「生き残る」だってさ

「近ごろの若者はなっとらん」というのと「近ごろの若者はしっかりしている」というのと、根は同じかもしれない。
「おまえらどうしてそんなに根性がないんだ」というのも「大人のようにあくせくしていない」というのも、まあ見ているところは同じだろう。
彼らは彼らなりの絶望と希望があり、喪失感と充足がある。
それなりに追いつめられているし、解放されてもいるのだろう。
若者を悲観的に見るにせよ、楽観的に眺めるにせよ、その前にわれわれ大人たちはいったいどんな社会をつくってきたのだろう、と問う必要がある。
若者がだめになってしまったというのなら、だめになってしまうような社会の構造になっているからだろう。
だめになったから教育してやらないといけないとか、そういう問題ではない。まずは、君たちがだめになったのはわれわれ大人たちがこういう社会をつくってしまったからです、と告白しなければならない。告白し、それを受け入れてもらい、彼ら自身の力で克服していってもらうしかない。
説得することを断念してまずはわが身を差し出す、それが、人と人の関係の基本だろう。
人の頭を洗脳する教育でなんとかなると思っている、その安直な思考と傲慢な心の動きはなんなのか。
われわれ大人たちが「エコノミック・アニマル」などという呼称とともにがんばる根性を持っていたのは、そういう社会の構造になっていたからだ。がんばれない社会の構造になっているときに、がんばれといっても無理な話だろう。
がんばることがすばらしいと思えるような社会の構造になっていない。もはや高度経済成長の時代ではないのだから、がんばったぶんだけいい思いができるような、そんな甘い社会ではない。
しかし、この条件の中で、彼らが見つけ出した人間の真実もあるにちがいない。すべての真実がわれわれ大人たちのもとにあるわけではない。
同じ時代を生きる同じ人間として、彼らと何を共有できるのか。その問いもなしに彼らを教育してやろうなんて、あつかましい話だ。そんなねじまがった心根だから、彼らに嫌われるのだ。
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村上龍氏は、最近のエッセイ集で、「みずからの欲望と向き合うことから逃げる若者」、といっておられるのだとか。
田舎っぺは、これだから困るんだよね。
「やせ我慢」というのは、この国の伝統的な美意識のひとつであり、都市生活の流儀にもなっている。
逃げて何が悪い。
「欲望」などというものは、たんなる共同体の制度だ。
こういう言い方をされると、内田樹先生が先日言っておられた「リア充」批判のあのフレーズを思い出す。
「おい、かっこつけんじゃねえよ。お前だって金が欲しいんだろ?いい服着て、美味い飯を喰いたいんだろ?それでいいじゃねえか。隠すなよ」などといってもしょうがないだろうという話。
まさか村上氏がこういうことをいっているわけでもなかろうが、生きようとする「衝動=欲望」そのものが、たんなる共同体の制度なんだけどね。
村上氏はさらにこういう。
「考えるべきは、死なずに生き残るための方法である」、と。
これも、田舎者の論理である。
生き物は生きのびようとして生きているのではない。「すでに生きてある」という事実を受け入れているだけだ。つまりわれわれは、この生から説得されて生きてある、ということ。
「生き残る」などと制度的な欲望とは無縁の「捨て身」の心で他者やこの世界と関係を結ぶことができるかということこそ、われわれの切迫した課題なのではないだろうか。少なくとも若者たちは今、そういう課題と向き合っている。
何が悲しくて彼らが、「生き残る」などという、田舎っペ丸出しのイモくさい「欲望」と向き合わねばならないのか。
村上氏はまた、「大人たちはわが身を守ろうとして逃げてばかりいる」というが、「生き残る」ことが大切であるなら、とうぜんそうするさ。
現在のこの国は、すべての地域でどんどん都市化してきている。若者たちは、都市生活の流儀を模索しはじめている。良きにつけ悪しきにつけ、彼らは、「生き残る」という未来に対する志向を捨て、今生きてあることそれ自体に体ごと反応していっている。それを、村上氏は「目標を失っている」というのだが、そうじゃないんだなあ。
江戸の庶民が「やせ我慢」をして「宵越しの銭は持たない」といったのも、「生き残る」ことを断念して「今ここ」に体ごと反応してゆくのが都市生活の流儀になっていたからだ。
そういう都市生活の伝統が、今の若者たちの意識によみがえりつつある。
都市とは、人口の密集地域のことである。誰もが「生き残る」ことを目指していたら、誰もが邪魔者を蹴落とそうとしている世の中になってしまう。バブル期こそ、「生き残る」ことが大切な時代だったのだ。
誰もがそんなことをひとまず断念し、今ここでともに生きてあることを味わい合おうとしてゆくのが、都市生活なのだ。その結果として、ときに「せつな的」といわれる犯罪や退廃趣味も生まれてくる。
都市生活に「生き残る」という問題などない。われわれは「すでに生きてある」のだ。生きることなど、体がすでにやってくれていることだ。そういうことに気づけば、「生き残る」という問題など起きてこない。都市で暮らしていれば、不可避的にそういうことに気づいてしまう。
「生き残る」などという制度的・村落共同体的な「欲望」なんかさらりと捨てて、とりあえず生きられるだけは生きていよう、と思って何が悪い。そういう「捨て身」のスタンスで、人と人の関係やライフスタイルや世界との関係を考えてゆくのが、都市生活の流儀なのだ。
「生き残る」なんてどうでもいいんだよ。おまえのその田舎っペ丸出しの垢抜けないへりくつをわれわれに押し付けてくるな。
「生き残る」などという欲望を抱えていては、都市では暮らせない。若者たちは今、そういうことに気づきはじめている。
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セックスなんかどうでもいい、という若者が増えている……というマスコミの調査が近ごろ発表された。
それは、たくさんの人や情報とかかわるほかないのが都市生活で、そうした人も情報も自分を「説得」してくる状況になっているからだ。その説得されることのうっとうしさが、生身の人間に対するうっとうしさにもなっている。
こんなにも人が密集した都市であるのに、誰もが「生き残る」ことに執着し、押しのけあい、「説得」しにかかってくる状況であるのなら、そりゃあ、セックスどころではなくなるさ。
若者ほどそういう状況に敏感で、そういう状況の圧力を強く受けてしまう。
内田先生や村上龍氏のように「生き残る」ことに躍起で「説得」したがりの大人ばかりの世の中なら、そりゃあ、セックスに対する衝動も押しつぶされてしまう。
まあ、そういうかたちで若者たちは、追いつめられている。
「婚活」などといって安楽に暮らしてゆけることを保証してくれる相手を探すことが、この国の婚姻率の減少を食い止められるかといえば、きっとそうはならない。それはきっと「生き残る」ための戦略なのだろうが、そんなことばかりしていたら、ますます結婚することのハードルが高くなり機会も限定されてゆくことになって、かえって結婚しない男女が増えてくるだろう。
「婚活」なんて、バブルの余韻(記憶)が残っている時代の最後の悪あがきにすぎない。
「生き残る」ために結婚するなんて、田舎者のすることだ。
結婚なんか人生の成り行きでたまたま出会った相手と一緒になるだけのことさ、というのが都会の結婚の流儀であり、そうならなければおそらく婚姻率の減少に歯止めはかからないだろう。
目標なんか持たない、「生き残る」ことなんか断念した成り行きまかせの結婚、そういうかたちが増えてこなければ問題の解決にはならない。
若者たちは今、そういう関係を模索しているのであり、それを邪魔しているのが、「生き残る」ための「欲望」から逃げるな、などと「説得」しにかかっている大人たちだ。
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べつに、ホテルのおしゃれなバーに行ってカクテルを飲むことだけが都市生活の流儀なのではない。そんなことは、田舎っぺでも金さえあればできる。
この限度を超えて密集した群れの中で、いかにして人と人の関係をやりくりし、カタルシスを汲み上げてゆくか、ということにこそ都市生活の流儀の本質がある。
「説得しない」のが、この国の都市生活の流儀だった。人は、生き残ろうとして、他人を説得し、他人を蹴落とそうとする。生き残ろうとして派遣社員を説得し、首を切る。まあ、そのようなことだ。
都会の人間は、人に指図やおせっかいをしないということ。
ところが近ごろでは、内田先生や村上龍氏をはじめとする「指図をする言説」が幅をきかせている。
みんな不安だから、自信たっぷりにいって指図してもらいたがっているのだろうか。
そういう人たちも少なからずいることだろう。
しかしそういう言説がのさばっているというそのことが、この国から元気を奪っている。
不安であるなら、不安を生きればいいといえばいいだけなのに、自信たっぷりに説得できる人間がいちばん優秀であるかのようなことばかりいって、みんなをたぶらかしている。
説得できる人間が天下の世の中だ。
説得したがりの田舎っペが都市を牛耳っている。
じつは、そこにこそ現代の都市生活の不安がある。現代の都市生活は、「説得する」ことの上に成り立っている。それでは都市生活は成り立たないのに、それで成り立たせようとしている。その矛盾から、不安が醸成される。
それは、明治以来の日本の近代の姿かもしれないのだが、戦後社会は、ことにその傾向が拡大発展し、経済成長を勝ち得てきた。
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いや、僕は中途半端に余計なことをいいすぎたのかもしれない。
僕が問いたいのは、「説得しない」関係のことだ。
この関係を持たないと、都市生活はうまくやっていけない。
若者たちは今、この関係を模索している。
大人たちよりずっと切実に「都市生活」を問うている。
そして、大人たちが考える以上に、大人たちから深く追いつめられている。
戦後社会は、「説得する」人と人の関係を発展させてきて、それによってひとまず高度経済成長という成功も得たのだが、若者たちは今、その成果から追いつめられ、その成果を清算しようとしている。
内田先生や村上龍氏の言説は、「説得する」人と人の関係を追及してきた戦後社会のひとつの達成を示しているが、それゆえにこそいまや清算されるべきものにもなっている。
急速に都市化が進む日本列島において、もうそんな田舎っペの垢抜けない論理ではうまくゆかないのだ。
「生き残る」などという発想では、都市生活は生きられない。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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