「弱さ」とは何か

またまた内田樹先生が癇に障るようなことを自身のブログに書いておられるので、その反論をもう一回書いておきます。
僕は、先生の提唱する「世のため人のため」というお題目が大嫌いである。
しかし、だから自分勝手に生きればいいといっているのではない。
僕はべつに内田先生のいう「イデオローグ」でもなんでもないから、人にどう生きよなんていう趣味は持ち合わせていない。
ただ、今の時代は、共同体や家族の秩序よりも、もっと直接的な人と人の関係を切実に問う傾向になってきており、その人と人の関係の根源は、先生のいう「贈与と返礼」にあるのではなく、たがいに自分を捨てて「献身」していくことにある、ということを直立二足歩行やことばの起源とからめて考えているところである。
何はともあれ先生の現在の敵は、「世のため人のため」というお題目が嫌いな連中なんだってさ。
で、こんなふうに語っておられれる。
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生身の政治学について私たちが忘れかけたころに、再び「それ」は別の意匠をまとって戻ってきた。私たちの前にいる政治的ポピュリズムである。ポピュリズムとは、「生身を偽装したイデオロギー」である。コロキアルで、砕けた口調で、論理的整合性のない言説を、感情的に口走ると、私たちはそれを「身体の深層からほとばしり出た、ある種の人類学的叡智に担保された実感」と取り違えることがある。そのことを一部の政治家とイデオローグたちは学習した。侮れない人々である。
彼らの語り口は私や平川くんや高橋さんのそれと表面的には似ていなくもない。コロキアルでカジュアルな文体の上に、学術的なアイディアや政治的な理念が乗っている。でも、彼らの話の方がずっと分かりやすい。彼らは「プロレタリアの苦しみ」の代わりに「普通の人間である、オレの利己心と欲望」をベースに採用した。
おい、かっこつけんじゃねえよ。お前だって金が欲しいんだろ?いい服着て、美味い飯を喰いたいんだろ?それでいいじゃねえか。隠すなよ。他人のことなんか構う暇ねえよ。自分さえよければそれでいいんだよ。
そういう「リアルな実感」の上に「やられたらやり返せ」というショーヴィスムや市場原理主義や弱肉強食の能力主義の言説が載っている。
私たちの言葉と彼らの言葉をわかつのは、そのような下品な言葉に生身の人間は長くは耐えられないという 、私たちの側の「弱さ」だけである。弱さは武器にはならない。けれども、最終的に人間性を基礎づけるのは、その脆弱性なのだと私は思う。
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例によって空疎なかっこつけだ。
そこでわれわれが、「あんたのいうことにはハートがともなってないんだよ、作為的なかっこつけでそういってるだけじゃないか」というと、先生によれば、それは、ルサンチマン丸出しの「生身を偽装したイデオロギー」だということになるらしい。
しかしねえ、いまどき「おい、かっこつけんじゃねえよ。お前だって金が欲しいんだろう?いい服着て、美味い飯を喰いたいんだろ?それでいいじゃねえか。隠すなよ。他人のことなんか構う暇ねえよ。自分さえよければそれでいいんだよ」などという理屈で人々に語りかけている「イデオローグ」なんかいるだろうか。いるはずなかろう。そういう連中には困ったものだ、というところで時代を語ろうとしているのだ。
みんなが、それなりの切実さで「人と人の関係」を問うている時代である。その関係なしには誰も生きられないし、それを失うとたちまち追いつめられ心を病んでしまう。そういう時代に、誰がこんな主張をするものか。
他人を安く見積もるのもいい加減しろよ。そうやって自分の正当性を主張してくるのがこの先生の常套手段なのだ。
こういう「他人を安く見積もる」視線こそわれわれの敵である。いまどきは、この視線を先生と共有している人間がわんさかいる。失礼極まりない視線である。この人たちには「他者」というものがない。自分の勝手な都合でそのように見ているだけだ。
われわれが「世のため人のため」などというお題目が嫌いなのは、もっと直接的な人と人の関係に切実だからだ。
何が「リアルな実感」か。誰もそんなことは思っていない。
われわれ「生身の人間」は、「世のため人のため」などという下品な言葉には耐えられないんだよ。先生、それが、あなたたちとわれわれを「分かつ」ものだ。それがわれわれの「弱さ」だ。われわれは、あなたのように強者然として「弱者を癒し、支援し、教育する」などという趣味はないんだよ。
われわれは、弱者とその「弱さ」と「嘆き」を共有しているだけだ。
かっこつけて「最終的に人間性を基礎づけるのは、その脆弱性なのだと私は思う」などといっても、そうやって他人を安く見積もりさげすんでいるじゃないか。こっちが、けんめいに人と人の関係を模索しているというのに、<「やられたらやり返せ」というショーヴィスムや市場原理主義や弱肉強食の能力主義の言説>だとさげすんできやがる。誰もそんな安っぽい主張などしていないさ。そうやって曲解しながら人を安く見積もる視線こそ、まさに「強者の論理」なんだよ。おまえなんか、いつだって「強者」のポジションに立って人を見下しているだけじゃないか。
「弱さ」ということばで「強者」のポジションに立ち、弱者をさげすむ……その狐みたいな狡猾な言い回しでナイーブな善男善女をたぶらかしにかかる。まったく、たいしたタマだよ。
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先日僕は、次のようなコメントをあるブログに投稿した。
そして、下のような返信をもらった。
われわれのこのような対話と先生の上の語り口と、どちらが切実に「時代」を問うているか、そしてどちらが切実に人間の「弱さ」を問うているか、どうか比べてみていただきたい。
僕は、この管理人氏の「愛と憎しみこそ、リアルだ」ということばに感激した。
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<まず僕の投稿から>
僕は、ヨーロッパ近代と同じくらいこの国の右翼思想もくだらないと思っています。
日本列島が国歌や国旗を持ったのは明治以降のことだし、国家そのものの歴史だって、たかだか1500年です。大陸では、4000年以上の国家の歴史がある。
日本列島の住民は、もともと国家意識の薄い民族のはずです。江戸時代の加賀の住民にとっては、天下の将軍さまよりも前田の殿様のほうが偉かった。
そして大陸の一夫一婦制の家族制度は、農耕牧畜が本格化した6000年前にはすでに出来上がっていたが、日本列島の庶民にそうした家族制度が定着したのは、1000年前の中世以降のことにすぎない。
日本列島の住民は、もともと家族という集団に対する意識も薄い。だから、現在の家族崩壊が起きている。
われわれは、家族であれ国家であれ集団そのものに対する意識が薄いから、外国人から「公共心がない」といわれなければならない。そしてだからこそ、国家という名目に従順になってしまいもする。国家という意識が薄いから、国家に抵抗することも国家を変えようとすることもしない。べつに国家が大事だからじゃない。
同様に、日本人にとっての家族は、名目だけがあって、中味はじつにいい加減です。言い換えれば、名目だけでやっと家族を維持してきた。だから、名目は大切です。
本居宣長は、和歌は「姿」が大事なんであって「内容」なんかどうでもいいんだ、内容なんかいくらでもまねることができるが「姿」をまねることはできない、といいました。つまり「品性」の問題ですね。それはたしかにそうで、それが日本文化なのだと思います。
国家や家族の内容や実体なんかどうでもいいが、国家や家族という名目=姿は大切にしようとする。
われわれは、そういう集団のかたまりよりよりも、恣意的な一期一会の人と人の関係に対する意識が切実で、そこから集団になってゆくだけのこと、西洋のようにはじめに「集団=公共」があるのではないし、中国や韓国のように「家族」があるのでもない。
日本列島の国家や家族の集団の歴史が浅いということは、国家や家族を持たない恣意的な人と人の関係を大事にしてきた歴史が長い、ということでしょう。
縄文時代一万年の歴史を甘く見ちゃいけない。
われわれは、もともと国家意識も家族意識もきわめて希薄な民族なのだ、ということ。だから、既成の右翼思想だってくだらない。おまえらどうしてそんな俗物なんだ、おまえらの考えることは卑しい、と言いたいです。日本列島の伝統においては、国家や家族に執着して当てにすることはどうしようもなく俗っぽく卑しいことなのだ、と思っています。
そしてわれわれは今、国家や家族という集団の秩序を選ぶのか、「コレクティブハウス」とか「おひとりさまの老後」みたいな恣意的な人と人の関係の「ときめき」を生きるのかの選択をせまられているのだと思います。そういう人類の歴史の実験が、今の日本列島でなされている。べつに「コレクティブハウス」や「おひとりさまの老後」がすばらしいとも思っていないけれど、そういう「流れ」はあるはずです。
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<そして管理人氏の返信>
いま遅くおきて君のコメントを読んだ。
この文章は良いね、すっきりアタマに入る。ぼくが不思議なのは、天声人語や読売編集手帳や各紙社説や内田樹東浩紀のような文章が、ぼくにはなかなか“読めない”ことなんだ。何回か繰り返して読まないと、わからないし、結局、繰り返し読んでも、“わからない”(笑)君の文章は、“わかる”。ところが、ぼくが“わからない”文章を、世の中のひとは、なぜか読んでいる。
たしかに、国家―家族―公共(性)が問題だと思う。それについて考えないと、個人とか主体とか実存とかが、まったく考えられない。(ただ希薄な<私>が無限にチャットしているだけだ)
まさにニッポン“右翼思想”は、このことにまったく取り組んでいない。
ニッポン左翼思想については、涙するあるいは笑う(疎外、物象化、大衆の原像!マス・イメージ!蟹工船
しかし、この“戦後”においては、みんな中流自由主義者になった。なんの立場=思想を持たないことが、自由主義で、それはアメリカ(USA)に徹底的に追随するライフスタイルとなった、ただそれだけだ。
しかも日本人は、<アメリカ人>をまったくしらない(昨夜TVでコーエン兄弟の「ノー・カントリー」をみてまた思った)
縄文時代一万年の歴史を甘く見ちゃいけない。》と君は言う。これは、面白い。
すくなくとも、こういう感覚は、<日本=閉域>を時間的に超える。ぼくは<日本=閉域>を時間的=空間的に超える思想をさがす。その一環として、<西欧近代>もある。
ぼくはこれまで<西欧>に影響されたが、それは結局、西欧内部で西欧に逆らう(あらがう)思想である。これからも、西欧の“内部”と“外部”から、西欧とかかわり、西欧にあらがった人びととともに考えたい(もちろん“日本思想”もだ)感情的に言うなら、そこには<愛憎>があるのだ。
愛と憎しみこそ、リアルだ。
たしかにぼくらは、国境を越えなければならない。しかしそれは、愛と憎しみの感情と論理の屈折を伴わないなら、無効だ。むしろ国境なき“世界共和国”は実態としては、けっして実現しないし、実現した“世界”に安住することもできない(安住する必要はない)そうではなく、ぼくたちは、境界を越えることの愛と憎しみの、継続するプロセスを生きる。
そこに手触りがあれば、ぼくらは、それを、<幸福>とか、<希望>と呼ぶことができる。
<引用終わり>
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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