やまとことばと原始言語 38・「身体の輪郭」というからっぽの空間

新年の感慨なんかありませんよ。
今年の抱負とか夢なんかありませんよ。
ただもう「身体の輪郭」と「献身」というテーマをうまく片付けたいのだけれど、四苦八苦するばかりだ。
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生き物の基本は、体が動く、ということだ。
体そのものだけでなく、内臓も動いている。動くことをやめるのが、死ぬということなのだろう。
しかし、だからわれわれは、骨や筋肉や内臓のことを意識して生きているかというと、そうではない。そんな対象は、違和感(苦痛)として、すなわち「身体の危機」として意識されているだけで、ふだんは何も意識していない。意識しないことが、通常の生きてある状態である。いいかえれば、そういう「肉体」を意識しないですむようにするのが生きるいとなみだ。そのために生き物は、物を食い、息をしている。
この生が順調に機能しているかぎり、われわれは「肉体」のことは忘れている。
「身体」のことを忘れている、というのではない。われわれは、身体意識で生きている。しかしその「身体」は、「肉体」ではない。
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身体がある、という意識は、環境との関係から発生する。身体のはたらきは、環境に対する反応であって、環境がなければ身体のはたらきもない。もともと意識そのものが世界に対する反応であり、身体それ自体の身体、意識それ自体の意識、などというはたらきはない。
意識は、身体と環境との境界において発生する。この「境界」は、身体でも環境でもない、いわば四次元の空間である。これが、ふだんわれわれが意識している「身体の輪郭」である。
一般的には、この四次元の空間は認識不可能である、ともいわれている。
しかし、それを証明することは不可能であるとしても、人間が「四次元の空間」ということばを持っているということは、何はともあれその空間を「意識している」ということを意味する。
たとえば、自分の意識が頭の中ではたらいていると感じている人間は、まずいない。意識は、頭の外のような、そうでないような、どこかかよくわからないところではたらいている。われわれは、この胸のどこかしらで、意識が「身体の輪郭」という「四次元の空間」ではたらいていることを感じている。
おそらく、この「四次元の空間」のイメージから、「神」や「死=他界」という概念が生まれてきたのだろう。つまり、もともと人間は、実存感覚として「四次元の空間」を意識している存在であり、原始人だって意識していた。
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身体を動かすことは、骨や筋肉や内臓といった器官を動かすことではなく、「身体の輪郭」を動かすことである。
われわれは、身体が動くとき、この「身体の輪郭」を意識している。
アメーバが障害物をよけて動くのも、魚が狭い岩のあいだをすり抜けてゆくことができるのも、「非存在(=四次元の空間)」としての「身体の輪郭」をクリアにとらえているからだ。
生き物は、「身体の輪郭」に対する意識で生をいとなんでいる。
われわれわれは、この「四次元の空間」としての「身体の輪郭」をつねにイメージしながら「生きる」ということをいとなんでいる。この「身体の輪郭」によって、意識は世界と関係している。テーブルの上のりんごを取るのも、まな板で大根を刻むのも、歩くことも走ることも、この「身体の輪郭」と世界との関係をとらえる意識の上に成り立っているいる。
生き物が体を動かすことは、「身体の輪郭」の問題なのだ。この意識によって、この生がいとなまれている。「身体の輪郭」に対する意識こそ、この生の基礎にほかならない。
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われわれは、生まれた瞬間、外気という何もない「空間」に触れ、それによって「身体の輪郭」を意識する。
まったく身体能力を持たない人間の赤ん坊にとって、外気という何もない空間は、ひとつの恐怖である。だから、「おぎゃあ」と泣く。人間ほど生まれた瞬間にけたたましく泣く生き物もいないだろう。
人間は、根源的に、外気の何もない空間に対する恐怖を負っている。
だから、衣装を着る。
だから、他者の身体とのあいだが離れていることに不安を覚え、抱きしめあおうとする。
と同時に、赤ん坊が成長して身体の能力を獲得してゆくことは、外気の何もない空間に対する親密感が芽生えてくることを意味している。この「空間」がなければ、身体は動かない。
われわれは、外気の何もない空間に対する恐怖と親密感を同時に抱いている。そうして、他者の身体とのあいだの「空間=すきま」が広くならないように群れとして密集しつつ、同時に、最低限のところで確保された身体が動くための「空間=すきま」を祝福してゆく。
人間の衣装は、、身体のまわりの空間に対する恐怖から逃れる道具であると同時に、身体のまわりの空間を最小限に確保してゆく道具でもある。
身体のまわりの空間に対する意識のアンビバレントな両義性の上に、人間のいとなみが成り立っている。そのへんの兼ね合いとして、文化が生まれてくる。
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人は、他者と離れていることに不安を覚えると同時に、他者とくっついていることをうっとうしがる。
だから、家族は、うっとうしい。ことに現代社会の核家族のように空間として完結し、たがいに干渉しあう関係になってしまうと、うっとうしくてしょうがなくなる。家族内の他者の存在そのものにいらだってしまう。耐えられない閉塞感を覚えてしまう。
共同体もまた、個人を監視し干渉してくるシステムになれば、うっとうしくて耐え難いものになってしまう。
そんな家族や共同体の秩序を成り立たせるためには、その中のひとりひとりが個人として完結し、それそれぞれがちゃんと分節していなければならない。自我の確立、大陸の共同体や家族は、そのようなコンセプトの上に成り立っている。干渉されても平気なだけの自己(自我)を確立すること、それによって共同体や家族の秩序が正当化されてゆく。
それに対して日本列島の伝統は、共同体や家族に対する意識が薄いぶん、自我も希薄である。
大陸ではすでに4000年前から国家という共同体がいとなまれていたというのに、日本列島で国家が生まれたのは1500年前で、国歌や国旗がつくられたのは、150年前の明治以降のことである。それほどに日本列島の住民の国家という共同体に対する意識は薄い。
また、西洋の一夫一婦制の家族形態が6000年以上の歴史があるのに対し、日本列島でそうした家族制度が定着したのは、中世以降の1000年ほどの歴史しかない。
西洋では、家族制度のうっとうしさに耐えて家族の秩序を維持してゆく装置として、国家という共同体が生まれてきた。
一方日本列島では、国家という共同体に合わせて家族制度が定着していった。つまり、順序が逆である。
もともと日本列島の住民は、家族や国家という共同体に対する意識は薄い。
この両者の対比を<「身体の輪郭」をたしかにする>という人間性の基礎にそっていえば、大陸では、まず家族や共同体という限定された空間の秩序をつくり、そのあとから個々の自我を確立してゆくことによって、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」をつくり、「身体の輪郭」を確保している。
まず集団をつくり、そこから個人を分節(分割)してゆく。これが、大陸における、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」と「身体の輪郭」の確かめ方である。
だから西洋の言語論では、「未分化されている世界を分節してゆくのが言語の機能である」という。
それに対して日本列島では、家族に対する意識も共同体に対する意識も希薄だから、「世界はあらかじめ分節されてある」、という認識からはじまる。つまり、まず誰もが共同体も家族も持たない「ひとりぼっちの存在」なったところから他者との連携を模索してゆく、というかたちで家族や共同体がつくられてきた。
はじめに家族や共同体という集団がある大陸では、そこから「ひとりぼっちの存在」になってゆくことすなわち「自我の確立」が最終的な到達であるのに対して、日本列島では、「ひとりぼっちの存在」であることを前提にして、「ひとりぼっちの存在」=「自我」を捨てながら集団をつくってゆく。
原初の人類は、群れのみんながが自我を捨てていっせいに立ち上がってゆくことによってはじまった。このコンセプトをそのまま洗練させていったのが日本列島の文化であり、人と人の関係の伝統である。
大陸では、人と人の関係から、他者と自分を分節するように「身体の輪郭」を確かめてゆく。他者と自分を分節することが、他者との関係である。他者がいなければ自我は確立できない。だから他者は必要である。
日本列島では、あらかじめ「身体の輪郭」を携えて、他者との関係をつくってゆく。「身体の輪郭」を携えて、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を共有し、祝福してゆく。
大陸では、たがいの「自我」を祝福しあう。共有する「空間=すきま」は、たがいの自我を確立するためのたんなる媒介にすぎない。
しかし日本列島では、たがいの自我を消去し、共有する「空間=すきま」そのものを祝福しあっている。日本列島では「共有」されてあるものを祝福してゆく。自分と相手を祝福するのではない。
したがって日本列島では、「愛」という概念が根付かない。
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たとえば、キャッチボールの恍惚。それは、ボールを受け止める自分の手ごたえや投げる相手を祝福してゆくことではない。たがいのあいだの「空間」にボールが行き交うこと、その「空間」を祝福してゆくことにある。相手がへたくそでも、この「空間」が祝福されているかぎり、よろこびは汲み上げられる。そして、上級者ほどそのよろこびを知っており、鈍くさい運動オンチほど、自分や相手にこだわって、この「空間」で戯れるよろこびを知らない。
上級者は女子供とでもキャッチボールを楽しめるが、中途半端な連中ほど仲間内でしかそれを楽しめないのである。彼らは、「空間を共有する」というキャッチボールのよろこびそのものを知らない。
この「空間を共有する」ことこそ、人と人の関係の根源である。
たがいの自己(自我)を確立してゆくことではない。
赤ん坊がお母さんのすることを真似てよろこぶのは、同じ行為を「共有」することをよろこんでいるのであって、自分も同じことができることをうれしがっているのではない。赤ん坊に、そんな「自己(自我)」はない。
日本列島では、そういう根源を洗練させて人と人の関係をつくってきた。
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われわれ生き物は、「四次元の空間」である「身体の輪郭」で体を動かし、世界と関係して生きている。
生き物は、そういう「身体の輪郭」という身体感覚を持っている。この身体感覚から、日本列島の人と人の関係やことばの文化が生まれ育ってきた。
生き物にとっての「身体」は「肉体」ではない、たんなる「空間」なのだ。
日本列島の「かみ」は、たんなる「空間」である。
われわれわれは、初詣の神社の建物に手を合わせているのではない。神社という「空間」を体で感じているのだ。そのからっぽの「空間」が「かみ」である。
「神域」という。日本列島の神社は、その敷地の「空間」そのものが「かみ」になっている。初詣をするわれわれは、そのとき体ごと「かみ」の中に入っているような心地になってしまう。建物に手を合わせているのではない。まあそういう心地は、なんのかのといっても伊勢神宮の森の中に立てばいちばんよくわかる。だから「パワースポット」などといわれる。
それは、「四次元の空間」のイメージである。われわれは、生き物として、先験的にそういうイメージを持っている。
ことばが生成しているたがいの身体のあいだの「空間=すきま」も、具体的な空間であると同時に「四次元の空間」でもある。ことばが生成している空間も「かみ」の空間なのである。だから「ことだま」という。べつに現世的なご利益をもたらす「ことばにやどる霊力」などということではない。原始人に、現代人のごとき、そんな通俗的な損得勘定はない。あくまで人間として生き物としての「四次元の空間」に対するイマジネーションとして、そういうことばが生まれてきたのだ。
われわれは、「四次元の空間」としての「身体の輪郭」で体を動かし、他者と関係している。
その「身体の輪郭」は、「肉体」の持ち主としての「自己=自我」が消去されることによって浮かび上がる。われを忘れた「出会いのときめき」は、そのようにして体験される。
つまりですよ。自分の計画通りに生きることのできる人よりも、我を忘れて捨て身で生きている人のほうが深く豊かに「出会いのときめき」を体験しているということですよ。
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長くなりすぎたので、結論を急ごう。
「出会いのときめき」とは、自分を捨てて他者に「献身」してゆくことである。何かを「贈与」するとか、そういうことではない。
下手な女子供とキャッチボールを楽しんでいる野球の上級者は、空間を祝福しつつその空間に「献身」している。他者に「献身」するのではない。他者と共有している「空間」に「献身」してゆくのが、生き物としての人間性の基礎である。
日本列島の人と人の関係は、「肉体=自己」がからっぽになった「空間(=身体の輪郭)」が浮かび上がるカタルシスとしてつくられている。
べつに「世のため人のため」に「献身」するんじゃない。「嘆き」を抱えて生きているものは、そういうかたちで生きてあることのカタルシスを汲み上げる、というだけのこと。
誰だって、生きてあることの「けがれ」を自覚している。幸か不幸か、われわれはそういう「けがれ」の自覚から逃れられない民族なのだ。
ああ、結論どころか、また振り出しに戻ってしまった。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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