もう一度、「生き残る」なんてくだらないということ
前回言及した村上龍氏の最新エッセイのタイトルは、
『逃げる中高年、欲望のない若者たち』(ベストセラーズ)
というのだとか。
いちおう仁義だから、紹介しておきます。
でも僕は、買って読むつもりはありません。
ただ、僕のまわりには内田樹先生とか村上龍氏のファンがたくさんいて、じっさい本も売れているようだから、このあたりが現在のこの国の中高年の意識を代弁しているのでしょう。
ご両人の意見はひとまず一般的な常識をくつがえす過激で先鋭的なことをいっていると民衆に受け取られているのだけれど、じつはそれ自体が一般的な民衆の意識で、二人ともただの凡庸な俗物でしかない、と僕なんかは思っているわけです。
お前らみんなして他人を安く見積もり、「俺はあいつらと違う」という優越感の自意識を共有しているだけじゃないか。
そういう優越感を持たせてくれる本として、お二人の著作が機能している。ラディカルだと持ち上げられているが、ラディカルぶっているだけで、中味は田舎っぺ丸出しの陳腐でいじましいことをいっているだけだ。まあ、田舎っぺもこういえばラディカルぶることができるというお手本にはなっているのだろう。
「欲望」がなくて何が悪い。おまえらの持っている「欲望」なんて生き物としての自然でもなんでもなく、ただの制度的な幻想にすぎない。
そんな意地汚い「欲望」なんか持たないのがほんらいの人間のかたちであり、生き物としての自然なのだ。
彼らはまるで自分たちがみすぼらしい小市民根性を超えた「快楽」のエキスパートみたいな口ぶりをしてくるが、鈍くさい田舎っぺに「快楽」の何がわかるか。
そんなことは若者たちのほうがずっとよく知っている。
村上氏によれば、「考えるべきは、死なずに生き残るための方法である」だってさ。
よりによってこんなセンチな俗論を持ち出せば誰も反論できないとでも思っているのだろうか。まったく、いじましい俗物根性丸出しの論理である。
この本のキャッチコピーが「挑発のエッセイ」だってさ。笑わせてくれる。庶民や若者を安く見積もってさげすむことを「挑発」というのか。こんな、センチでステレオタイプなだけの「生き残る」などという論理のどこに、この社会に対する挑発や挑戦があるというのか。ただの俗っぽい一般論そのままの論理じゃないか。
僕は、「生き残る」などということばは、大嫌いである。
もちろん「欲望」ということばも嫌いだ。
こんな俗っぽいことばでかっこつけられると、ほんとむかつく。
「欲望」という制度的な幻想にもたれかかって、何をかっこつけてやがる。お前らみたいな鈍くさい田舎っぺに「快楽」の何がわかるものか。
「欲望」なんて、世界一の美女を抱きたいと思おうと、おかたい小役人が休日に赤いセーターを着てよろこんでいようと同じことさ。どちらも、たんなる制度的な幻想にすぎない。
そういう田舎っペが、戦後、寄ってたかってこの国の「都市」を壊してきた。
戦後の日本は、都市生活の論理を破壊して高度経済成長を果たしてきた。その集大成として彼らのような大人たちがあらわれた。そうやって愚にもつかない俗物根性を共有しながら、現在のこの社会にのさばっていやがる。
われわれが今「考えるべき」は、彼らから「都市生活」を取り戻すことだ。
「生き残る」ことを断念して、「今ここ」に体ごと反応してゆくことだ。
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この国の都市生活の流儀は、「生き残る」ことを断念して、「今ここ」に体ごと反応してゆくことにある。
都市においては、経歴も身分も問わないで、裸の人間と人間として向き合ってゆく。それは、都市の道徳ではなく、「遊び心」なのだ。
「粋」とか「いなせ」とかいうのは、「生き残る」ことを断念した「今ここ」で表現される遊び心とか心意気のことである。
「いなせ」の語源は「やせ我慢」という意味にある。つまりそれは、「生き残る」という「欲望」を断念してゆく心意気のことだ。
村上氏は、「現代の若者はみずからの欲望と向き合うことから逃げている」などというが、そうじゃない。彼らは「欲望」などというものがただの制度的な幻想にすぎないことに気づいて拒否しているだけなのだ。生まれたときから「都市」という環境で育ってきた彼らは、そういう垢抜けないスケベ根性がわずらわしいのだ。彼らは、村上氏みたいな成り上がりの似非都会人とは、氏(うじ)も素性も違うのだ。
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「考えるべきは、死なずに生き残るための方法である」だなんて、なんと安直な物言いか。
死なないことが正義とは限らない。生き物の自然だとはかぎらない。
おまえら、ちゃんと正直に「生きるとはどういうことだろう」「死ぬとはどういうことだろう」と問うて生きているのか?
「死ぬ」ということを否定して「この生」は成り立たない。
この生は、死の可能性の上に成り立っている。誰だっていつどこで死ぬかわからないし、みずから死を選んだ人の死を「無意味な死」といって差別する権利は誰にもない。
死ぬことは、この生の必然なのだ。
したがって、どんな死も否定するべきではないし、生き物なら、死そのものを否定することはできない。死んだらみんな仏になるとは、そういうことだ。どんな死も平等であり、死者はすべてうやまうほかない。
死者とは、われわれの永遠の謎である「死の問題」を解決している者たちのことである。
どうせ死んでゆくのなら、いつ死のうと同じである。生まれてすぐに死のうと百まで生きようと同じなのだ。
われわれに、生きなければならない必然性など何もない。
しかしわれわれは「すでに生きてある」わけで、生き物の意識は、この事実を受け入れるようにできている。ただもう、この生から説得されて生きているだけである。
したがってみずから死を選ぶことは不自然なことではあるが、死そのものは自然であり、必然である。
死にたくないし、死ぬことが怖いから、生きることに価値があるということにしているだけのこと。
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生き物の自然は、生きようとするのではなく、「すでに生きてある」というみずからの条件=運命を受け入れてゆくことにある。生きることはわれわれの「運命」であって、価値でも本能でもない。
生と死は、身体が決定することであって、意識が決定できることではない。したがって、意識の根源において生きようとする衝動が働いていることは、論理的にありえない。そんなことは、身体によって決定されていることだ。意識ははただ、いずれの場合もそれを受け入れるだけである。
人は、必ず死ぬ。われわれに必要なのは、生き残る方法を見つけることではなく、生き残れなくてもかまわないと覚悟を決めることだ。
誰だって、臨終の床では、その覚悟を強いられる。だったら、その覚悟ができるように今からトレーニングをしておいたほうがよい。
というより、今ここに生きてあるということじたいがその覚悟をするほかない状態であり、そういう状態で生きてあるから人は、苦しみ嘆きもするし、感動や喜びも体験する。
内田先生や村上龍氏の「生き残る」とか「生きのびる」などという言い草は、そういう「今ここ」のこの生の内実から逃げている心の動きから生まれてくる。今どきの若者より、彼らのほうがよほどいじましく臆病な思考と生き方をしているのであり、この生から説得されること、すなわちこの生を受け入れることから逃げているのだ。
この生を受け入れるとは、「生き残る」ことを断念することなのだ。
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戦争に負けて降伏することは、「説得される」という体験だろう。
人間の他者を説得しようとする衝動の歴史は、戦争の起源とともにはじまっているのかもしれない。
人類が異民族(=ことばが通じない相手)との出会いを本格的に体験したのはおそらく6、7千年前で、戦争したり交易したり、奴隷にしたり、ユダヤ人やジプシーといった異民族の流れ者もそのころから多くなってきた。そういう社会になれば、ことばもとうぜん「説得する」ための機能に変質してくるし、人と人の関係もそのようになってくる。
異民族との関係として「国家」が生まれ、国家を経営してゆくためには、ことばは「説得する」機能を持っていなければならない。
人間の、他者を「説得する」という習性は、異民族と出会い国家を持ったことによって本格化した。そして日本列島の住民にそれが本格化したのは、じつに60年前の戦後のことであった。
明治以降からその兆しはあったものの、戦争に負けてはじめて、説得されることの屈辱と説得への意欲を体にしみこませた。そうして、説得することばを持った新しい人間たちの群れがこの社会に現れてきた。
まあ、内田先生も村上龍氏も、戦後社会が生み出した新しい人種なのだ。そしてそうした大人たちに、現在の若者たちが追いつめられている。
大人から共同体を背負った論理で説得されることの恐怖は、まるで魔女裁判にかけられているような恐怖だ。現代の一部の若者たちは、そういう恐怖を抱えて生きていて、「草食系男子」などといわれたりしている。
そんな若者たちを軽く見て、「欲望から逃げている」などといっていい気になってるんじゃないよ。
「挑発」を売り物にしている作家が、「生き残る」なんて小市民的ないじましい一般論を振りかざすなよ。なんのかのといっても、共同体の論理に負ぶさって甘い汁を吸おうとする田舎っぺ根性丸出しじゃないか。
「生き残る」なんて、俗物根性そのものさ。
この社会のいわゆる「弱者」と呼ばれているものたちは、「生き残る」ことを断念して「今ここ」の世界に体ごと反応して生きようとしている。そうした切実な生のいとなみは、おまえらみたいなこぎたない俗物には永久にわからないんだよ。
死にそうな病人や老人、貧しさにあえいでいるものたち、大人たちの監視や説得におびえている若者や子供たち、彼らはそうやって生きているのだ。
おまえらみたいな俗物から学ぶことなんか何もない。共感することも何もない。
「欲望」なんて、ただの制度的幻想なのだぞ。
「欲望」から逃げて、何が悪い。「生き残る」という制度的な「欲望」から逃げようとするイノセントな衝動というのは、この社会にへばりついて甘い汁を吸おうとたくらんでばかりいるおまえらが逆立ちしても体験することのできない心の動きなのだ。
「生き残る」ことを断念したら、大人もくそもない。知識人もくそもない。教育者もくそもない。師も弟子もない。親も子もない。夫も妻もない。みんなただの男と女であり、人間と人間であり、それが、都市生活の流儀なのだ。
今、そうやって生きてあろうとしている若者たちがあらわれてきている。
とすればわれわれ大人たちが試されているのは、そういう若者たちと人間と人間として共感し合えるような対話ができるか、ということだ。
「考えるべきは、死なずに生き残るための方法である」、などとかっこつけて説教をたれている場合じゃないんだよ。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。
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