やまとことばと原始言語 21・ことばは「共有」する機能である

もっとも深く思考している人間とは、もっとも深く嘆いている人間である。
思考の深さは、知能指数の高さよって決定されるのではない。
天才なんて、俗物ばかりだ。
人は何によって生きてあるのか、と彼らに聞けば、
プラトンは、人間であることやこの社会の「理想」の実現を目指して生きている、という。つまり、人間は「いかに生きるべきか」という命題を抱えた存在である、と。
そしてマルクスは「食うこと=経済」が人を生かしている(=下部構造決定論)、という。
どちらも変だ。こいつらは、どうしようもない俗物だ。
人間は、理想で生きているのでも、食い物(経済)で生きているのでもない。
人間は、人と人の関係で生きているのだ。
いかに生きるべきかという「理想」も、生きのびるための「食い物=経済」も、二次的な問題に過ぎない。
人は、生きのびようとなんかしていない。すでに生きてあるのだ。そしてそれをひとまず受け入れている存在なのだ。つまり人類の歴史は、その事実を受け入れてゆくいとなみとして動いてきたのだ。
人間が住みにくい極北の地でも住み着くことができるのは、生きてあることを受け入れてゆく存在だからであって、生きのびようとするなら、エスキモーもとっくに温暖な地に移住しているさ。
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ある知識人が、こんなことをいっていた。
北朝鮮に砲撃された延坪島の人はワタリガニを命の糧として生きている、だからワタリガニをとるために逃げ出さないで島に残った人もいる、庶民とはそうやって命を削って生きている存在である」と。
もっともらしい説明だが、
じゃあ、逃げ出した人は、庶民ではないのか?
そうじゃないだろう。そんな「下部構造決定論」で庶民が語れるのかねえ。
ワタリガニは大切だけど、なければないであきらめる。それも、庶民だ。
少しでもいい暮らしをしようとがんばる、なんとか生きのびようとがんばる、それが庶民だ、といいたいのだろう。
それが、命を削っていることか。庶民は、そんなことのために命を削っているのか。
生きてあることに深く嘆いている人は、生きのびることやいい暮らしをすることをめざしてがんばるのは苦手だ。
庶民は、ただ、生きてある「今ここ」を受け入れているだけだ。だから、支配者から過酷な労働や困窮した生活を強いられれば、それも甘んじて受け入れる。北朝鮮の庶民のように。
延坪島から逃げ出した人々だって、みずからの運命にしたがっただけだ。それもまた、庶民の姿だろう。
チェルノブイリの農民は、その地を訪れたジャーナリストには大切に取っておいた安全な缶詰を食べさせ、自分たちはその地で獲れた野菜を危険を承知で食べていたという。彼らは、みずからの運命に従い、生きのびることは断念していた。なぜそんなことができるかといえば、生きてあることを深く嘆いているからだ。生きのびようと必死にがんばっている者には、そんなことは絶対できない。
命を削ってかんばるのが庶民だなんて、そんな安っぽい物語(下部構造決定論)で庶民を語らないでくれ。
ひとまず庶民は、命なんか大切にしていない。命を嘆いている。「命を削る」とは、そういうことだ。島に残ってワタリガニを取ってりゃ庶民だというわけでも、命を削っている姿だというわけでもない。
庶民を生かしているのは、プラトンのいう「理想」でもマルクスのいう「食い物=経済」でもない。
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限度を超えて密集した群れをつくって定住している人間という存在にとって、人と仲良くすることこそもっとも切実な問題であるはずだ。
「あなた」と微笑み合うこと、ひとまずそれがあれば生きられる。
秋葉原通り魔事件の犯人の若者は、「彼女がいれば生きられる」といった。
そして、犯行の動機については、「みんなが自分の携帯サイトに嫌がらせのコメントをしてきたからだ」といった。つまり彼は、誰とも微笑み合うことができない、と絶望した。
人間を追いつめるのは、人間なのだ。人間が、他者と微笑み合う体験をどれほど切実に求めているかということを、彼が教えてくれている。
人間は、群れ集まって生きている存在である。そういう人間が生きてあるために必要なものは、「理想」でも「食い物=経済」でもない。他者と微笑み合う体験なのだ。それが得られない彼の絶望を異常なものと見るべきではない。世の中には、そうやって自殺する人もいるし、気が狂う人もいる。そういう絶望のひとつなのだ。そういうかたちで追いつめられている人は、いくらでもいる。無視する、といういじめもあるではないか。
人間は生きてあることを嘆いている存在であり、庶民は、その嘆きを「共有」してゆくことによって、微笑み合い、連携してゆく。
彼が携帯サイトで生きてあることを嘆いている存在としての「ブサイクキャラ」を演じようとしたのも、、その嘆きを共有しようとする態度だったはずだ。
庶民は、表面的にはなんであれ、無意識のところでは「嘆き」を共有している。したがって、決して「生きよう」とする存在ではない。ただ、生きてあることを受け入れているだけだ。
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ヴィンセント・ギャロの「バッファロー66」という映画のラスト近くで、前科者の主人公が「もう生きられない」とつぶやく。そしてその彼を救ったのは、何を考えているのかわからないような女との微笑み合う体験だった。
話なんか通じ合わなくてもいい、微笑み合うことさえできれば……と監督であるギャロはいっている。
ことばの発生だって、通じ合うためではなく、人と人が微笑み合うための機能として生まれてきたのだ。
ひとつのところで一緒に暮らしているものどうしが、いったい何を伝達する必要があろうか。
しかし、微笑み合う体験がなければ、一緒になんか暮らせない。
人間のことばは、離れている相手に何かを伝えるために生まれてきたのではない。そばに寄り集まっているものたちの語らいの道具として生まれてきたのだ。
生きてあることを嘆いているものたちが生きてあることを受け入れるために、すなわち限度を超えて密集した群れをつくって定住していることを嘆いているものたちがそれを受け入れるために、微笑み合うことのできる道具としてことばが生まれてきた。
「あなた」と微笑み合うことができれば、生きられる。微笑み合うことができなければ、生きていられない。限度を超えて密集した群れの中で定住して暮らしている人間にとっての第一義的ないとなみは、「食うこと=経済」ではなく、他者と微笑み合う体験なのだ。
そういう体験としてことばが生まれてきたのであり、ことばはどのようにして生まれてきたかと問うことは、人間を生かしているものは何か、と問うことだ。
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たがいの身体のあいだの「空間=すきま」で「ことば=音声」を共有し、微笑み合う。限度を超えて密集した群れをつくって定住してゆくためには、何よりそういう体験が必要だった。生きてあることを嘆いている人間には、理想とか食い物ということ以前に、その体験こそ必要だった。その体験が切実だったから、限度を超えて密集した群れをつくって定住していったのだ。理想や食い物のためではない。
人間は、嘆く生き物だ。
人間の歴史は、不安定で危険な二本の足で立っていることの居心地の悪さ、すなわち生きてあることの「嘆き」を共有するところからはじまっている。われわれは、存在そのものにおいて、すでに生きてあることの「嘆き」を共有している。そこから人間的な連携が生まれ、ことばが生まれてきた。
人間がなぜ助け合い連携してゆくかといえば、生きてあることの居心地の悪さや嘆きを抱えて存在しているからだ。助け合わないと生きていられない弱い存在だからだ。この地球上の王者として君臨していても、根源的には嘆きを共有する弱い存在なのだ。
原初の人類は、生きてあることの「嘆き」を「共有」してゆくことによって、人間になった。そして「共有」してゆくことが、生きてあることのカタルシスになった。
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微笑み合えば生きられる、ということは、「共有」してゆくことが人間性の基礎である、ということだ。
ことばもまた、そういう人間としてのいとなみ、すなわち「共有」しあう行為として生まれてきた。
「やあ」と呼びかけて「やあ」と答える。
同じ音声を共有してゆくこと。これが、ことばのもっとも原初的なかたちである。
「寒いね」と話しかけて「寒いね」と答える。
最初は「アー」と「オー」とか、子音の単音だけの発声だったのだろう。意味なんか何も意識しなかった。それでも、そうした音声を共有してゆくことは、人と人の関係に、あるよろこびやときめきを与えた。共有することそれ自体に意義があった。
それは、人と人が寄り集まり向き合いながら、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」が確保されていることの安心を与えた。それらの音声は、その「空間=すきま」で生成していた。彼らは、その「共有」している「空間=すきま」を祝福しあった。
原初のことばは、そうした「共有」のための機能だったのであり、同じ音声を交し合う行為としてはじまった。
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人間にとっていちばんしんどいのは、人と人の関係であり、そして生きてあること醍醐味またそこにこそある。
それは、飯を食うこと(経済)よりも、もっと大きな問題なのだ。
もしも餓えることがいちばんしんどいのなら、餓えることこそ自殺の最大の理由になる。しかし、餓えることが原因で自殺する人間なんかめったにいない。人間は、死んでしまうまで餓え続けることができる生き物である。いや、人間でなくても、生き物はみんなそうである。
病気を苦にして自殺するのは、それによって人との関係に絶望してしまうからだろう。絶望の仕方は人さまざまだろうが、武士の切腹自殺だって、それはそれで人との関係を断ち切る行為だったはずだ。
人間を生かしているのは、食い物(経済)ではなく、人と人の関係である。
人間は、限度を超えて密集した群れの中に置かれてあることのうっとうしさを嘆きつつ、そこから生きてあることのカタルシスを汲み上げてゆく。そういう人と人の関係が、人間を生かしも殺しもしている。
すなわちことばは、伝達し合って関係がくっついてしまうことのうっとうしさを嘆きつつ、そんな密集した中でもたがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保しながら一緒にいることのめでたさを止揚してゆく機能なのだ。
ことばによって伝達することを覚えたのではない。人間は、先験的に伝達し合っている存在であり、その関係を消去してゆく機能としてことばが生まれてきたのだ。
ことばは、伝達することを消去する機能である。伝達することを消去して「共有」してゆく機能としてことばが生まれてきたのだ。
伝達しないことこそ、ことばの命だったのだ。
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貧しい暮らしをしていても、お客にはできるかぎりのもてなしをしようとするのが、日本列島の庶民の伝統である。
そこで、中世の村では、客をもてなすための上等の食器をそろえて村のある場所に常時置いておき、必要になったものがそれを持ち出して使い、終わったら戻しておく、という習俗があった。
原初のことばの機能も、まあこんなようなことだ。それは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」で共有されていた。
みんなが共有する神社や寺を建てるとか、集会所を設けるとか、そんなことは世界中でやっていることだろう。ことばも、そうやって「共有」されているのだ。ことばは「贈与」も「返礼」もされない。「共有」されるのだ。それは、贈与と返礼というコミュニケーション(伝達)を否定し、そのうっとうしさを克服してゆく行為である。
道でばったり人と出会う。顔が合う。何もいわなければ、たがいに相手の心を探りあうことになる。そういううっとうしい状態を解消する行為として、たがいに「やあ」といって微笑み合う。それによって、たがいの相手の腹の内を探ろうとする意図が消去されている。腹の内がわかるとか腹の内を伝達するとかという不可能なことが免除されている。不可能なことなのに、ひしめき合って一緒に暮らしていれば、わかった気になって、勝手に傷ついたりトラブルになったりすることがどうしても起きてくる。そういうややこしいことを解消する機能として、同じことば(=音声)を共有してゆく、という行為が生まれてきたのだ。
わかった気になってしまうこと、すなわち「伝達」されているような気になってしまうこと。限度を超えて密集した群れをつくって定住していれば、どうしてもそういうことが起きてきてしまうのであり、その関係を克服する機能としてことばが生まれてきた。
したがってことばは、根源において「伝達」の機能ではない。
人間はほんらい、そのような「伝達」という行為をうっとうしがる生き物なのだ。
たがいに伝達することを断念しながら「共有」してゆくことが、この限度を超えて密集した群れの中で一緒に生きてあることのめでたさなのだ。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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