「嘆き」と和解してゆく能力は、生来的に男よりも女の方が豊かにそなえている。だから、ネアンデルタール人の社会では、女に主導権があった。
ろくな文明を持たない原始人が氷河期の極寒の地で定住してゆくなら、女が主導権を持たなければやってゆけない。これはもう、歴史の必然なのだ。
ネアンデルタール=クロマニヨンは、女の主導によって氷河期を乗り切った。
ヨーロッパ社会で男たちが主導権を持つようになったのは、一万年前に氷河期が明けてさらに数千年後の共同体(国家)ができてからのことであり、それはもう一種の革命だったのかもしれない。そのとき以来男たちは、「制度」によって女という「自然」を支配するようになっていった。
しかし、ネアンデルタール以来の恋心=セックスアピールの文化の伝統は、今もヨーロッパの女たちの中にちゃんと残されている。
ヨーロッパの男たちは、妻がいつセックスアピールを持った男と浮気してしまうかもしれないという不安を、歴史的につねに抱えてきた。だから、毎晩のように夫婦のセックスをがんばる習慣があるし、貞操帯などというものも発明された。
戦後の日本社会は大いに西洋流になったが、西洋の男たちのこの不安を汲み取ることを怠ったために、「熟年離婚」とか「人妻の不倫」ということが社会現象化しているのかもしれない。
ネアンデルタールの子孫である西洋の男たちは、女を支配するのに「物質的繁栄」とか「幸せ」という「正義」だけではできないことを知っている。だから「レディーファースト」という風習が残っていったのだろうし、しかしこの国の戦後の男たちは、そうした「正義」だけで女を支配できると思ってしまった。とくに「ニューファミリー」ブームの中心となった団塊世代以降から「アラフォー」といわれるバブル世代までの男たちは、男と女の関係が「幸せ」という「正義」だけですむと思ってしまう傾向を捨てきれないでいる。それだけですませたいらしい。彼らにとって男と女の関係は、たんなる未来の人生設計の問題で、「いまここ」の「セックスアピール」とか「ときめき」ということがわからない世代なのだ。
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セックスアピールといっても、女が感じるそれは、そう単純ではない。いろいろバリエーションはあるのだろう。しかし根源は、「嘆き」を共有できるかどうかということにあるのではないだろうか。生き物の命や意識のはたらきの仕組みは、おそらく「嘆き」の上に成り立っているのだから。
なんのかのといっても、人と人は、嘆きを共有しているところでときめき合っている。
生きるのはしんどいものだということを上手に表現しているのがセックスアピールなのだ。あるいは、そういう存在することの傷ましさの気配が自然ににじみ出ているところに、人はセックスアピールを感じる。
まあ、自然なセックスアピールもあれば、作為的なセックスアピールもあるのだろうが、つまるところはそういうことではないだろうか。
作為的なそれは、後世になっていろいろ工夫されてきたのだろう。しかし原始社会においては、作為的に見せるものではなく、自然ににじみ出る気配を相手が勝手に感じてしまうところで成り立っていた。
その「勝手に感じてしまう」能力は、原始人の方が発達していたはずである。
明日雨が振りそうだということを、原始人は皮膚感覚で感じていた。しかし現代人は、マスコミの天気予報で知ることができるから、当然そうした直感は退化してしまっている。
時代とともに、個人が表現し伝達する能力も、社会が情報を発信する能力も進化した。しかしそのぶん、人が勝手に感じる能力は退化している。勝手に感じる能力が退化しているから、マスコミの情報に流されやすくなり、ヒットラーのような独裁者もあらわれてくるようになった。
原始時代は、誰もが深く豊かに他者に気づいていった。そういう社会では、人が人を支配することは起きてこない。支配しようとする衝動が起きてくる余地がなかった。「伝達する」ということが優位の社会ではなかった。そういう行為が未発達のまま、たがいに深く感じ合うことによって社会や男と女の関係が成り立っていた。
ネアンデルタールの社会では、男がセックスアピールを発信するのではなく、女が勝手に感じてしまっていた。人類の「恋心=セックスアピール」の文化は、そういうときめきから生まれてきた。勝手に感じるから、よけいにときめいてしまう。「恋心=セックスアピール」の文化の起源と究極は、本人が何も発信しないのに、相手が勝手に感じてしまうことにある。
近ごろの「草食系男子」といってもあんがいそういう関係の文化で、女が勝手に感じてしまう能力が豊かになったから、そのような作為性を持たない男子があらわれてきたのかもしれない。そして勝手に感じてしまう能力が豊かだから、いろいろ苛立ちもする。
もしも鈍感な女ばかりの世の中なら、男たちは必死に目立とうとするだろう。
草食系男子とは、「すでに女に気づかれている」という前提の上に立っている男子のことである。まあ、現実的には、家の中で母親に気づかれることの鬱陶しさからそういう男子が育っていったのかもしれない。そういう「家族」の問題であるのかもしれないのだが、彼らは、自分をプレゼンテーションしながらネットワークの海を泳いでゆこうとする意欲もない。ネットワークの中で仲よくすることの嘘くささを知っている。そこが、いわゆる「オタク」文化とはちょっと違うのかもしれない。
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ともあれ、現在のこの国でも、人と人の関係は仲よしこよしのネットワークだけではすまないという空気になってきているのではないだろうか。家族はだめだからネットワークで行こうとか、そういう問題ではないはずだ。家族そのものがネットワークの仲よしこよしの関係になってしまったから崩壊していったのではないだろうか。
というか、家族とはもともと仲よしこよしで成り立った関係ではないのだから、いずれは崩壊してゆくものだ。そうして、つねに再生産されてゆく。なぜなら人間は「今ここ」に閉じてゆこうとする生き物だからだ。
つまり人間は、ネットワークを広げてゆく生き物ではなく、閉じられた「サークル」の関係をつねに再生産してゆく生き物なのだ。つまり、仲良くしようとする衝動を持った生き物ではなく、どうしても深く他者の存在に気づいてしまう生き物なのだ。それが、ときめくことであっても、憎んだり怒ったりすることであったとしても、どうしてその「今ここ」に閉じていってしまうのだ。
そうして「今ここ」は、つねに再生産されてゆく。
ときめき合えば「今ここ」に閉じてゆき、ネットワークなんかいらなくなってしまう。この世にあなた以外に女(男)はいない……という気になってしまう。われわれは、そういう気になってしまう浅はかな恋心を否定して人間を考えることなんかできない。
かしこくお上手にネットワークを広げてゆくことが、そんなに素晴らしいことか。
人間は、ネットワークで行こう、というわけにはいかない。人間は、そんな利巧な生き物でも、そんな鈍感な生き物でもない。
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というわけで、少なくとも現在の若者たちのあいだでは、すでにネットワークが反省されはじめているのではないだろうか。
東大の女子学生ですら、もはや男を押しのけて社会進出してゆくよりも「結婚がいちばん」と思いはじめているのだとか。
人間には、「今ここ」に閉じてゆく場が必要だし、どうしてもそういう体験をしてしまうのが人間なのだ。
人間の根源に、仲良くしようとする衝動などはたらいていない。仲良くすることなんか鬱陶しいばかりだ。しかしそれでもわれわれは、「今ここ」の目の前の他者に深く心が動いてしまう生き物なのだ。
「今ここ」の目の前の人や世界にときめいてゆくこと、これが生きることの基本であるのなら、ネットワークがいちばん、というわけにはいかない。
今われわれは、仲良くすることの嘘くささに気づきはじめている。
親の目から見れば、世の中の娘なんか、ほとんどはただのわがまま娘に違いない。それでも結婚すればちゃんと家をつくってゆく。これは、感動的なことだ。親のいうことを聞かないどんなわがまま娘だって、育った家に固有の関係性(サークル)の文化があれば、結婚してもちゃんとやってみせるものだ。
そういう固有の関係性(サークル)の文化を持たない家で育つと、形式だけの嘘くさいネットワークの関係の中でしか生きられなくなってしまう。上野千鶴子さんみたいにさ。
戦後という時代は、そういう嘘くさい関係性の家族を今日までたくさん生み出し、多くの若者たちが結婚に踏み切れなくなっていった。
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