生まれたばかりの子供のような視線・「天皇の起源」46


生きてゆくことは汚れてゆくことだ。この生の「穢れ」がたまってゆくことだ。
かなしいとかつらいとかなさけないとか、人は、ネガティブな感情を持ってしまう。そんな感情は猿にだってあるのだろうが、人はもっと深くそういう心地に浸されてしまう。それは、生を否定する感情だろう。
心のつらさが極まれば、死んでしまいたい、と思う。体の痛さが極まれば、もう殺してくれ、と思う。人の心の中には、そうやってこの生を否定してしまう感情が潜んでいる。
生きているのはそういうことだと受け入れるしかない。明るく楽しいものであらねばならないと決めつけて生きているのは何か無理があり、不自然だ。
自分は、穢れのない清らかな存在か?そんなつもりになって生きるなんて何か無理があり、不自然だ。そんな人間であるかのように振舞おうとばかりしていると、深くかなしむことができなくなってしまう。
倫理や道徳を説いたり誠実ぶったりしている人格者は、何か人間としての深みがない。そしてそれはもう誰だって気づいているのだが、その「深みがない」ということが人に安心を与える。自分も人格者として生きてゆけそうな気がする。
世の中、薄っぺらな人格者として生きたやつが勝ちだ、人格者になればこの生のうまい汁を吸って生きてゆけそうな気がする……そうやって人格者が尊敬されている。
戦後の日本人は、そうやって生きてゆけるだけの「中流」の暮らしを誰もが手に入れた、ということだろうか。
わが身の「穢れ」を意識しないですむのなら、わが身のことだけを思って生きてゆける。「世のため人のため」といいながら、「世のため人のために尽くしているわが身」のことばかり思っている。
わが身の「穢れ」を意識しないですむということは、そこまで深く意識の錘を下ろしてゆくことができないということだ。
断っておくが、ここでいう「穢れ」とは、自分の中には邪悪なものが潜んでいるとか、そんなことではない。邪悪とか凶悪なんてただの制度的な表層意識であり、倫理道徳と裏表のセットになっている心の動きにすぎない。
正しく思い、正しく選択して、正しく行動する……自分の人格も行動も正しくつくってしまう。彼らは、そういうつくりものの自分しか持っていない。まずはじめに「正しい自分」のイメージがあって、それに合わせて自分の思い方をつくっている。清らかな人格にも邪悪な心にも、その程度の思いしかない。
これは西洋流の考え方で、西洋人は「神(ゴッド)」という規範を持っているから、正しい自分のイメージのレベルが高い。日本人がそういうことを真似ても、しょせんは中途半端だ。
ともあれ戦後は、この西洋流が蔓延していった。
人間は、神の規範に従って生きねばならないのだろうか。
かなしみややりきれなさやくるおしさで胸がはちきれそうになり、そのあげくに間違ったことやつまらないことを口走ったりり行動したりしてしまう、ということが彼らにはないらしい。心がそういう状態にはならない規制がはたらいている。それは、心が薄っぺらだということではないのか。
人格者が「正しい答え」を提出できるのは「正しい」という物差しで測ったつくりものの「思い=自分」しかないからだ。
「正しい答えを提出できる」というのは、その人の限界でもある。
人間の心は「わけがわからない」というところまで下りていってしまう。そこまで下りてゆくことのできない人間が「正しい答え」を選択できる。彼らには「わけがわからない」ということのくるおしさに対する想像力がない。
正しい答えなど持たないで、「わけがわからない」という状態でどう振る舞うか、それが問題だ。そこにこそ人間の自然がある。「穢れをそぐ」とは、そういう行為なのだ。回答を得るのではなく、洗い流してしまって忘れる。そこから、新しい何かが生まれてくる。



人間が人間として思うということは、かなしみややりきれなさで胸がはちきれそうになってわけがわからなくなることではないのか。それが人間の自然ではないのか。
われわれは、正しく思うことも正しく生きることもできない。生きていれば、どうしても「穢れ」がたまってしまう。それは、間違ったことを口走ったり行動したりしてしまうということ以前に、かなしみややりきれなさやくるおしさがたまってしまう、ということだ。生きていれば、どうしてもたまってしまう。人間は、そういう存在の仕方をしている。
そしてそうなってしまえばもう、その人の思想や人格など役に立たない。誰もがそこで、その人の持って生まれた性根としての「無意識」が試される。
人格者がいざとなるとものすごく凶悪なことを平気でするのは世間ではよくあることで、けっこう怖い人種なのである。西洋の凶悪犯がなぜあんなにもすごいのかといえば、神の規範で悪を裁くという伝統の社会だからであり、悪で正義を裁こうと、その「裁く」ということの正当性が止揚される社会だからだ。その「裁く」という制度的な心の動きが凶悪なのだ。だから、人格者がときにものすごく凶悪になる。
どうしてわれわれのような凡愚の衆が、世の中の人格者に裁かれねばならないのか。
彼らはこういう。人間は正しくない「穢れ」を負った存在だからこそ正しい自分になって自分を見つめればよい、あるいは、自分を見つめて正しい自分になれ、と。
しかし、自然としての人間は、彼らほど薄っぺらではないから、いざとなると、胸がはちきれそうになってわけがわからなくなるところまでいってしまう。
凶悪になるというのもひとつの正しい解答であり、彼ら、どう転んでもそこまでしか下りてゆけないのだ。正義ぶっているから凶悪になれる。正義ぶって他人を裁く心を凶悪な心というのだ。凶悪な心など「穢れ」でもなんでもない。
人格者には、生きてあることの「穢れ」はわからない。
自然としての人間は、何が正しいか否かと問う前に、生きてあるというそのことに対して、胸がはちきれそうになってわけがわからなくなる思いを抱えている。あなたはそこまで下りてゆけるか。原始人は下りていった。そしてそうなったらもう、自分を見つめることなんかできない。「自分=穢れ」を忘れてしまおうとする。
けっきょく誰だって、いざとなったら、自分の性根=無意識があらわれてしまう。そして自分を忘れてしまうタッチを持っていれば、人間としての自然があらわれてくる。
人間としての自然は、それほど凶悪ではない。
凶悪な自分なんか、まあ文明病みたいなものだ。人間の本性(自然)でもなんでもない。そんなものがあれば原初の人類は二本の足で立っていないし、二本の足で立ち上がることはその凶悪さを失うことだった。
日本列島の伝統における「穢れをそそぐ」ということは、「自分=身体」を忘れてしまうことであって、見つめることのできる「自分=身体」に執着することではない。
自然としての人間は、思いが胸にあふれて、自分をつくる余裕などない。
程度の差こそあれ、人間はかなしみややりきれなさやくるおしさなどのネガティブな感情から逃れられない存在の仕方をしている。まあ、自分や生きてあることすなわち身体を忘れようとするのは、人間の本能(=自然)だ。人間の自然はそれほど凶悪ではないし、すべてを洗い流してそこまで遡行しようとするのが「穢れをそそぐ」という行為だ。
つまり、人間の心の深いところには生まれたばかりの子供のような心が潜んでいるのであって、「正しい答え」を選択したり正義で悪を裁いたりする「大人」の心が人間の深みであるのではない。
人類の歴史は、「自分=身体」を忘れることを主題にして歩んできたのだ。
この世に正義などというものはない、という生まれたばかりの子供のような心で世界や他者と向き合えば、そのとき初めて美しいものが見えてくる。



「近代になって人類は自我に目覚めた」だなんて笑わせてくれる。自我を忘れる「深み」を失ってしまっただけだ。
赤ん坊が二本の足で立って歩くことをはじめたとき、どうしてあんなにもうれしそうな顔をするのかといえば、自我に目覚めたのではなく、「自分=身体」の鬱陶しさすなわち自我から解き放たれていることをよろこんでいるのだ。
自我などというものは、猿でも持っている。何をいまさら目覚める必要があろうか。
自我とは、みずからの「身体の輪郭」を自覚して、この身体が世界から分節されてあると気づく意識のことだ。そんな自覚くらい、生き物ならみんな持っている。それが、生き物であることの条件なのだもの。
言葉の本質について語られるとき、よくこんな言い方がされる。「人間は言葉によって自分と世界を分節する」と。
何いってるんだか。
分節されてあると自覚したところから生き物の生がはじまるのだ。世界から分節されて生き物になったのだ。今さら言葉によって気づかされるのではない。
誰かが「人生の最初の不幸は親子になったことにある」といったが、生き物が生き物になったことの最初の不幸は「身体の輪郭」を持ってしまったことにある。
意識は「身体の輪郭」を持っていることの自覚として発生するのであり、それを「自我」という。
自我を持っていることの不幸=悲劇、それを「穢れ」という。そんなことは西洋人だって知っているのであり、それが人間の自然=普遍なのではないだろうか。
だったら「言葉は自我の目覚めとして獲得される」というような倒錯的なことはいうなよという話である。
言葉は、この身体が世界から分節されてあることのいたたまれなさをなだめる機能として生まれてきた。その、音声を発したり聞いたりする体験によってなだめられるのだ。「意味」によってではない。赤ん坊だって、そのようにして言葉を覚えてゆく。その音声によって、生き物としてすでに目覚めてしまっている自我がなだめられるのだ。
人間は、言葉の音声の響きにとてもこだわる。それによって国境をはじめとする棲み分けが生まれてきた。
それほどに人間は、生きてあること、すなわち身体がこの世界から分節されてあることに対するいたたまれなさを抱えて存在している。
何をいまさら分節する必要があろうか。生き物は先験的に世界から分節されてある。分節されてある存在を生き物という。意識は「分節されてある」という自覚として発生する。「分節されてあることの不幸=悲劇」として意識が発生する。そういう「嘆き」こそが意識の起源であり究極のかたちなのだ。
分節されてあることの不幸=悲劇、すなわち自我の不幸=悲劇、それを「穢れ」という。
人間は自我に目覚めたりはしない。最初から自我を負って存在しているのだ。意識それ自体が自我を負ったはたらきなのだ。




西洋と日本列島の思考の流儀の違いというのがどうやらあるらしい。
日本人は自我が希薄である、などというが、それは自我を持っていないのではなく、自我を消す作法が生きる流儀になっているからだ。
日本列島では、「生きる」とか「肉体」などというものは止揚しない。それは、それらに疎いからではなく、それらを「穢れ」と自覚しながら消してゆくのが美意識になっているからだ。
「穢れ」という言葉は、他人を差別するために生まれてきたのではない。わが身のことの、人間としてのあるいは生き物としての根源に遡行してゆこうとするところから生まれてきた言葉なのだ。
縄文・弥生時代の日本列島の住民は、海に囲まれた島国で異民族との軋轢を知らなかったから、どうしても意識が内向して生き物としての根源ところまで下りていってしまう傾向があった。つまり、他人を否定して自分の正当性や優越性を自覚するという現代人のような心の手続きを知らなかった。言い換えれば、そういう手続きを持ってしまえば、心はもう、人間としての根源や生き物としての根源に下りてゆくということをしない。
異民族との軋轢を持ってしまうと、どうしても人間の心は「他人を否定して自分の正当性や優越性を自覚する」というかたちになってゆく。そのとき、まず社会において、第三者としての異民族を否定して自分たちの集団の正当性や優越性を確認してゆくという心の手続きになっていった。
もしも現在のこの国の右翼思想がそのような心の手続きの上に成り立っているのだとしたら、それは、この国の伝統でもなんでもない。それもまた大陸的西洋的な思考にすぎない。
正当性や優越性のところで思考停止しているだけなのだ。
この国の伝統においては、比べる異民族など存在しない。現世と比べる天国や極楽浄土も知らない。ひたすらこの社会やこの生の「穢れ」を自覚してゆくことにある。
その「穢れの自覚」をなだめる装置として天皇が生まれてきた。
日本は美しい国だとか神の国だとか合唱しているなんて、とんだお笑い草だ。彼らはこの国の伝統というものが何もわかっていない。
この国の正当性や他国に対する優越性など何もないのである。基本的にというか伝統的にというか、われわれは他国=異民族を知らない民族なのである。そうしてひたすらこの生の根源=自然に遡行してゆく思考を育て洗練させてきた。
それは、生まれたばかりの子供のような視線でこの世界や他者と向き合う、ということだ。
天皇は、生まれたばかりの子供のような視線でこの世界や他者と向き合っている。自分が人格者だともこの国が美しい国だとも思っていない。ひたすら穢れを自覚し穢れをそそぎながら、生まれたばかりの子供のような視線でこの世界や他者と向き合っている。
戸籍のない天皇は、国民ではない。われわれには「国民ではない」という立場でものを思うことができるか。「国民である」と自覚した瞬間から、自分にもこの国にも正当性や優越性が欲しくなる。
「国民ではない」という立場は、グローバルになるということではない、生まれたばかりの子供のような視線でこの世界や他者と向き合う、ということだ。そこから、この国の伝統的な世界観や美意識が生まれ育ってきた。
われわれは、たとえ国家に属し国家を受け入れても、それでも生まれたばかりの子供のような視線でこの世界や他者と向き合うための「国民ではない」という立場を残しておきたい民族なのだ。そのための形見として天皇がこの二千年間存続してきた。
古墳時代になって大和朝廷という国家組織ができても、それでも人々は、それ以前から守り続けてきた「天皇を祀り上げる」という習俗を手放さなかった。なぜならそれを手放すことは、人間ではなくなくなる、あるいは生き物ではなくなるということだったからだ。
天皇を祀り上げる」ことは、「国民ではない」立場に立つ、ということなのだ。
もっと世俗的にいえば、「人格者ではない」立場に立つ、ということだ。そうして、生まれたばかりの子供のような視線でこの世界や他者と向き合ってゆく。
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