とりあえず

晦日ですね。
といっても、とりたたて書くべき感想もない。
ちょいと忙しい、かな。
「身体の輪郭」についてもう少し考えてみたいのだけれど、その余裕がない。
それでも何か書いておかねば、という強迫観念があるのは、大晦日だからだろうか。
われながら、俗物だ。
前回のエントリーの続きでいえば、僕は現在のマスコミで「弧族(こぞく)」と呼ばれている人たちが増えてきている現象に対して、世の知識人のように上から目線で「困ったものだ」などというつもりはない。
それは、より切実に人と人の関係が模索されている現象だろうと思っている。そして、人と人の「出会いのときめき」は彼らこそが体験しているのであって、マスコミに出てきて時代をリードしているかのようなえらそうなごたくを並べている連中が知っているのではない、と思っている。
僕は、「弧族」と呼ばれている彼らと連帯したいし、人と人の「出会いのときめき」について彼らに問いたいことがある。そういうことは、ひとりぼっちの人間がいちばんよく知っているし、いちばん深く切実に体験している。
人とつるんでいい気になっているおまえらじゃない。内田樹先生、あんたのことだよ。
生きてある一日一日が切実なら、大晦日もくそもないにちがいない。
一日一日を生まれ変わったような気分で生きていられるなら、大晦日など必要ない。しかし世間の垢にまみれて生きていれば誰しもそういうことができなくなってくるから、その垢を洗い流す「みそぎ」の日としての大晦日が必要になる。
みそか」というやまとことばは、たぶん「みそぎ」からきている。それが語源だ。「晦日」の「晦」という字は、「悔い改める」の「悔」でもある。月齢三十日の日、すなわち、満月だった月がとうとう消えてなくなってしまう日、月だって悔い改めて「みそぎ」をしている、と古代の日本列島の住民は考えていた。
晦日とは、一年を振り返る日ではない。この一年のすべてを清算する日だ。すべてをちゃらにして出直す。そうすれば、明日の元旦を「出会いのときめき」とともに迎えられる。
生まれたばかりの子供のようなからっぽの心でなければ、「出会いのときめき」は体験できない。
しゃらくさい「大人の知恵」などいらない。
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/