ネアンデルタールの社会においては、怪我をしたり疲労困憊していることこそ、もっとも豊かなセックスアピールだった。
だから彼らは、怪我をすることをいとわなかった。人類のセックスアピールの文化は、ここからはじまっている。
三島由紀夫の「金閣寺」という小説では、足の悪いびっこの男がそれを武器に女をたぶらかすというような話が出てくるが、それはそれでネアンデルタール以来の人類普遍のセックスアピールのひとつなのだろう。
セックスアピールとは、「献身」の衝動を呼び覚まされることらしい。
美人とは、顔のかたちが崩れていない、ということである。物はほんらい、この世界の物性の圧力を受けて変形してしまう。ブサイクな顔は、この世界の物性から圧力を受けているかたちのように見える。そして変形したらもう大丈夫、生きてゆける。大人の顔は、子供に比べると大いに変形してしまっている。だからこそ、生きる能力も発達している。
変形していない純粋なかたちである美人は、それだけ存在することが困難なかたちで存在している。その存在することの困難さこそ、美人のセックスアピールである。人は、そういうかたちには「献身」の衝動を覚える。
原始人のセックスアピールと現代人のそれが別のものであったのではない。本質的には、人に「献身」の衝動を抱かせる気配のことだ。
男に献身の衝動を抱かせるのが上手な女のことを「ぶりっこ」という。これはこれで高度な現代文化なのかもしれない。
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原初の人類がどんどん住みにくい地に住み着いて拡散していったことだって、ひとつの献身の衝動だったともいえる。生きることは、献身することだ。献身してみずからの身体の物性を忘れてしまうことによって、人は生きている。
献身と言っても、僕は道徳の問題を語りたいのではない。自分の身体の物性なんか鬱陶しいだけだ、と言いたいのだ。
自分の身体の物性は消去しなければならない。人間のような弱い生き物が生きていれば、身体の物性を知らされることからは逃れられない。このままでいいというわけにはいかない。人は、たえずその状態から逃れようとしている。その状態から逃れることこそ快楽である。
献身、という体験がなければ生きていられない。
美人を見てときめくことは、献身の衝動である。
生きることは、「このままでいい」というわけにはいかない。生きていれば、だれもが避けがたく身体の物性に悩まされてしまう。やまとことばでは、これを「けがれ」という。
身体の物性を消去すること、すなわち、献身という「小さな死」を体験してゆかないと人は生きていられない。やまとことばではこれを「みそぎ」という。
献身の衝動は誰の中にもあるし、基本的にはこの衝動の上に人の世が成り立っているのだろう。
ネアンデルタール人は、他者に献身の衝動を抱かせる気配を持っていたし、自分自身もその衝動をおさえられなかった。そのようにして人がたくさん集まってきて、恋の文化を芽生えさせていった。
「自分を愛するように他者を愛する」とか、そんなコンセプトで成り立っている社会ではなかった。人間にとっては、自分の「小さな死」こそ快楽であり救いなのだ。彼らはそういう根源を生きていたのであり、「自分=身体」の物性が鬱陶しくてならなかったのだ。
自分の身体の物性を気にしていたら、命知らずの狩なんかできなかったし、命知らずになることによって、身体の物性から解放されていった。
命知らずも、セックスアピールのひとつである。誰もが、命知らずにならなかったら生きていられなかった。献身とは命知らずの衝動であり、そこからセックスアピールの文化が生まれてきた。
現代ヨーロッパのセックスアピールの文化は世界でもっとも進歩的であると同時に、もっとも原始的でもある。原始的であるのは、ネアンデルタールの伝統を引き継いでいるからだろう。
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ヨーロッパ人はほかの人種より運動神経がすぐれているというわけではないが、セックスアピールを持った鮮やかなしぐさの文化を持っている。そういう部分は、妙に洗練されている。
体型よりもしぐさの方がアピールになる文化。身体の「物性」よりも、しぐさの「空間性」の方がアピールになる。
ボディランゲージの文化を持っていたからしぐさの文化が生まれてきたのか。それとも、しぐさの文化を持っていたからボディランゲージが生まれてきたのか。いずれにせよそれは、身体の「空間性」の文化だ。
氷河期が明けて共同体(国家)の成立以降、ヨーロッパの言葉は「意味の伝達」の機能にどんどん傾いていって、心や感情の表現の機能が薄れていった。それを補う機能として、ボディランゲージが発達してきたのかもしれない。あるいは、心や感情はボディランゲージで表現する習慣を持っていたから、言葉がどんどん「意味の伝達」の機能を濃くしていったのだろうか。
ともあれ、しぐさの文化は、それらよりももっと原始的に違いない。それは、何かの意図を持って表出されるのではない。自然に生まれてくる体の動きのことだ。本質的には、意味があるのではない。ただ、それを見たものが、勝手にさまざまなニュアンスを感じてしまう。他者の反応が、そのしぐさをつくっていったともいえる。それは。「伝達した」のではなく、それを見たものが、勝手に感じたのだ。他者のしぐさを見て、ああ色っぽいなあ、チャーミングだなあ、と思う。そう思えば、自然に自分もそんなしぐさになってゆく。まずそういう文化があって、ボディランゲージが生まれてきたのではないだろうか。
おそらくネアンデルタールは、他者のそういうしぐさや表情に、とても敏感だったのだ。
現代では、敏感な人はまれである。たとえばシャーロック・ホームズみたいな人を特別視して、「霊感がある」などと言ったりする。しかし原始人は、みんな敏感だった。現代ヨーロッパ人のしぐさの文化は、おそらくネアンデルタールの伝統なのだ。少なくともそれは、言葉による「伝達」の機能とともに生まれてくる文化ではない。言葉に伝達の機能が発達すれば、人はどんどんそういうことに鈍感になってゆく。
原始人は、現代人ほど熱心に「伝達」なんかしなかった。他者の気配を感じ取る敏感さによって、社会や人と人の関係を成り立たせていた。伝達なんかしなくとも、現代人よりはるかに敏感に他者を感じ取っていた。
人類の歴史は、はじめに「伝達」しようとする衝動や文化があったのではない。それを見たり聞いたりして勝手に感じてしまう心の動きが極まって、言葉や恋の文化が生まれてきた。
「伝達」することは、人間性の根源ではない。そんなことは猿でもカラスでもしている。
人間性の根源は「勝手に感じてしまう」心の動きにあり、そこから人間的な文化が生まれてきた。
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