やまとことばと原始言語 39・「説得する」という制度性

先日の<「世のため人のため」だってさ、くだらね>というエントリーで、「おまえはこのブログの宣伝のために内田批判を続けているのだろう」という匿名のコメントをもらった。
僕の提出した主題に対するひとことの反論もなく、影からこそっと石を投げつけるような、こんな低脳で薄汚いことをされると、意地でも内田樹先生を批判し続けてやる、という気になってくる。内田シンパなんか、こんなダニみたいなやつばかりなのか。
何はともあれ僕にとって内田先生は、われわれを追いつめてくる共同体の制度性の代弁者であり、不倶戴天の好敵手だと思っている。
内田先生は、漫画のことを書いた自分の著作のキャッチコピーとして「漫画が好きですが、何か?」といっておられる。
ただの人格者志向の垢抜けないインポオヤジのくせに、すぐこうした酸いも甘いもかみ分けた遊び人ぶったポーズをしてきやがる。「……ですが、何か?」という言い方、いつもしてるよね。
まったく、鈍くさいイモが何ほざいていやがる、と思う。イモほど、そんなポーズを取りたがる。
吉行淳之介氏は、僕は「くそまじめ」ではないが根は大いにまじめな人間だと思っている、といった。酸いも甘いもかみ分けた遊び人なら、それくらいのことはいってみせろよ。
「遊び」の世界はじつはとてもしんどい求道的な世界で、おもしろおかしい「リア充」の戯れじゃないんだぜ。「リア充」の戯れでしか生きられない意地汚いやつが「リア充」の戯れを批判するという、この詐欺的なレトリックのうえに内田先生の思考が成り立っている。そういうレトリックとして「……ですが、何か?」というかっこつけたもの言いになる。
僕は遊び人ぶっているけど、根は大いに「くそまじめ」な人間なんです、てか?
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説得されるものになるな、説得するものになれ……これが、「自我の確立」をコンセプトとする西洋人の生きてゆく流儀らしい。
そして現代のこの国にも、この流儀で生きてゆこうとしている人がたくさんいて、そういう人たちにリードされる社会になっている。
安楽に生きたければ、説得する人になれ……戦後の日本社会は、西洋の近代から、この教訓を学んだ。
ともあれ、この世の中には、説得する人たちと、説得されるものたちがいる。この社会の上層部の人たちや教育者たちは、説得する人たちで、下級労働者や子供や若者や女たちは、多くの部分で説得されるがわの立場に立たされている。
よくはわからないが、人を説得するのは気持ちのよいことらしい。
そして説得されることは、ときに気が狂いそうになるほどの恐ろしい体験になったりする。
たとえば、毎日8時間労働することは、そのあいだ自分の脳みそを会社とか仕事とかいうものに拉致されることだ。
説得されるとは、脳みそを拉致されることだ。脳みそが拉致されることを、ストレスという。
子供が学校に行って勉強をすることだって、脳みそを拉致される体験だろう。脳みそを拉致される体験だと思うから、勉強がいやになる。だって、大人たちが拉致しにかかっている世の中なんだもの、「拉致されている」という思いから逃れられないのはとうぜんだろう。
共同体は、われわれの脳みそを拉致する。
拉致するとは、説得し教育すること。
税金を払うとか、働くとか、勉強するとか、あれこれの社会常識を守ろうとするとき、われわれの脳みそは、共同体に説得され教育され拉致されている。
だったら、いっそ共同体の犬になって、自分からそれらの規範を求めてゆけばいい。その規範を生きがいにすればいい。
脳みそを拉致される子供でいるより、早く大人になって、出世して、拉致するがわにまわったほうが得だ。
しかしわれわれが下級労働者であるかぎり、最後の最後まで脳みそを拉致されるものであり続けるほかない。
けっこう気楽にサラリーマンやってきたつもりだが、定年退職してみて、自分がいかにストレスフルな生活を続けてきたかがやっとわかった、という話はよく聞く。
働くこと金を稼ぐことは、脳みそを共同体に拉致される体験である。
だからそれはもう、下級労働者だけでなく、出世したはずの人たちだって感じることだ。
金とか仕事とか法律とか、われわれはもう、もろもろの共同体の掟に脳みそを拉致されて生きてゆかねばならない。
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しかし何より、生きてあるということそれ自体が、いずれは死んでゆかねばならない掟に拉致されていることだ。つまり、誰もが、この生に拉致された囚われの身でしかない。
生きているとは、この生から説得されることだ。
説得されることはしんどいことだけど、説得されないと生きていられない。
生き物は、この生から説得されることを引き受けて生きている。
生きようとして生きているのではない、生きてあることから説得されて生きてあるのだ。
生きることなんか、体がすでにしてくれている。われわれは、「すでに生きている」という自覚から生きることをはじめる。
意識は、「すでに生きている」という自覚として発生し、「すでに生きている」という自覚の上に働いている。
意識とは、この生から説得されるはたらきなのだ。
われわれの意識や観念は、この生から説得されるはたらきを持っている。
毎日生きることがしんどい貧乏人なんかさっさと死んでしまえばいいのに、そのしんどさを引き受けて生きてしまう。生きようとするからではない。明日もしんどい一日になるに決まっているのだから、生きようとなんか思いようがない。、それでも人は、この生から説得されて生きてしまう。
顔がブサイクとか足が短いとか背が低いとか、そういうことは死ぬまでそうだ。それでも人は、そのことを受け入れて生きている。この生に説得されて、そのことを受け入れる。
きれいになりたい背が高くなりたいと願いながら、そうではないみずからの現実をこの生として受け入れている。受け入れなければ生きられない。
生き物は、この生から説得されている。
「説得される」というタッチを持っていないと生きていられない。
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ネアンデルタールは、氷河期の極北の地の住みにくさを受け入れていった。彼らこそ、この生から説得されている人々であった。あんな住みにくいところに置かれても、人は、それでもなおこの生から説得されてしまうのだ。
生きようとするなら、さっさと住みやすい南の地に移住してゆくさ。原始人にとっての氷河期の極北の地は、この生から説得されなければとどまっていられるような環境ではなかった。
環境が改善される希望などないのに、それでも彼らは、その環境をまるごと受け入れて生きた。
つまり、生きていればそのうちいいことがある、という言い方はおかしい、ということだ。それは、いいことがなければ生きられないといっているのと同じである。いったい誰が、その人の未来の「いいこと」を保証してやれるというのか。死ぬまで「いいこと」なんか何もなかった、という例は、いくらでもある。また、明日死んでしまうかもしれない。
しかし、いいことなんか何もなくても、われわれはこの生に説得され、とりあえずこの生を受け入れてしまう。もしも「希望」なるものがあるとすれば、そこにこそある。一生いいことがないとしても、明日死んでしまうとしても、とりあえず人は、今ここのこの生を受け入れてしまうようにできているのだ。そういうことを、氷河期の極北の地を生きたネアンデルタールが教えてくれている。
人間は、この生に説得されてしまう存在だから、地球の隅々まで拡散していったのだ。
「いいこと」を求めてアラスカやシベリアまで移り住んでいったのではない。そんなところに「いいこと」なんか何もないのに、今ここのこの生に説得されながら住み着いていったのだ。
言い換えれば、この生に説得されることのカタルシスというものがある。
「ああもう死んでもいい」とか「もう何もいらない」という心地のカタルシスはあるだろう。ネアンデルタールは、一日一日そういう心地を汲み上げながら氷河期の極北の地に住み着いていたのだ。
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この生の充足とは、生きてあることのよろこびではない、生きてあることなんかどうでもいいというかたちで生きてあることを受け入れてゆくことだ。
「ああもう死んでもいい」「もう何もいらない」と思えるなら、生きていられる。
「生きていよう」と思うから、「生きていられなくなる」のだ。
それは、この生から説得されることに失敗している事態である。
生きようとなんか思う必要がないし、われわれの無意識はたぶん、生きようとなんかしていない。今ここの生きてある事態を受け入れているだけだ。
受け入れることができるかどうかなのだ。生きようとすることじゃない。
われわれは、根源的に、生きのびることの不可能性を負って生きてある。われわれの意識の根源に、生きのびようとする衝動などはたらいていない。ただもう、今ここの生きてあるという事態を受け入れられるかどうかなのだ。
「説得される」というタッチを持っていないと生きられない。
「生きよう」とすることは、ひとつの「説得する」という態度である。それは、自分で自分を説得し、この生を説得してゆく態度である。
われわれは、意識が生きようとするから生きてあるのか。だったら、意識が死のうと決めたら死ぬことができる。意識が「もう生きられない」と思ったら、生きることができないのか。「生きられない」といいながら「生きている」ではないか。
「生きられない」とは、食い物がないとか体が動かない状態のことを言うのであって、体が動いて「すでに生きている」者が、「生きられない」ということは成り立たない。
生きるか死ぬかを意識が決定して体に伝えているのなら、それは、意識が体を説得している、ということだろう。
生きるかたちの基礎は、まず体が勝手に動いて、意識がそれに気づいて受け入れてゆくという仕組みになっているはずだ。
われわれは、自分の意思で内臓を動かすことはできない。そんなことは、体が勝手にやってくれている。体を説得することはできない。体から説得される。
人間は、体から説得されて生きている。息苦しいから息をするとか、腹が減ったから飯を食うとか、体から説得されている行為である。
体は、意識を説得する。意識とは、説得されるはたらきである。
説得されることの嘆き、恐怖。この生は、そういう感慨とともにある。
説得することの愉悦、説得されることの恐怖……このように並べて、人はどちらを選択するかといえば、前者に決まっているともいえない。この生を根源において成り立たせているのは、じつは後者の心の動きなのだ。「神」という概念は、そういうところから生まれてきた。
人は、この生から説得されて生きている。「説得される」というタッチを持っていないと生きられない。「説得される」ことこそ、この生の醍醐味であり、ダイナミズムである。
人間は、説得される存在であろうとして「神」という概念を持った。
「神」が必要だったのではない、「説得される」ことが必要だったのだ。そして「説得する」ことを断念することが必要だったのだ。
原始人にとって「説得する」ことは、神の行為であって、人間の行為ではなかった。
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人類の歴史は、つねに、「限度を超えて密集した群れの中に置かれてあることのうっとうしさをいかに克服して人と人の関係をつくってゆくか」という問題を抱えて推移してきた。
他者を「説得する」ことは、他者に体をぶつけてゆくことであり、他者を支配する行為である。
とすれば他者に「説得される」ことは、他者に体をぶつけられ支配されることだということになる。それはとてもうっとうしいことだし、群れのみんなからいっせいにそのようにされればもう、気が狂いそうな恐怖になる。たとえば「魔女裁判」のように、集団の暴力にさらされる、ということだ。
限度を超えて密集した群れの中に置かれているということは、すでにそれだけでもうそういう圧迫感と恐怖の中に置かれているということである。
だから原初の人類は、そういう圧迫感や恐怖を他者に与えないために、そしてみずからも感じないでもすむために、「説得する」という関係を断念していった。
限度を超えて密集した群れの中でひしめき合いながら、それでも「おまえうっとうしいからもっとあっちに行けよ」と説得し押しのけることをみんなが断念した。
そのとき、誰もが、加害者であると同時に被害者でもある、という立場に立たされた。もうボス争いなんかしていられないし、二位だ三位だという順位争いどころでもなく、女たちだってもはやボスの庇護の下で安全が保障される状況ではないことを自覚した。
誰もが、加害者であると同時に被害者でもあった。誰もが、そうした群れの状況から説得される圧迫感と恐怖を感じていた。
これが、直立二足歩行の開始前夜の人類の群れの状況である。
ここから、誰もが「おい、あっちに行けよ」と説得し押しのけることを断念しながら二本の足で立ち上がっていった。もう、二本の足で立って自分の身体のスペースをできるだけ狭くとってゆくしかなかった。もはや、四本足の姿勢でのびのびと動き回っていられる状況ではなかった。
人類の歴史は、「説得する」ことの断念としてはじまった。
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「説得する」ことの断念こそ、人間性の基礎である。とすればわれわれは、「説得する」とか「プレゼンテーション」とかということが大流行の現代社会の状況を、なんと解釈すればいいのだろうか。
都市(都会)というのは、何か人類史の新しい群れのかたちであるかのように思われがちだが、じつはそれこそが直立二足歩行の開始前夜の状況だったのであり、もっとも原始的な群れのかたちだともいえる。
人類史における都市は、生まれるべくして生まれてきた。
人間はもともと、限度を超えて密集した群れの中で生きようとする生き物なのだ。つまり、「説得する」ことを断念してそうした群れの状況を生きようとする生き物だということ。
「説得する」ことを断念しなければ、そうした群れの状況(=都市)は生きられない。
今や日本中が都市化してきている。そうしてニートやフリーターや引きこもりといった現象は、もはや東京だけのことではない。彼らは、「説得される」ことの圧迫感や恐怖にあえいでいる。この限度を超えて密集した群れである都市において「説得する」という行為が横行すれば、どうしてもそうした圧迫感や恐怖にあえぐ人たちが生まれてきてしまう。
都市が、「貨幣」という最強の説得の道具の上に成り立った社会であればとうぜん「説得する」という行為が横行してくるのも避けられないことではあるが、だからこそそれを断念する関係も豊かに息づいていなければ都市生活は成り立たない。
人間はもともと集団から「説得される」ことに対する圧迫感と恐怖を抱いている生き物であり、同時にこの生から「説得される」というかたちで生きている。
つまり、誰もがすでに「説得される」ことの圧迫感と恐怖の中で生きているのだから、いまさらその傷口に塩を塗りつけるような「説得する」という行為はつつしもうよ、というのが都市生活の流儀であり、じつはそれこそが直立二足歩行の起源のコンセプトでもあった、ということだ。
教育したがりの大人たちが、教育教育とわめいていやがる。だから、子供たちは追いつめられねばならない。それは、都市生活の流儀に反し、どうしようもなく垢抜けない行為なのだ。
おまえらの考えることは、ダサイんだよ。イモなんだよ。イモが都市に流入してきて都市を牛耳っていやがる。それが、現在の「都市化」の潮流なのだろうと思う。
今や、都市生活の流儀の伝統を持たない都市が日本列島のあちこちで生まれてきて、そういうところでとくにひどい殺人事件や若者の混乱が起きたりしている。(成人式の空騒ぎなんか、いつだって最近都市化したいわば「地方都市」という地域で起きていることじゃないか)
いや東京だって、今となってはもう、都市生活の流儀の伝統を失った都市になってしまっているのかもしれない。
そういう伝統を失わせたのは、説得したがり教育したがりのおまえら大人なんだぞ。
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そして若者たちは今、切実に「説得されない」関係を模索している。
たとえば、近ごろのギャルたちが、あくまで「にせもの」の「なんちゃって」というコンセプトでファッションを追求しているのは、ひとつの「説得されない」態度であり「説得しない」態度なのである。そして彼らは、それほどに、「すでにこの生から説得されている」という意識が切実なのだ。
そのファッションは、この社会の既成の美意識から逸脱している。彼らは、大人たちから説得されないし、大人たちを説得して認めてもらおうとも思っていない。
ただもう、彼らが「かわいい」とときめいて説得された体験を表現している。「かわいい」とときめくことは、「説得される」体験である。彼らは、その「説得される」体験を共有している。それは、誰かを「説得する」ためのファッションではない。「かわいい」とときめいて「説得される」ことのよろこびをまとっているファッションなのだ。
いたずらに説得しようと迫ってくるこんなくだらない大人たちに囲まれながら、彼らは、懸命に「説得しない」関係を模索している。なぜならわれわれは、そういう関係を持たないと「都市」を生きることができないからであり、そういう関係から人類の直立二足歩行の歴史がはじまっているのだ。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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