「もののあはれ」と「穢れ」・「天皇の起源」47


人間の本性は邪悪でも凶悪でもない。二本の足で立ち上がったときに、猿の時代に持っていたそうした傾向を失った。そうして他愛なく世界や他者にときめいていった。その代わりこの生や身体に対する「嘆き」が深い存在になった。
嘆きが深くなったから、他愛なくときめいてゆくようになった。
そのときめきが、人間的な美意識として育っていった。
美意識こそ人間性の基礎である。何はともあれ、「美しい」とかんたん・感動する生き物なのだ。性善説とか性悪説とか、そんな善か悪かということなどどうでもいい。原始人は、善も悪も知らなかった。
善とか悪という概念は、共同体(国家)の成立以後に生まれてきた。
「嘆き」と「ときめき」だけがあった。
人間は、猿よりももっと深くこの生を嘆いている。だからこそ世界や他者に豊かにときめく。
まあ原始時代に、「生命賛歌」や「肉体賛歌」などなかった。
人間にとってこの生は、ひとつの「穢れ」である。
日本列島の美意識は「穢れ」を自覚することにある。何が美しいかではなく、何が穢れかと気づくこと。この国には、基本的に美しさの基準などというものはない。だから、世界中のどんな文化もあっさり受け入れてしまう。ときめけばそれが美しいものになる。いまどきの「かわいい」のファッションは、そのようにして成り立っている。何でもありだが、何にでもときめくわけではない。それなりに「目障りな穢れをそそぐ」という手続きを踏んでいる。
何が目障りかというセンスを持っていないと「かわいい」のファッションにはならない。
穢れの意識が切実でなければ、ときめくことはない。
ときめくことは、身体の穢れをそそぐことである。ときめくことができなくなって心が停滞している状態を「穢れ」という。
日本列島の美意識は、何が美しいかを知っている意識ではなく、何が穢れかを知っている意識である。そしてそれは、人間の原始的な心性の普遍なのだ。
人間にとって二本の足で立つ姿勢は、避けがたくこの生の「穢れ」に気づかされる姿勢である。



もののあはれ」は平安時代に流行した言葉であるが、その美意識そのもののかたちは日本列島1万年の歴史を通じての伝統だともいえる。
「もの」とは「まとわりつくもの(こと)」に対する感慨を表す言葉であり、すなわち「穢れ」のことだ。
「も」は「藻」の「も」、「もやもやしている」ものや感慨を表す。「混沌」の語義。
「の」は「乗る」「糊(のり)」の「の」、「接着」の語義。
「もの」とは「もやもやしてくっついているもの」あるいは「まとわりつくもの」、すなわち「穢れ」。
そして「あはれ」とは「消えてゆく」ものや感慨を表す。
もののあはれ」とは「穢れが消えてゆく」あるいは「穢れをそそぐ」こと。まとわりついているものを洗い流すこと、そこから新しい何かが生まれてくるのが日本列島の美の作法なのだ。
もののあはれを知る」とは、穢れを消す美意識のことだ。この世界やこの身体をはかないものと思う意識は、この生の「穢れ」を深く思うところから生まれてくる。
なんであれこの世の穢れをそそいでいる姿を美しいと思う意識のことを「もののあはれを知る」という。
たとえば、静かな山奥の森の中にいてどこかから鹿のさびしげな鳴き声が聞こえてくれば、きっと「もののあはれ」を感じることだろう。つまりそれは、「生命賛歌」や「肉体賛歌」がまとわりついていない気配であり、人の姿だって、そういうものがまとわりついていない存在感の薄さを美しいと思う。
きゃりーぱみゅぱみゅ」に、誰も肉体賛歌や存在感など見ていないだろう。あんなにもキッチュなファンションで着飾っていても、それでも「もののあはれ」の気配が漂っている。着飾ることによって、なお存在感が薄くなっている。そのファッションは、たとえキッチュであっても、目障りではないように按配されている。
存在感が薄いから印象も薄いかといえばそうではない。日本列島の住民は存在感の薄いものにときめく。しかし、ただ芸もなく存在感が薄いだけでは心に残らない。「穢れをそそいでいる(洗い流している)」という気配を持っていなければときめかない。
「穢れをそそいでいる姿」を「もののあはれ」といい、その姿にときめいてゆくことを「もののあはれを知る」という。
ときめきがともなっていないといけない。
もののあはれ」は、肉体賛歌ではないが、セックスアピールでもある。祀り上げる対象でなければならない。そしてこれは、平安朝だけの美意識だと解釈するべきではない。縄文以来の日本列島の歴史の水脈なのだ。
日本列島の住民は、つねに「穢れ」の意識とともに歩んできた。そしてそれは、「穢れをそそぐ」ために何かを祀り上げずにいられない衝動をいつも募らせてきた、ということだ。
こんな狭い島国に閉じ込められて暮らしていれば、どうしても「穢れ」を意識してしまう。
もののあはれ」といっても、べつに衰弱した退嬰的な美意識ではないし、文学者の特権的な美意識でもない。世界にときめくことを「もののあはれを知る」というのだ。



きゃりーぱみゅぱみゅ」のファッションコンセプトは、縄文時代土偶の造形と似ている。
土偶は、生命(肉体)賛歌とか呪術のためにつくられたのか。
肉体賛歌なら、もっとリアルに肉体をかたどるだろう。
それは氷河期明けすぐのころからつくられており、最初はかんたんなつくりの小さいもので、1万年後には遮光器土偶のような大きくて精巧なつくりのものになっていった。
しかしそれでも、リアルな肉体表現とは縁遠いかたちのものばかりだった。むしろ時代が後になればなるほど、肉体表現から遠ざかっていった。
縄文人は、肉体賛歌をしたがらない人たちだった。それは、肉体の「穢れ」をいつも意識していたからだろう。
しかしそれでも、それはたしかに手足がある人体をかたどったものだった。
ある歴史家は、それを「精霊」だといった。
しかし、精霊にしては動きがなさすぎる。図形的というか、記号的というか、動き出しそうなかたちをしていない。ひとまず胴体に手足がついているかたちをしているが、人間とも精霊ともいえないようなかたちである。顔とか乳房も、まるでそれらしさがなく、そこにそれがあるという記号のようでしかないし、目鼻のない土偶もある。
造形技術が稚拙だったからではない。彼らはすでに、リアルにつくろうと思えばつくれるだけの技術と感覚を持っていた。それでもあえて、あんなへんてこなかたちにつくってばかりいた。
土偶というのは、どちらかというとすべて気味の悪いかたちをしている。おまけに、体の表面に騒々しい模様が刻まれていることが多い。人体を表現しているとは思えないし、その相似形である精霊だとも思えない。
そしてそれらはすべて、壊して集落の隅にある墓近くの土に埋められていた。
とすれば、土を清めるためのものだったのではあるまい。そのためなら集落の中心のお祭り広場や家の床下に埋める。
まあ、何かの呪術だったと考えるのが普通だろうが、どうもそうとも思えない。
墓場近くの土に埋めたのだから、一種の「埋葬」という行為だったのだろうか。
もしかしたらそれは身体の穢れを象徴するもので、その「穢れ」を埋葬した、と考えることもできる。だから、壊して埋めた。わざわざ壊すというのは、ネガティブな何かをかたどったものであったからだろう。
祟りをもたらす精霊をそうやって埋葬したというのなら、集落から離れた場所に埋めに行くだろう。
彼らはたぶん、精霊などというものを知らなかった。精霊の祟りなどというものをイメージしていたら山の中には住めないし、精霊と仲良く対話するというのなら、それを壊して埋めるということはしないで部屋に飾っておくだろう。
おそらくそれは、精霊などというものではなかった。
ようするに呪術のためなどというようなものではなく、それが彼らの「穢れをそそぐ作法」だったのだ。
彼らは山の中に閉じ込められ、しかも身体に大きな負荷のかかる暮らしをしていたから、身体の変調はいつも気にしていたにちがいない。また縄文集落は女子供だけの集落である場合が多く、男がいなければよけい自閉的になってしまう。そのようにして、「穢れ」を強く意識していったのではないだろうか。そうして旅をする男たちの集団が訪ねてくることを待ち焦がれていた。
縄文土偶は、「穢れ」を負って停滞してしまっている身体を表しているのではないだろうか。というか、「穢れ」そのものを象徴した表現だったのではないだろうか。
身体を表そうとしたのではない、「穢れ」そのものを表そうとした。山の中で暮らす女たちの、鬱陶しい身体を抱えて生きることのくるおしさを表現しているのではないだろうか。
男がそばにいれば気晴らしもできるが、いなければ気持ちがどんどん内向してヒステリーを起こしそうになるし、女どうしの諍いも起きてくる。そういう「穢れ」を土偶にして埋葬しようとした。
良くも悪くもそのエキセントリックなかたちには、女のヒステリー(情念)が込められているのではないだろうか。
それは、ギリシャやインドの「肉体賛歌」の彫刻とはまったくコンセプトが違う。
それは、呪術だったのではない。みずからの身体や心の「穢れ」を「埋葬」する行為だった。
それは、ある意味では、古代ギリシャのおおらかな肉体賛歌の彫刻よりも、もっとモダンな芸術表現だったのかもしれない。西洋でそういう芸術表現のムーブメントが起きてきたのは、20世紀に入ってからのフォービズム(野獣派)以後のことだ。
デフォルメ……この表現は日本列島の縄文以来の伝統であり、江戸時代(17世紀)の円空仏などは、まさにフォービズム(野獣派)を先取りした表現だといえる。
いまどきのマンガの「ちびキャラ」の表現だって、縄文時代土偶が水源になっているともいえる。
日本列島の「デフォルメ」は、「穢れ」そのものの表現であると同時に「穢れをそそぐ」作法として受け継がれてきた表現である。
「簡略化する」とは、「穢れをそそぐ」ということであり、それを「もののあはれ」という。そうやって「ひらがな」が生まれてきた。
まあ身体の「穢れ」を意識すれば、身体の輪郭が歪んでくるような心地がするのだろうか。
女の「ものぐるい」、縄文土偶は、そんな生きてあることのいたたまれなさを感じさせる。



身体あるいはこの生の「穢れ」を意識するのは、日本列島の伝統である。
「穢れ」を意識することが美意識なのだ。何が美しいかという前提があるのではない。そこが、神を持っている西洋と神を持たない日本列島の美意識の違いかもしれない。
西洋人は、はじめに神によってつくられた完全な美の世界があり、それをめざすというかたちで美意識を紡いでゆく。彼らにとって美はひとつの秩序なのだろう。
それに対してそうした神という前提を持たない日本列島の美は、「なりゆき」から生まれてくるものにすぎない。
これは、西洋の庭園と日本のそれを比べてみるとよくわかる。
「かわいい」のファッションだって、「なりゆき」から生まれてくるかたちであって、秩序=規則などない。
そしてその「なりゆき」とは何かといえば、「穢れ」をそそいでゆく過程である、ということだろうか。めざすかたちがあるわけではないが、「穢れ」をそそがずにいられない思いがあるし、「穢れ」をそそいでいるかたちに対するときめきがある。
縄文人にとっては、土偶を壊して土に埋めることが美の表現であり完成だった。日本列島の美の表現は、神の秩序をめざしていない。土偶においては、壊すことが美の表現だった。
伊勢神宮の本殿が20年ごとにつくりかえられてきたということは、20年ごとに壊し続けてきたということでもある。
壊すことは、「穢れ」をそそぐことであり、新しい何かが生まれることである。
冬が去れば、春になる。
「穢れ」をそそぐことによって美が生まれてくる。「穢れ」をそそぐことが美である。
神の秩序という前提を持っていないのが、縄文以来の日本列島の美意識の伝統である。
「かわいい」のファッションであれ、その美しさのコンセプトは、「秩序をつくり上げる」ことをめざしているのではなく、何かを壊して「穢れ」をそそいでゆきながら新しい何かが生まれてくることと出会うときめきを表している。
日本人は、平気で古いものを壊してしまう。そして古いものがよみがえるときに、新しいものと出会ったときのようにときめく。そのようにして東京という町がつくられ、京都や奈良という町が残されている。このあたりの心理機制はややこしい。われわれは、京都や奈良の景色に、「穢れ」がそそがれている「姿」を見ている。その景色が今でも残っているのは、そのあいだずっと「穢れ」をそそぎ続けてきたことを意味する。
「穢れ」がまとわりついていれば壊してそそごうとするのが、この狭い島国に閉じ込められて歴史を歩んできた日本人の性(さが)である。



ともあれ、そのような美意識を携えて弥生時代奈良盆地に人々が集まってきて大きな集団をつくり、天皇が生まれてきた。
天皇は、大きくなりすぎた集団の「穢れ」をそそいでゆくための形見だった。
大きな集団で暮らしてきた歴史を持たない人々が、はじめて大きな集団で暮らすようになったのだ。「穢れ」を感じないはずがない。
しかし、他愛なく人にときめいてゆく性向を持ちしかも「穢れをそそぐ」作法は1万年のあいだずっと続けてきた人々だったのだから、それによって内乱などの大きな混乱が起きたとも思えない。
内乱が起きないための形見=装置として天皇が生まれてきたのだ。つまり、「もののあはれ」=「穢れをそそぐ」という美意識を共有してゆくための形見として。
「穢れをそそぐ」という美意識とともに日本列島の歴史が流れてきた。天皇はそのための形見(象徴)だったのであって、天皇が支配者として日本列島の歴史をつくってきたわけではない。
日本列島の住民は、「穢れをそそぐ」という美意識を共有してゆかないと集団をうまく成り立たせることができない。それはもう、天皇など存在しなかった縄文時代以来の1万年の伝統なのだ。
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