「鎮魂」だってさ

内田樹先生が、「エマニュエル・レヴィナスによる鎮魂について」というタイトルの、ちょっと哲学的な記事を書いておられる。
毎度の内田批判では僕としても先に進めないから素通りしようと思ったのだけれど、やっぱり少しだけ書いておくことにする。
結びの文章は、こうなっている。
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死者たちは終わらない苦痛と、絶望の中で「存在しない」という様態を負わされている。死者たちを鎮魂しなければならない。この緊急な責務をおのれの哲学の主題として引き受けたという点に哲学者レヴィナスの「かけがえのなさ」はある。エマニュエル・レヴィナスの哲学はホロコーストを経験した20世紀のヨーロッパでしか生まれなかったものだ。そのような歴史的状況がレヴィナス哲学の出現を懇請したのである。
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「死者に対する鎮魂」というテーマですね。
あなたは「死者の魂」というのを信じますか。
悪いけど僕は、そんなものは信じない。
レヴィナスは、ナチのホロコーストで無残に死んでいった600万ユダヤ人同胞の魂を鎮めることを生涯最大の哲学のテーマにしていた、と内田先生はおっしゃる。
なんでそんな無駄なことをするのだろう?。
死んでしまったら、何もないでしょう。魂なんか残りませんよ。
死者に「終わらない苦痛と、絶望」なんかありませんよ。それとも、ホロコーストで死んでいったユダヤ人たちだけにはあって、そのほかの無数の死者にはないとでもいいたいのだろうか。
冗談じゃない、ホロコーストで死んでいった人たちだって、「死んでしまえば何もない」のですよ。
その厳粛な事実を引き受けられない意地汚いやつが、「死者の魂」だの「鎮魂」だのと言い出すのだ。自分も死んだら魂だけは生きのびてこの世界の人とかかわっていたい、みたいないじましい欲望が旺盛なんだろうね。
死というもののの正味を受け入れようとするなら、「死者の魂」なんかないのだ。
べつにアマゾンの原住民が言おうとレヴィナスが言おうと、僕は「死者の魂」なんか信じない。
アマゾンの原住民が、二万年前の石器時代の人類と同じだとはいえないのですよ。彼らだって、その二万年の人類の歴史の上に現在の地球上に存在しているのだ。彼らを調べれば石器時代の人類の心の動きがわかるというものではないのですよ。彼らだって、まぎれもなく現代人なんだよ。わかりますか、レヴィ=ストロース先生。あなたの偉大な文化人類学の業績は、あなたの中の、その欧米人特有の尊大な差別意識の上に成り立っているのですよ。
つまりさ、「死者の魂」なんて、現代人の自意識過剰の欲望(=生への執着)の上でもっともあからさまにイメージされているだけのこと。
僕は、原始人だから、「死者の魂」なんか信じない。そんなものは、きわめて現代的な自意識から生み出されているイメージ(幻想)にすぎない。
アマゾンの原住民だって、1万年もたてば「死者の魂」というイメージ(幻想)にたどり着くさ、というだけのこと。彼らの背後にだって、われわれと同じだけの人類の歴史の時間があるのだぞ。
ホロコーストで死んでいった人たちの鎮魂のために哲学をやっていただなんて、そんな態度を「哲学をしている」とはいわない、ただの「政治」的態度じゃないか。
「鎮魂」だなんて、俗物が何を愚劣なことをほざいていやがる。
人が死ぬということを普遍的哲学的に問うのなら、「鎮魂」という問題など存在しない。
いや僕は、たんなる生物学的な自然のレベルで考えているだけですけどね。それでも、「鎮魂」などということをぬかす人間の哲学など信じない。
おまえら、どうでもいいけど、政治的な振る舞いが過ぎるんだよ。哲学者のつもりなら、ちゃんと哲学をやれよ。というか、そうやって「政治」的問題のレベルでしか考えられないということは、それだけ哲学に対する切迫した「契機」を持っていないということなんだよ。内田先生はもちろんのこと、レヴィナスだってたいして変わりゃしないさ。
ユダヤ人の限界ってあるんだよね。哲学者のつもりなら、この世界から置き去りにされた「ひとりぼっち」の人間として、人間とは何か、世界とは何か、と問うてみせろよ。ユダヤ人であることにもたれかかってもしょうがないだろう。
僕にとっては、ホロコーストで死んでいった人の死よりも、自分の死のほうがもっと悲惨だ。もっと重くやっかいだ。彼らの死に比べたら自分の死などなんでもない、と思えるような悟りなど、たぶん死ぬまでもてない。いや、死ぬときこそ、今よりもっと自分の死が重くやっかいなものになるだろうと思っている。
きっと、誰だってそうだろう。そのために「哲学」があるのではないのか。
こちらだって明日死ぬ身になれば、ホロコーストで死んでいった人のことなど知ったこっちゃないさ。その悲惨さにおいて、彼らと対等さ。僕には、「鎮魂」などという偽善的な戯れをしている余裕はない。
ぬくぬくと生きて死んでゆく人の死だろうと、ホロコーストの死だろうと、誰の死もみんな平等なんだよ。僕はそう思っている。誰にとっても死は重く悲惨なものだと思っている。
おまえら、そうやってお上手に死んでゆけると思っているのか。
人間は、誰だって、もたれかかるものなど何もないひりひりした「孤立性」を抱えて生きているんだぞ。
何がホロコーストか。そんなことは政治家の仕事であって、ちゃんとした志を持った哲学者の仕事ではない。
そんなふうだから「鎮魂」などと薄っぺらなことを言い出すのだ。そんなことがいいたいのなら、あの世に行ってその悲惨な「魂」とやらを連れてこい。
人格者ぶっちゃって、その薄汚い自意識はなんなのさ。
人格者であるということは、哲学者としては無能だということなんだよ。人格者なんか、人格者以外の何ものでもない。その発想の貧困さと、思考の闇と荒野に分け入って行こうとする切実さとイノセントのなさにおいて、思想家でも哲学者でもない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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