「世のため人のため」だってさ、くだらね

他者に対する関心や好奇心の希薄なものたちは、他者を分析する。
つまり、自分の物差しで他人を決め付けてしまう。
おまえがそうだからといって他人もそうだとは決まらないんだぞ。
他者を分析することで、他者に対する関心を消去する。関心を持ちたくないのだ。だから、ひとまず分析して、こんなものだと決め付けてしまう。自分の都合のいいように決め付け、もう関心を持つ必要のない相手だということにしてしまう。自分の中で、相手を抹殺してしまう。それが、他者を分析する、という態度だ。
彼らは、自分の尺度では測れない人間を認めない。だから、他人を、無理やり自分の尺度で測って安く見積もり、わかった気になって安心しようとする。
安心できるのかねえ。
安心するために、いつも仲間とつるんでいなければならない。仲間とつるんで、自分の物差しで測れない人間なんかいないと安心してゆく。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内田樹先生は、ことし神戸女学院大学教授の座を退職するに際して、今、いつも仲間とつるんでいられる自分のお城の建設に取り掛かっておられるのだそうな。
そこで、お山の大将として君臨するんだってさ。仲間を集め、他人をたらしこむことにせっせと励まれるんだってさ。内田教の教祖様におさまるんだってさ。
私塾を開いて、現代の吉田松陰になるんだってさ。具体的なことをいえば、松下政経塾に対抗するような組織にして、政界や財界やマスコミに人を送り込み、この社会を牛耳ってゆきたいのだろうか。「世のため人のため」というお題目で着飾りながら、どこまでも権力欲を追求してゆくおつもりらしい。
ついでに、文学賞を取りたければ内田塾に入るにかぎる、というようにしたいんだろうね。はたしてそういう人材が集まり育ってゆくかどうか。
つまり、そうやって仲間内でつるむということを拡大してゆき、この世の中から自分たちの物差しに合わない人間を一掃したいらしい。
僕は、内田批判を続け、内田先生や先生の言説にすがっている連中の態度をしんそこくだらないと思っているのだが、だからといって彼らをこの社会から一掃してしまいたいとなんか、つゆほども思っていませんよ。
そりゃあ、この社会は、彼らのものですよ。僕なんか、彼らのお情けでこの社会の隅っこの置いてもらっているだけです。だから、いつ一掃されても仕方がないという覚悟だけはしていますよ。
「世のため人のため」なんて、思ったこともないですよ。だって、何が悲しくて僕が、あの連中を安心させたり持ち上げてやることをいわなければならないのですか。
まあ、世の中は、あの連中のものですよ。でも僕は。あの連中のために生きるつもりはない。あの連中を安心させるための言説を発信するつもりなんか、さらさらない。
逆に、あの連中のいうことなんか、つまり「世のため人のため」という言説なんか徹底的に疑ってゆく。
「世のため人のため」という発想や態度があの連中を安心させることであるのだろうが、われわれは、そんな安心などいらない。
内田先生は、自分は「世のためひとのため」に生きていると自信満々でいらっしゃる。われわれ隅っこで生きている人間の神経を大いに逆撫でし、はた迷惑になっていることなど、まるで気づこうともしない。というか、われわれも内田先生みたいな考えになれと脅迫してくる。なれないのならおまえらなんぞ生きている必要などないと、なれないわれわれを徹底的にさげすみ、おちょくり、否定してくる。
この世からわれわれみたいな人種を抹殺しようとされているらしい。
まあ、でないと、先生の「世のため人のため」という態度が正当化されないからね。
われわれは、内田先生の存在を否定してなんかいないですよ。内田先生に「変われ」となんかいっていないですよ。ただ「あんたみたいな鈍くさい運動オンチのインポオヤジのいうことなんかくだらないから真似しようとも思わない」、といっているだけだ。そんなふうに生きたければ勝手に生きればいいが、われわれに「変われ」とせまってくることに対してだけは、徹底的に抵抗する。
内田先生の言説のもとに人間の真実が存在するとはぜんぜん思わないし、おまえの都合のいいようにおまえに勝手に決められてたまるものか、と思っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「世のため人のため」などと正義ぶる前に、自分の存在が他人のはた迷惑になっていることを少しは自覚してもいいんじゃないの。それこそが「人間性の基礎」なんだよ。
原初の人類は、自分の身体の輪郭が他者の身体のまわりの「空間」を侵食していることを自覚し、そこから、自分の身体の占めるスペースをできるだけ狭くとろうとして二本の足で立ち上がっていった。
「世のため人のため」というお題目を掲げて「自分=自我」を拡大してゆくことが、人間性の基礎であるのではない。自分の存在が他人のはた迷惑になっていることを自覚し、できるだけ「自分」の領域を狭くしてゆくことこそ人間性の基礎であり、人間としてのたしなみなのだ。
「世のため人のため」といってはしゃぎまくり、自慢ばかりしていやがる。正義ぶって善人づらばかりしていやがる。
醜悪だよね。グロテスクだよね。しかも、その醜悪とグロテスクにあこがれているやつらがこの世の中にはわんさかいやがる。たしかにこの世の中はおまえらのものだが、われわれがおまえらの真似をしなければならない義理なんか何もない。
人間は、自分の存在がはた迷惑になっているという自覚によって二本の足で立ち上がっていった。そういう「つつしみ」や「嘆き」こそ、人間性の基礎であるのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間は、その胸のどこかしらに「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いを抱えて存在している。
人間は、他者の前で自分を消そうとする。自分を捨てて他者にときめいてゆく。これが、「献身」という態度だ。「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いを抱えている人間存在は、「自分=自我」が消えることにカタルシスを覚える。我が物顔で世の中にのさばり、そういうタッチを持っていない人格者が、はやばやとインポオヤジになってゆく。彼は、世のため人のために生きている自分に対する満足だけがあって、他者の存在にときめきながら自分の存在が消えてゆくというカタルシスを知らない。
世のため人のために生きているという満足よりも、生きていてもうしわけないとか生きているのがつらいという「嘆き」とともに、消えてゆこうとする衝動を持っている人のもとに生きてあることのカタルシスはもたらされるのであり、より切実で味わい深い他者との連携が実現されているのだ。
仲間内でつるんでいるだけの浮かれた空騒ぎなんか、うらやましくもなんともない。
ひとりぼっちの人間の切実な他者に対する献身や、そこで汲み上げられている生きてあることのカタルシスは、おまえらには永久にわかるまい。
何のかのといっても、世の中のもてる男の多くはそういう気配のいくぶんかはどこかしらに漂わせているものであり、それにさ、でないと君たちももうすぐインポオヤジの仲間入りだよ、ということ。
われわれの心は、この人とは生きてあることのカタルシスを共有できそうだというその気配に引き寄せられるのであって、人格者ぶったインポオヤジと共有できる自己愛など持ち合わせていない。そういうオヤジが女房に逃げられることだって、そりゃあいくらでもあるだろうさ。
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/