1<セクシーな男の話>
去年の東京国際映画祭でグランプリをとった「ソフィアの夜明け」というブルガリアの映画が渋谷のイメージフォーラムで単館上映されているというので再見してきた。
主人公は、なげやりな暮らしをしながらも心の底ではけんめいに何かを問うている知的で傷つきやすい男、といった感じだろうか。つまり、現代のブルガリアの悩みと不安と病理を一身に背負ったような若く貧しい芸術家(モダンアートの画家)である。
そしてその悩みと不安と病理は、現代の世界中の人類が共有しているものでもある、と思わせられるところに、この映画の高く評価されているゆえんがあるらしい。
そういう男の、日常の人との出会いが、気負わず淡々と描かれてある。
この男、酒やタバコはむさぼるように摂取するが、食い物に対しては、じつにまずそうに、いやいや食っているという風情になる。そしてそれが、この映画の女性の観客にとっては、たまらなくセクシーであるのだとか。
現在のこの国のテレビの画面から飽きもせず垂れ流されている、ものを食うタレントたちの、あのうっとりとしたような呆けヅラとは、まるで正反対の表情なのだ。たしかにあのゆるみきった呆けヅラは、セクシーでもなんでもない。あんな顔をさらして恥ずかしくないとしたら、それもまた、まぎれもなく癒しがたい病理である。
セクシーだということは、それこそが人間の自然であると思わせられるということだ。とすれば、うまそうに食うことが生き物の自然であり本能だという認識は、とんでもない倒錯であり嘘っぱちだ、ということになる。
生き物は、腹が減ることがうっとうしいから、しょうがなく食っているだけである。
そういううっとうしさを消去してゆくことが生きるいとなみであり、生きようとする先験的な衝動(本能)などというものはない。
空腹をうっとうしいと感じなければ、食おうとする衝動など生まれてこない。うっとうしいと感じることが「本能」なのだ。
生きることだって、うっとうしいことさ。生まれてきてしまったから、しょうがなく生きているだけだ。われわれは、そうやって生きている人間を、チャーミングだともセクシーだとも感じるのである。この映画は、われわれに、そういう体験をさせてくれる。
女は、生きてあることのうっとうしさを、みずからの身体に対するうっとうしさを通じて、男よりもずっと深く知っている。
だからこの映画は、女の観客に受けている。主人公のそんな傷ましさが映し出されるシーンでは、そっとすすり泣いているような声も観客席のどこかから聞こえてきた。
      2<性秩序という制度性>
内田樹先生は、「女は何を欲望するか?」という著書の中で、「この社会の性秩序は絶好調に機能している」といっておられる。
男は男らしさをディスプレイし、女は女らしさをディスプレイすることによって男女がくっつきあっている……と単純に思いこんでいる人が、こういうことを言い出す。
しかし、世の中の「男と女」のしくみは、そんな簡単なものじゃないだろう。
そんなディスプレイしたがりの男女ばかりがもてているわけではない。
生きていることなんかうっとうしいばかりだ、という風情を漂わせている男が、チャーミングであったりセクシーであったりもする。
女は、男自身が思うほど男らしさを求めているわけではないらしい。生きてあることそれ自体の感慨を共有してゆくことのほうがもっと切実な問題になっている関係もある。
男であること女であることなんか、当たり前のことだ。いまさら問うまでもない。女がGパンをはこうと、女の子が黒いランドセルを持とうといっこうにかまわない世の中になってきている。それは、たとえ男女であれ、人間として共有する何かを持ちたいという願いが切実になってきている、ということを意味する。
男は男に決まっているし、女は女であるに決まっている。そこから、人間としてのプラスアルファを持っている男や女が、チャーミングだともセクシーだとも評価される。
男らしさをディスプレイしたからといって、女にもてるとはかぎらない。「この世の性秩序は絶好調に機能している」わけではないのである。
じつは、プライベートな世界では、性差から逸脱したところで男と女の関係が成り立っていたりする。
酒場をはじめとするフーゾクの世界では、よりヴィヴィッドに男と女の関係が露出する。そしてそういう場所では、なおのこと、男らしさをディスプレイする男よりも、人間としての生きてある感慨を共有できる男こそがもてていたりする。
「この世の性秩序は絶好調に機能している」といって男らしさをディスプレイし女らしさを問うている男ほど、早々とインポになったりする。人間が一年中発情しているのは、オスとメスの「性秩序」から逸脱しているからだ。男である、とか、女である、ということは、「性秩序」から逸脱しているということである。人間にとってセックスすることは、猿のような年に一回のお祭りではないのである。「性秩序」を喪失して、「性秩序」をたえず問おうとしているから、一年中発情しているのだ。そんなものが「絶好調に機能している」とのんきに考えて、「問う」という契機を持っていないからインポになっちまうのだ。
女の体はなぜそうなっているのかと問う視線で眺めるのではなく、女であるという前提のまま女としての価値を検閲する視線で眺めるから、インポになっちまうのだし、女に気味悪がられもする。
性に対する原初的で無邪気な「問い」を失ったら、ちんちんは勃起しない。
欧米の女は、日本列島の女に比べたらおっぱいも尻も大きくて、ずっと生々しく女くさい体をしている。なのに、どうして欧米の男は勃起してもあまり硬くならず、同性愛やレイプが多いのか。たぶん彼らは、人間が猿から分かたれたときの原初的な「問い」が希薄で、女としての価値を検閲する視線が強すぎるのだろう。
昔の日本列島の女は、今よりももっと貧弱な体をしていた。それでも男たちは、原初的で無邪気な性に対する「問い」を失わなかったから、現代人よりもずっと硬いちんちんを持っていた。
女としての価値を検閲されることの居心地の悪さを、たぶん女は持っている。たぶん女は、女としての価値をほめられたいのではない。自分が女であることも、自分であることさえも忘れて、この世界にときめいていたいのだ。だから、男であることを示してもときめいてこない。人間であることを示さねばならない。
人間というのはたぶん、そのようにして「性秩序」を喪失した存在であり、男のセックスアピールも女のセックスアピールも、人間であることや生き物であることの悩ましさが現われているところにある。
       3<食物連鎖と共存共栄の嘘>
微生物のような原生生物の世界にも、大きな個体が小さな個体を食べるという食物連鎖の関係がある。
そこで、彼らの環境をもっとよくしてやるという実験をすれば、すべての原生生物の行動は活発になり個体数も増えるが、けっきょくは大きな個体が小さな個体を食べつくしてすべてが滅んでしまう、ということになるらしい。
貧弱な環境で、それぞれがやっと生きているという状態で、はじめて共存が成り立つ。これを、「共存共貧」というらしい。
環境がよくなれば、活動が活発になって、エネルギーもたくさん消費する。だから、個体数が増えたということだけでなく、個体そのものの食物摂取量も増えるから、どうしても食べつくすということになってしまう。
現在の地球上でも、北の先進国は環境がいいから一人当たりの食物摂取量も多くなっているし、おまけにテレビタレントの美味いものを食うアホヅラの映像が垂れ流されたりして、たくさんの食い残しなどが廃棄物になっている。共存共栄の文化だ。
       4<生きるよろこびなんかいらない>
おいしいものを食うことは生きることのよろこびである、という。たしかにそうだろう。しかしそんなよろこびが、人間を生かしているのではない。
生きるか死ぬかのせっぱつまったところで生きているわけでもない人間が、「生きるよろこび」などというしゃらくさいことをいうな。
せっぱつまってよろこびなんか何もなくてもまだ生きている人間がいる。彼らは、よろこびがあるから生きているのではない。餓えている人や病んでいる人たちにとって生きてあることなんか、うっとうしいばかりなのだ。いやいやしょうがなく生きている。人間を生かしているもののなんたるかは、そういう人たちに聞け。
いやいやしょうがなく生きている人間のほうが、セクシーだし、知的だし、人と一緒に生きてあることのせつなさも、われわれよりずっと深く噛みしめている。
偉い坊主だろうと哲学者だろうとこの社会の成功者だろうと、お前らなんぞにこの生の真実を問おうとは思わない。
それは、いやいやしょうがなく生きている人間のほうがずっと深く知っている。
「生きることのよろこび」などというもの共有して生きてゆこうとしているかぎり、人類は、明日にも食い物を食い尽くして滅んでゆくことだろう。
しかし、誰もがいやいやしょうがなく生きているという「共存共貧」の世界になれば、人類は、今の倍の人口になっても生き残ることができるらしい。
しかしそのためには、いかにもまずそうにものを食うセクシーな男の映像も必要だろう。
お前らのおためごかしのヒューマニズムが人類を救うのではない。
というか、人類が生きのびなければならない理由なんか何もない。「人類を救う」などというお題目を立てるな。そんなものは、ただのスケベ根性だ。
いやいやしょうがなく生きている人類の生け贄になれ。
南の飢餓に置かれている人たちは、おまえらの「生きるよろこび」のための生け贄になっているんだぞ。
しかし、それでも彼らは、今ここの地球で生きている。そして彼らこそ、生きてあることの真実を体験し共有しながら生きているにちがいないのだ。
人類は、生きのびようとして生きのびてきたのではない。この生を嘆きつつ、滅びることを覚悟しながら生きてきたのであり、なぜなら、そこにこそもっとも豊かな命のはたらきがあるからだ。
それは、おまえらの嘘くさい「生きるよろこび」にあるのではない。
いやいやしょうがなく生きているという「嘆き」を共有できたときに、はじめてわれわれは生きのびることができるのだし、生きてあることの真実と出会うのだ。
ブルガリアは、北の飽食と南の飢餓に挟まれた地域で、人類の生け贄として、人類の苦悩と不安と病理を一身に背負わされている。「ソフィアの夜明け」は、そういう映画だった。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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