やまとことばと原始言語 36・才能って何?

若者は、その胸のどこかしらで「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いを抱えている。
これは、直立二足歩行をはじめる前夜の人類が、限度を超えて密集した群れの中で体ぶつけ合いながら抱いていた思いと同じだろう。ここにいたいし、ここにいるしかないのだけれど、それでも体をぶつけ合っていれば、そういう不安定な気持ちになってしまう。
限度を超えて密集しているのに、誰も逃げ出そうとしなかったし、誰も追い払おうとはしなかった。そうして誰もが「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いにせかされて、二本の足で立ち上がっていった。もう、立ち上がってゆくしかなかった。そこにしか逃げ場がなかった。
限度を超えて密集した群れの中に置かれている人間存在は、つねにそういう追いつめられた思いを胸の底に抱いているのではないだろうか。人間は、そういう思いを抱くほかない存在の仕方をしている。そして、この生きてあることのいたたまれなさを契機にして文明を発達させてきた。
才能とは、生きてあることのいたたまれなさのことだともいえる。
毎日一人でお絵描きばかりしている子供がいる。そんな子供にも、そうせずにいられないわけがある。何かしらの生きてあることに対する違和感を、そういうかたちで宥めているのだ。そういう契機がなければ、お絵描きに夢中になることもない。
人間は、何かをせずにいられない「契機」を持っている。それによって文明が発達した。知能によって文明が発達したのではない。生きてあることのいたたまれなさという、何かをせずにいられない契機があったからだ。知能の発達は、その「結果」であって、「契機=原因」ではない。
そういう「契機」を持っていることを、才能という。
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才能とは天から授かりものである、という。
内田樹先生は、そこで、だから才能は、自分のものだとは思わずに人に分け与えることに使わなければならない。私利私欲のために才能を使っていると必ず枯渇する……というようなことをいっておられる。そうして、
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自分は世のため人のために何をなしうるか、という問いを切実に引き受けるものだけが、才能の枯渇をまぬかれることができる。「自分は世のため人のために何をなしうるか」という問いは、自分の才能の成り立ちと機能についての徹底的な省察を要求するからである。
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だってさ。
「天からの授かりもの」という俗論をそのまま利用して論を立てようなんて、まったく安易で、この人には思想家としての才能があるのだろうか、と思ってしまう。
「人間であることの才能」というものがある。人間には、せずにいられないことがある。それほどに人間は、生きてあることのいたたまれなさを抱えて存在している。そのいたたまれなさが才能なのだ。
人間とは何かということを考えるなら、「天からの授かりもの」というだけではすまないだろう。
内田先生、あなたはどうしてそんな安直な思考しかできないのか。思想家としての才能がなさ過ぎるんだよ。
「世のため人のため」だろうと「個人的」だろうと、人間なら「せずにいられないこと」があるのだ。それが、才能だ。人間であることが才能なのだ。われわれは、そこから考え始める。
「世のため人のため」なら才能がどんどん充実開花していって「個人的」ならすぐ枯渇するだなんて、そんな絵に書いた餅みたいなことをいうなよ。そんな人を脅迫するようないい方をして何がうれしいのか。何もかも自分に都合のいいように決め付けてしまおうなんて、人間としての品性を疑うよ。ようするに、あなたがそう思いたいだけだろう?あなたは、個人的な才能を嫉妬している。
才能が乏しいやつにかぎって、「世のため人のため」などというお題目で自分を正当化しようとする。そういうお題目で、自分の才能のつたなさを隠蔽しようとする。
「世のため人のため」だろうと、「個人的」だろうと、人間はせずにいられないことにうながされて才能を開花させてゆく。
しかし才能といっても、時代や国によってさまざまだ。この国で無能でも、別の国や時代では有能であったりする。伊藤リオン容疑者だって、戦国時代に生まれたら、ひとかどの武将になったかもしれない。
才能はどのように生まれ育ってゆくかということはもう、その人の個人史や時代とのかかわりやら、いろいろややこしい要素がある。そのことを「天からの授かりもの」だといってしまえば簡単だが、思想として語るなら、そうもいかないだろう。
そして何を持って才能というかも、一概にはいえない。金になる才能もあれば、成らない才能もある。「世のため人のため」になる才能もあれば、「個人的」な才能もある。
芸術家の才能とスポーツ選手の才能は同じではないし、それらの才能が「世のため人のため」というお題目で花開くわけもないだろう。
だいたい、人間が二本の足で立って歩きことばを話すこと自体が、猿から見れば天才的なことにちがいない。しかし人間はそれと引き換えに、運動能力や視覚や嗅覚など、さまざまな才能を喪失しまっている。
内田先生だって、「世のため人のため」というお題目を連呼して自分に執着することによって、鈍くさい運動オンチになってしまっているし、セックスの話題を敵対視する人格者ぶったインポオヤジの役回りになっているし、「常識」ということばにすがって思考の荒野に分け入ってゆくことのできない限界もさらしてしまっている。
「世のため人のため」ということで自分を正当化し飾ろうとするエゴイズムに対して、無邪気に好きでやっているだけの人間のほうが、あんたなんかよりずっと才能があったりする。
人間は、世のため人のために生きなければならない義理なんか何もない。
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「無用の人間」にしか見えない人間の真実もある。
徹底的に「無用の人間」になることが才能を枯渇させない方法になっている場合もある。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、「モナリザ」の絵を、誰にも渡さずに死ぬまで自分のところに置いておいた。私利私欲だけでそれを描き、それが彼の最高傑作になった。
西行は、世のため人のためという使命感を捨てて歌人になった。そうして、「無用の人間」としてみずからの美意識に殉じていった。
内田先生、才能というのは、あなたがいうほど単純なものではないのですよ。そんな陳腐な図式で人間を語るなよ。
芸術的な才能は、おおむね「世のため人のため」というかたちで成り立っているのではない。とくに日本の和歌は、「世のため人のため」などということを考えない「無用の人間」のほうが才能がある。それは、やまとことばが、共同体の規範とは遊離したところで成り立っているからだ。
日本列島の住民の心は、共同体の秩序によっては癒されない。われわれの時代は今、家族や共同体の秩序よりも、恣意的な人と人の関係を模索し始めている。
「世のため人のため」という態度を、この国では「はた迷惑」という。
少なくともこの国の伝統的な文化においては、「世のため人のため」というところから離脱してゆく才能が大切にされてきた。
世の中にはなんの役にも立たないことにとことん打ち込んで大発見した才能もある。
何はともあれ、「世のため人のため」という「公共性」を解体したところで日本的な才能が花開く。芸術的な才能であれ、人と連携してゆく才能であれ、それはもう、どうしようもなくそうなのだ。そういう「やまとごころ」のかたちがある。いま僕は、そのことについて考えている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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