に、そのようにして「他者」と嘆きを「共有」してゆくことによってその嘆きが浄化されるカタルシスを汲み上げながら生きている存在でもある。そこに、子供の不幸と幸福がある。
子供にとっては、おもちゃだって、みずからの不安と怖れを「共有」できる対象なのだ。だから赤ん坊は、ほかの赤ん坊が泣けばすぐもらい泣きしてしまうし、お母さんのしぐさや表情だってすぐ「共有」してゆこうとする。それは、「真似て」いるのではなく「共有」している態度なのである。
「大人になることで少しずつ理解され、克服され、懐柔されていく」のは、世界との一体化されてある関係が分節されてゆくのではなく、分節されてあることの不安や怖れを「克服」し「懐柔」してゆくかたちで逆に一体化してゆくことなのだ。大人は、「解釈する」というかたちで世界と「一体化」してゆくのであり、それは、「分節する」という態度ではない。
世界を「解釈」しない子供は、大人よりもずっと深く世界と自己が分節されてあることを自覚し、止揚していっている。
自己と世界は、あらかじめ分節されてあるのだ。そういうことを、この哲学者は、なんにもわかっていない。
少なくともこのことに関しては、世界中の哲学者がなんにもわかっていない。
現在の発達心理学だって、みんな「子供は世界と分節されていない存在である」という前提で語っているじゃないか。そんな解釈は、大嘘だ。
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生き物は、その根源において、世界との分節された関係を結んだところから生きはじめる。
身体が動いて、身体のまわりに何もない「空間」が横たわっていることに気づいたところから生きはじめる。生まれたばかりの赤ん坊は、その怖れと不安で「おぎゃあ」と泣いている。
人間は、その怖れと不安を深く抱いてしまう存在だから、他者と連携してゆくのだ。
自己と世界はあらかじめ分節されてある、そう考えないと、何もかもつじつまが合わないではないか。
人と人の関係の根源は、この身体とこの世界が分節されてあることの怖れと不安、すなわち生きてあることの「嘆き」をたがいの身体のあいだの「空間=すきま}で「共有」してゆく。それが、ここでいう「献身」という態度であり、人間的な連携の根源のかたちである。
「贈与と返礼」などというかたちで「伝達」し合い「一体化」してゆくことではない。
未開の民族のリーダーは、集団という「空間」に向かって献身してゆき、集団のみんなも、集団に献身するというかたちでリーダーに特権を与えている。それは、リーダーのためじゃない、みんなのためなのだ。そんなこと、当たり前じゃないか。「悲しき熱帯」に書かれてあるアマゾン未開人の生態はそうなっている。それが「贈与と返礼」だなんて、レヴィ=ストロース先生、あなただってなんにもわかっていないどうしようもない俗物だよ。
子供は、おもちゃからの「返礼」のことばなど何もなくても、けんめいに話しかけ「献身」してゆく。そしておもちゃだって、存在そのものにおいてすでに子供に「献身」している。
そのとき子供は、おもちゃから献身されていることに気づいているのであり、彼はその「返礼」をしているのではなく、「献身」し返しているのだ。そこのところ、やつらはなんにもわかっていない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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