やまとことばと原始言語 35・「非存在」としての身体の輪郭

他者の身体とぶつかり合うことは、「身体の輪郭」があいまいになるというか、「身体の輪郭」が侵食される体験である。
限度を超えて密集した群れの中に置かれている人間は、先験的にこのうっとうしさを負って存在している。原初の人類は、このうっとうしさから逃れて二本の足で立ち上がっていった。それは、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」を確保すると同時に、みずからの「身体の輪郭」に気づいてゆく体験でもあった。
身体の輪郭がクリアになっていなければ、生き物の身体は動くことはできない。身体の輪郭が自覚されているからこそ、アメーバは障害物をよけて動くことができるし、海の底の魚は狭い岩のあいだをすり抜けてゆくことができる。
「身体の輪郭」は、「身体」ではない。身体であって身体ではない。
われわれが体を動かすとき、ふつう、筋肉や骨や内臓は意識していない。意識していないときほど、体はうまく動いている。筋肉や骨や内臓は、「違和感」として意識されているだけである。
意識の主観性においては、「身体」が動いているのではない。「身体の輪郭」が動いているのだ。
「身体の輪郭」は、「身体」ではない。身体と外の世界(空気)との「境界」である。それは、身体であって身体ではない。世界(空気)であって世界(空気)ではない。
いわばこの世界ではないひとつの「他界」であり、「非存在」としての「四次元の空間」である。われわれは、この「四次元の空間」としての「身体の輪郭」で体を動かしている。
つまり人間は、そういう「四次元の空間=他界」の意識を先験的に持っている。生き物として体が動くということ自体が、「四次元の空間=他界」に対する意識(イメージ)でなされているのだ。
おそらくこの意識(イメージ)から「神」という概念が生まれてきたのだ。人間はもともと「神」という概念を生み出すような意識のはたらきを持っている。
「身体の輪郭」は、いうなれば「神の住処」である。「身体の輪郭」のうちがわに、筋肉や骨や内臓としての「身体」はない。それは、からっぽの空間である。そこに、神が住み着いている。
少なくとも日本列島の伝統的な「かみ」は、そのようにイメージされている。この国においては、いわしの頭だろうと、森羅万象のすべてに「かみ」がやどっている。それは、「身体の輪郭」が「非存在」としての「四次元の空間=他界」だからだ。
では、このイメージを、人類はいつどこで発見したのか。おそらく、直立二足歩行をはじめたときに、すでに発見されていた。
つまり、「身体の輪郭の危機」において「身体の輪郭」を発見したのだ。
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人間が限度を超えて密集した群れの中に置かれてあるということは、つねに「身体の輪郭」の危機にさらされているということであり、二本の足で立ち上がっているということは、その危機が回避されるカタルシスが汲み上げられているということでもある。われわれの生は、この「けがれ」と「みそぎ(カタルシス)」の振幅として成り立っている。
「けがれ=身体」に対する「みそぎ=身体の輪郭」。
先験的な「みそぎ(カタルシス)」などというものはない。「けがれ」がそそがれてゆくことを「みそぎ」という。「けがれ」の自覚がなければ、「みそぎ」というカタルシスも生まれない。
人間は、直立二足歩行のカタルシスを体験したことによって、「身体の輪郭の危機」に身を置こうとする習性を持ってしまった。
人間は、みずから人ごみの中に入ってゆく。スタジアムの熱狂は、その限度を超えて密集した状態の中に置かれてあることの「うっとうしさ=身体のけがれ」を忘れてゆくことと引き換えに「身体の輪郭」が浮かび上がるという「みそぎ(カタルシス)」の体験にほかならない。
よく「無我の境地」などという。スタジアムの熱狂だって、「無我の境地」なのだ。それは、「自分=身体」に対するうっとうしさを深く味わいつくしたところから生まれてくる。「自分=身体」のことなんか忘れてしまいたい、という契機がなければ忘れられるはずもないだろう。そのうっとうしさを味わい尽くしたものが忘れることができるのだ。
世の人格者や仏教オタクや多くの坊主のような「自分=身体」をまさぐることばかりにうつつを抜かしている連中のもとにその境地が訪れるのではない。
「身体の輪郭」は、「身体の輪郭の危機」において浮かび上がる。直立二足歩行をはじめた人類はそういう体験をしてしまったのであり、それによって「神」を発見し、現代社会に暮らすわれわれも、そうやってスタジアムや狭いディスコでひしめき合いながら熱狂している。
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子供にプレゼントを持ってやってくるサンタクロースと、子供を恐怖に震え上がらせるこの国の「なまはげ」という来訪神と、いったいどちらが原初的な「神」のかたちをしているだろうか。
この対比は、大陸の「からごころ」と日本列島の「やまとごころ」の対比でもあるのかもしれない。
西洋では、まず共同体や家族という集団の秩序が重んじられる。そのためのサンタクロースだ。
しかし「なまはげ」は、雪に閉じ込められてまどろんでいる共同体(村)や家族を揺らしにやってくる。そのとき「なまはげ」を迎えるものたちは、恐怖とともに「身体の輪郭の危機」に陥る。そうして、世界に溶けてしまっていた「身体の輪郭」があらためて浮かび上がってくる。
「身体の輪郭」は、世界との緊張関係において浮かび上がる。
いったんけがれないと「身体の輪郭」は浮かび上がってこない……これが、「なまはげ」のコンセプトである。
いったんけがれた存在として世界との緊張関係を持ち、そこから「身体」を消去しながら「身体の輪郭」を浮かび上がらせ、カタルシスを汲み上げてゆく。これが、「やまとごころ」の「かみ」に対する態度である。
「身体の輪郭」という「非存在」の空間、ここに「かみ」が宿っている。
「けがれ」の自覚によってしか世界との緊張関係は生まれない。直立二足歩行をはじめた原初の人類もまた、この自覚と世界との緊張関係から二本の足で立ち上がっていったのだ。
一方西洋のサンタクロースは、世界との親密感をもたらす。しかしこれによって、「身体の輪郭」は世界に溶けてあいまいになってしまう。彼らの緊張は、異民族との関係によってもたらされる。そのときにはじめて「身体の輪郭」が浮かび上がる。彼らの観念における「身体」は、「共同体」であり「家族」である。そして彼らには「身体を消去」するという意識はない。その「共同体という身体」は、「存在」であらねばならない。「存在」であることを止揚して異民族と戦う。
したがって彼らにとっての「神」もまた、「存在」としてイメージされている。
彼らは、異民族という他者を征服する。彼らに「けがれ」の自覚はない。
彼らの観念において、「身体」は「共同体」であり、みずからの「身体=自己」は細分化された「共同体」にほかならない。だから「身体=自己」は、他者と戦う、あるいは交易する。彼らには、直立二足歩行をはじめた原初の人類のような「けがれ」の自覚がない。自分たちの群れが限度を超えて密集してあることに対する「うっとうしさ=違和感」がない。彼らの群れは、ちゃんとした「秩序」を持っている。群れは、秩序であらねばならない。だから、サンタクロースはプレゼントを持ってくる。
そしてこの国の「なまはげ」は、「世界との緊張関係」をもたらすために、いったん共同体や家族を解体する存在としてやってくる。共同体や家族の中で停滞しまどろんでいるけがれた心を揺り動かしにやってくる。
まあ、サンタクロースと「なまはげ」では、えらい違いである。共同体を止揚する「からごころ」の民族と、共同体の中に置かれてあることの「けがれ」を自覚する「やまとごころ」の民族との対比がある。
「やまとごころ」には、原初の実存感覚がある。日本列島の住民は、それによって連携してゆく。「けがれ」を自覚しながら「献身」し合うという関係を模索してきた。直立二足歩行をはじめた原初の人類のように。
とはいえ、人間ならどこかで「けがれ」を自覚しているのだ。文化の違いはあっても、西洋にだってもちろん「献身」し合う関係はあるにちがいない。
気に入らないのは、その観念的な西洋文化こそ人間の根源的なかたちを実現しているという、その傲慢で怠惰な思考であり、この国にもそんな思考に追従している知識人がたくさんいる、ということだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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