1<献身的であるということ>
あるお金持ちのもとに、貧しいものがお金を借りに来た。お金持ちは、その懇願に満足そうにうなずき、お金を貸してやった。
これは、人類学的にいう「贈与」の態度には当たるだろうが、ここでいう「献身」とは別のものだ。
「献身」というなら、相手が懇願する前にお金を差し出してやれ。そういうことを「せずにいられない」態度として持っている人のことを、献身的、という。
自分では献身的な人間だとうぬぼれているくせに、けっきょくは相手にひざまずかせて満足している人間ばかりだ。相手のことを「かわいそう」と思った時点で、すでに相手をひざまずかせている。
「かわいそう」と思うことなんか、ただの制度的な観念のはたらきにすぎない。
「かわいそう」と思う前に、自分も一緒に悲しめ、という話だ。そして、そういう心の動きは、誰だってどこかしらに持っているだろう。
動物は、他人のことを「かわいそう」となんか思わない。しかし、彼らにだって、生きてあることのかなしみはある。だから、弱っているものを助けようとする。それは、かわいそうと思うからではなく、ただもうそうせずにいられないからだ。弱っているものを前にして、自分の中の生きてあることのかなしみをよびさまされるからだ。
       2<狭いチューブの中を成長してゆく>
生き物は、けっしてこの世界に完全に適合しているわけではなく、やっとの思いのぎりぎりの状態で生きてあるのだ。
植物が下から上に伸びてゆくことは、みずからの身体のスペースをできるだけ狭くとろうとする作用である。隣の植物の邪魔をしてどこまでもふくらんでいこうとするような作用ではない。彼らは、狭いチューブの中を潜り抜けるように成長してゆく。その成長過程で、余剰のエネルギーが生じると、枝となって、やっぱり狭いチューブの中を潜り抜けるように伸びてゆく。動物の身体だって、狭いチューブの中を潜り抜けようとするあまり、手や足となって伸びていったのだ。そうしてさらに、手足の指となって狭いチューブの中を潜り抜けて伸びてゆく。
アメーバの繊毛だろうと人間の毛髪だろうと、ようするにぎりぎりの狭いチューブの中を潜り抜けた結果なのだ。われわれの毛髪は、そうした生き物の根源的な生態を証明している。
どんな生物であれ、誰もができるだけみずからの身体のスペースを狭くとろうとし、チューブの中を潜り抜けるように成長してゆくから、草茫々の原っぱや森や林の群生状態が出現するのだ。
われわれの毛髪だって、比喩でもなんでもなく、まさに草茫々の原っぱと同じ現象の生態なのだ。
         3<弱肉強食の原理の嘘>
つまり生き物は、大きくなるまいとしながら大きくなってゆく、ということだ。生きるまいとしながら生きている、ということだ。
生き物は、「生きようとする本能」を持っているのではない。生きてあるという「結果」を嘆きつつ、それを受け入れていっているだけなのだ。
生きようとする本能で弱肉強食を競い合っているのではない。弱肉強食なんて、嘘っぱちだ。
林の中の狭いスペースに一本だけ大きな木が伸びてゆくのは、一緒に芽生えてきたほかのたくさんの苗木を弱肉強食で蹴散らしてきたのではない。ほかの苗木が、大きくなるまい、生きるまいとして、みずから滅んでいったからだ。そうして、滅びることのできなかった一本が高く伸びていった。
滅んでゆこうとする衝動こそ、生き物の本能なのだ。滅んでゆこうとする衝動で生きている。だから草も木もわれわれの毛髪も、細く長く伸びてゆく。だから原初の人類は、二本の足で立ち上がった。だから、生き物の遺伝子は半分以下しか機能していない。
であれば、佐渡ヶ島のトキが滅んでゆくのも、北極の白熊が滅んでゆくのも、しょうがないことなのだ。トキが生きてゆけない環境にトキを生かしておいてもしょうがないだろう。
「滅びる」ということと和解できない感性は、けっして自然を愛する心ではない。
生き物は、滅んでゆこうとする衝動を持っている。「ライフサイクル」は、そういう衝動の上に成り立っているのであって、弱肉強食の上に成り立っているのではない。
空腹を満たそうとする衝動は、空腹のうっとうしさを消そうとする衝動、すなわちみずからの身体を消そうとする衝動であり、それ自体滅びようとする衝動なのだ。生きようとする衝動ではない。
        4<ここにいてはいけない>
人は、「自分はここにいてはいけないのではないか」という問いを、どこかしらに抱えている。それは、滅びようとする衝動である。しかし、同時にそれは、ここから別の場所に身体を動かす契機にもなっている。生き物が生きるとは、身体が動く、ということだ。飯を食うのも息をするのも、つまりは身体が動くという現象にほかならない。滅びようとする衝動(作用)がなければ、生き物は生きられない。そういう衝動(作用)を「自分はここにいてはいけないのではないか」と意識化しているのが人間なのだ。
生きてあることは、いたたまれないことだ。だから人は、献身し、連携してゆかずにいられない存在になった。
そこにあなたがいると認識することの根源は、邪魔だから蹴散らしてしまおうとする衝動を生むことでもないだろう。「あなたがいる」と認識すれば、うっとうしい自分のことなんか忘れていられる。自分のことを忘れる体験として、あなたに対する「ときめき」が生まれてくるのだ。すなわち「自分はここにいてはいけないのではないか」と深く嘆いているものこそ、もっとも深くときめいている。それは、自分が消える(滅びる)ことのカタルシスを体験することであり、そういう体験として人間的な献身や連携が起きてくる。
われを忘れて何かに熱中することが心地よいのは、「自分はここにいてはいけないのではないか」という問いを持っているからだろう。
        5<ダイナミックな連携>
生き物は、生きるまいとしながら生きている。
生きるまいとして自分の身体のスペースをできるだけ小さくとろうとすることによって、何かを共有し、連帯してゆく動きが生まれてくる。
たとえばサッカー選手がパスをするのは、自分の身体スペースを限定している行為である。拡張しようとするのなら、自分で運んでゆけばいい。また、ドリブルで運んでゆくといっても、手を使ってはいけない。そうやって彼は、みずからの生を限定している。資本主義の原理からすれば、こんな倒錯的なゲームもない。それでも世界中の人々がこんな倒錯的なゲームにもっとも熱中しているという現実があるのは、そこでこそもっともダイナミックに人間的な連携や献身が起きているからだ。手を使うことをみずからに禁じて足でボールを操作しようとすることは、みずからの身体スペースを狭くとろうとする他者に対する献身であり、「自分はここにいてはいけないのではないか」と問いつつ生きるまいとする行為でもある。そうやって彼らは、たがいの献身の上にダイナミックな連携を生み出してゆく。
サッカーというスポーツの倒錯性は、人間の自然、生き物の自然と深くかかわっている。だから、世界中の人々が熱狂するのだし、またそれは、貧しく弱い階層の人々により深く愛され、貧しく弱い階層の子弟ほど、なぜかより上手くなるスポーツでもある。
サッカーほど、「共存共貧」を豊かに体現しているスポーツもない。
みんなが自分の身体スペースをできるだけ狭くとり、たがいの身体のあいだにボールが動く「空間=すきま」が生成されてゆく。それはもう、ことばの根源的なはたらきと同じなのだ。そこにこそ、人間としての、生き物としての自然がある。
生き物の命のはたらきは、狭いチューブの中を潜り抜けるようなかたちで作用している。
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