エクリチュール」という。意味は、「文体」の本質を表す批評の概念、といったところだろうか。
誰もが、それぞれの社会的階層にしたがってことばや言いまわしを選択している、ということらしい。知識人には知識人の「文体=エクリチュール」があり、庶民には庶民の「文体=エクリチュール」がある、ということだろうか。
誰もが、自分にしっくりすることばや言いまわしを選択しながら話をしたり文章を書いている。
しっくりすること、これを「エクリチュール」という。
しかしやつらは、どうして「階層」などといういやらしいことばを使うのだろう。
庶民がマルクスロラン・バルトを読んだっていいだろう。知識人だって「天才バカボン」のマンガも読むだろう。
世の知識人が思いも及ばないような人間の深淵を覗き込んでいる庶民だっているだろう。
人それぞれ自分に「しっくりする」ことばや言いまわしを持っている。「しっくりする」といえばいいだけじゃないか。
根源的には、どんな大哲学者のいうことだろうと、人間なら誰だって知っていることである。彼は、誰だって知っていることをことばにしてみせただけである。それは、大哲学者に教えられたことではない。われわれだってすでに知っていることを、ことばとして大哲学者と共有しただけである。
われわれが、大哲学者に教えられることなんか、何もない。どんなことだろうと、われわれだってすでに知っている。ただ、その本を読めば、そのことばを大哲学者と共有してゆく体験がある、というだけのことなのだ。
大哲学者のそのことばは、「理解」されるのではない。「共有」されるだけなのだ。
人間は、「理解」なんかしない。すでに知っていることをことばとして確認するだけなのだ。
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そこで内田樹先生は、こういう。
私は、すべての読者に対して「敬意」を払い、「理解されたい=教えてやりたい」という願いで文章を書いている、と。
その誠実さを持っているから私の本は売れるのだ、といいたいらしい。
まったく、こういう言い方をされると、ほんとにむかつく。
「理解されたいという願い」といえば聞こえはいいが、ようするにそれは、すべての読者を丸め込んでしまいたい、というスケベったらしい欲望のことだろう。
読者に対する「敬意」を持っているのなら、自分の知っていることなんか誰でも知っている、と思え。そう思えば、「理解されたい」とか「教えてやる」という態度なんか成り立たないだろう。
僕は、知的な「階層上位」にあるものたちがわれわれよりも人間について深く真実に気づいているとは、ぜんぜん思っていない。
より深く嘆いているものが、より深く気づいているのだ。
僕は「理解されたい」とか「教えてやる」というよう態度で文章を書いたことなんか一度もない。自分の提出するこのことばは誰かと共有しているにちがいない、という信憑で書いているだけだ。その信憑を持って、なんとなく「しっくりする」ということばや言いまわしを選んでいるだけだ。
「しっくりする」とは、他者と共有しているにちがいないという「信憑」のことだ。それを、「エクリチュール」というのではないのか。
ことばは、根源において、そういう「信憑」の上に発せられているのだ。
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人間は、限度を超えて密集した群れの中に置かれてあることや二本の足で立っていることの、みずからの不自然さを嘆いて存在している。その不自然さを生きるためには、その不自然さに対する「嘆き」を共有してゆくことしかない。
「共有」しているというカタルシスが、人間を生かしている。そういうカタルシスの体験として、ことばが生まれてきた。
このことばは誰でも知っているという信憑があるから、このことばを発するのだ。誰も知らないことばなんか、ことばではない。
人間は、「共有」したがる生き物だ。「共有」できる「嘆き」を持っている生き物だ。
「嘆き」すなわち生きてあることに対する異和こそ生き物が生きてあることの根源的なかたちであり、人間はそれを意識化している存在である。
すべての生き物が「生きてあることに対する異和」すなわち「嘆き」を共有しているから、「生物多様性」とか「共生」という事態が成り立つのだ。
ことばは、根源的には、「共有」するアイテムである。「理解されたい」とか「教えてやる」というような「伝達」の道具ではない。
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生き物の生態系は、「共存共貧」の上に成り立っている。
原初の人類は、生きのびようとして直立二足歩行をはじめたのではない。それは、不安定で、胸・腹・性器等の急所をさらしたとても危険な姿勢であり、生きのびることが不可能な姿勢だったのだが、それでも、限度を超えて密集した群れの中で体をぶつけ合っていることのうっとうしさはひとまず解消された。つまり、そのとき彼らは、滅びることを覚悟しながら、「今ここ」に決着をつけていったのだ。これが、直立二足歩行の起源である。
そのようにして彼らは、「滅びることの可能性」という「貧」を共有していった。命は、そういう「貧」のもとでもっとも豊かにはたらく、という逆説を持っている。
すべての生き物は、「滅びることの可能性」という「貧」を共有し共存している。そのようにして「生物多様性」が実現されている。「共存共栄」などという虫のいい条件で存在しているのではない。
そしてこの「共存共貧」が、人間の集団から生まれてくる「文化」というものの基礎である。
すべての文化はまず「共存共貧」のかたちで生まれてくる。そうして歴史は、やがてこれを「共存共栄」の装置へとつくり変えてゆく。なぜなら、「共存共貧」においてこそ命はもっとも豊かにはたらいているから、長い時間のあいだにはどうしてもそうなってしまう。
いつまでも「共存共貧」のままでいられないことはもう、歴史の宿命であるのかもしれない。子供がいつまでも無邪気なままでいられないように。
われわれの無意識は「共存共貧」としてはたらいているが、大人になれば観念のはたらきがどうしても「共存共栄」になってしまう。その落差の深さのところで、われわれ現代人は病んでいる。
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しょうもない人生を生きているくせに、みずからの命はかけがえのない価値を持ったものだ、と思わねばならないとしたら、頭も体もおかしくなってしまうだろう。そんなようなことだ。
現代社会は、何がなんでも「人は共存共栄を生きている」ということにしたがっている。
「命の尊厳」なんて、お前らがそう思いたいだけじゃないか。それは、真実でもなんでもない。そんなお題目を大合唱しながらお前らは、死を前にしてうろたえまくっている。
「命の尊厳」なんて、お前らの悪あがきだ。どいつもこいつも、いつ死ぬかわからないしょうもない命を生きているくせしやがって。
人々は、みずからの人生を飾り立てることによって、みずからの命の卑小さを隠蔽している。
誰の命だって、いつ死んでしまってもおかしくないしょうもないしろものさ。人間はほんらい、そういうことを自覚するほかない「嘆き」を共有しながら共存している存在なのだ。そこから、人間的な「文化」が生まれてきたのだ。
僕には、「命の尊厳」を共有しているという信憑なんかない。生まれてきてしまったからしょうがなく生きているだけだ、という「嘆き」を「あなた」と共有しているという信憑があり、そこに立って書いているだけだ。
そしてもともと「文化」とは、そういう「嘆き」を共有しているところから生まれてきたものだと思っている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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