「指南志向」だってさ

内田樹先生が、「教化的ということについて」というタイトルのブログ記事を書いておられた。
それは、朝日新聞が、世の中の成功した人を引き合いに出して、われわれもこのように生きようというような記事ばかり書いていることに対する批判で、そんな成功者のことばかりいわれていたら、そうした成功とは無縁の庶民はいやになってしまうではないかという。
それはまあそうなのだが、しかし内田先生だって、毎度自慢話を垂れ流しながらおまえたちも私のように生きよと吹きまくっているではないか。そのことは、なんと言い訳するのか。
われわれからしたら、先生の「私のように生きよ」という言い草のほうがずっとえげつなくたちの悪いおせっかいだと思うのだが、自分はそんな言い方などいっさいしていないという。
よくそんな厚かましいせりふが吐けるものだ。頭おかしいんじゃないの。ぼけてきているのかな。
退職記念のパーティを大々的にやるとか、そのあとみんなで南の島にバカンスに行くとか、今度仲間を集めるお城を建てるとか、去年は新書大賞をもらったとか、私には社会的なアドバンテージを得るだけの「才能」があるとか、このところ、成功者然として、そんな自慢話ばかり吹きまくっているじゃないか。そうして、私みたいに「世のため人のため」に生きよ、とえらそうに命令しているじゃないか。
自分の存在が「世のため人のため」になっているという、そのくそあつかましい思い込みはなんなのだ。
人間は、限度を超えて密集した群れの中で生きている。したがって、先験的に、存在そのものにおいて、すでに他者の領分を侵してしまっている。そういう自覚なんて、おまえらにはかけらほどもないのだろう。
先生のその記事はまず、こんなふうにはじまる。
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朝日新聞には強い「指南志向」がある。メディアが国民に進むべき道筋を提示するのはその本務であるから、異とするには当たらないが、三日ほど読んでいるうちに、だんだん腹が立って来た。
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まるで、自分にはそんな「指南志向」などさらさらない、といわんばかりではないか。
何いってやがる。
あなたこそ、この社会や他人の人生のことを、こうすればいいああするべきだと、朝日新聞顔負けの「指南」を毎度飽きもせず吹きまくっているではないか。あなたの書いたものを「三日ほど読んでいるうちに、だんだん腹が立って来た」人間はこの社会にいくらでもいるんだぞ。そういうえらそげな「指南志向」が自分には何もないような顔をして、よくそんなくそ厚かましいことがいえるものだ。面(つら)の皮千枚張りの、どうしようもない偽善者だな。
そして先生は、話をこう結んでいる。
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私は共同体は「弱者ベース」で制度設計されるべきだと思っている。癒し、支援し、教育する。その三つの要素が整っていなければ持続的な共同体たり得ない。私たちの社会の喫緊の問題は「それを利用できるだけの社会的能力を欠き、市民的成熟に達していない人々」をどう癒し、支援し、成熟に導くかということなのである。朝日新聞にはそのような問題意識がないとは思わない。けれども、そのために「サクセスしている人たちをロールモデルとして提示して、羨ましがらせる」という方法にもっぱら頼っていることを残念に思うのである。
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<私たちの社会の喫緊の問題は「それを利用できるだけの社会的能力を欠き、市民的成熟に達していない人々」をどう癒し、支援し、成熟に導くかということなのである>……これこそまさに「指南志向」丸出しの言い草ではないか。
おまえのその自信満々の「市民的成熟」とやらがこの世の「弱者」と呼ばれている人たちにとってどんなにはた迷惑なものであるかということが、どうしてわからないのか。
いや、わかるはずないよね。わかったら、そんなくそあつかましいことはいえない。
市民的成熟であろうとなかろうと、聞かれてもいないのにああしろこうしろなどというもんじゃない。彼らが、おまえの教育的指導に従わねばならない義理なんか何もない。
この世の中の「弱者」は、おまえに癒されているか。
この世の中の「弱者」は、おまえに支援されているか。
この世の中の「弱者」は、おまえに教育されているか。
ぜんぶ、「ノー」だ。
下流志向」をはじめ、弱者や若者をさげすむようなことばかりいっているおまえに、弱者が癒されているなどということがあるはずないじゃないか。
おまえに癒されているのは、おまえと同じように弱者をさげすんでいる連中ばかりだ。弱者をさげすみながら、弱者を癒し支援しているつもりになっているおまえらの偽善を一緒になって正当化しているだけじゃないか。
日本列島においては、弱者の心を癒し弱者を支援しているのは、いつの時代も弱者なのである。おまえらの薄っぺらな脳みそではわかるまい。
たとえば、古代の貧しい乞食や旅の僧に握り飯や衣類やわずかな銭を与えていたのは、富裕なものたちではなく、貧しい農民たちだったのだ。
そして現代のネット社会においても、貧しいシングルマザーどうしや、職を失ったものどうしの情報交換や相互支援のネットワークが生まれつつある。
日本列島には、弱者どうしの癒しと相互支援の伝統がある。
退職記念にみんなで南の島に行く、道場と塾を兼ねたお城を建てて仲間を集める、などと浮かれているおまえなんぞが弱者を癒し支援しているのではない。
脳みそがお花畑でろくにものを考える才能のない連中が、仲間内で自分たちを正当化するへりくつをでっち上げて慰め合っているだけじゃないか。そんなおまえらが、弱者を癒し支援する、などとしゃらくさいことをいうな。まったく、頭にくる。
現代社会は、こういう欺瞞のかたまりみたいな言説にたやすくしてやられている思考停止した「市民」が分厚い層となって社会を占拠し、いわゆる「弱者」たちを追いつめている。僕はそれを、憎む。
内田樹なんて、ただの単細胞のオタク野郎じゃないの。文句がある人は、誰でもいってきなさいよ。逃げはしない。
内田先生の発言で、いったいどれだけの弱者が癒され支援されているのか。
いっちゃなんだけど、先生より僕のほうがずっと弱者の心に届くことをいっているし、その手ごたえも、ささやかながらないわけではない。
悪いけどこっちは、あの先生みたいに口からでまかせの欺瞞を野放図に垂れ流しでいるのではない。つねに自分の根拠を確認しながら、その場の都合であっちにぶれたりこっちにぶれたりというようなことはいっていない。
内田先生より、僕のほうがずっと深く遠くまで考えている。
そうではない、内田先生のほうが深く遠くまで考えている、という人がいるのなら、その根拠を示して見せてくれよ。
いいたかないが、内田先生より僕のほうがずっと、「指南志向」とは無縁のところでものを考え発言している。
僕は、「いかに生きるべきか」という問題など存在しない、という原則でものを考えている。他人の「指南志向」を非難するなら、それくらいの覚悟をしてからにしろ。いつも作為的に考え、若いときからずっと作為的に生きることしかできなかっただけのくせに、その場の思いつきで何をかっこつけたことほざいていやがる。何よりつねに、自分で自分に「指南」して生きてきた人間なのだから、他人に対しても「指南」したくてうずうずしているのだろう。
だから「教育する」などという。ただの教育したがりが、「指南志向」が気に食わない、だってさ。笑わせやがる。自分のいっていることのその矛盾に頬かむりしながら、しれっとしてよくそんなことがいえるものだ。詐欺師め。
したがって僕の思考が、内田先生のごとき単細胞の俗物に負けるわけがないし、負けてはならない。
こちらは、行き当たりばったりの成り行きまかせで生きてきたのだ。それなりに支払ったものはあるし、そこで見つけたものもある。少なくとも、内田先生ほどのべたべたした「指南志向」はないし、内田先生よりもずっと、思考の闇や荒野に分け入ってゆくだけの「契機」は用意しているつもりだ。
誰よりも「指南志向」が旺盛な人間が、他人の「指南志向」を非難してやがる。蛇が、自分の体を尻尾から飲み込んでいるようなものさ。グロテスクだよねえ。おぞましいよねえ。寒気がしてくる。
おまえの教育的指導で癒されている弱者など一人もいない。弱者を追いつめている連中の思考停止した脳みそが癒されているだけさ。
おまえら、自分の脳みそが思考停止していることに焦っているんだろう。
こんなこといわれたら、反論して、僕みたいな人間は叩き潰してしまいたいだろう。
文句があるなら、いってこいよ。
くそくだらない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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