セックスアピールは、「空間性」である。「物性」ではない。
たとえば、グラマーな女にセックスアピールを感じるといっても、それはたんなる「立体画像=空間」であって、その触った感触をリアルにイメージできているわけではない。だからこそ触りたくなるし、触れば大いに驚いたりときめいたりする。イメージできなかったものと出会っているという、その「違和感」に驚きときめいている。
男は、グラマーな女のその「立体画像=空間」にときめいているのであって、物性に対してではない。
根源的な意識は、物性をイメージすることはできない。現代的な制度的な観念でイメージしているつもりでも、実際に触ってみれば、それがいかにあやふやだったかということがわかる。
したがって、原始人が異性の身体の物性にときめくということは、さらになかったはずだ。
抱きしめた感触とか、抱きしめられた感触とか、そんなことは根源的にはイメージできない。それに、意識は根源的には未来を予測していない。だから、どれほど制度的観念的に抱きしめた感触を想像しても、いざ抱きしめれば、はじめて知ったように驚きときめいてしまう。
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極寒の北の地で暮らしていたネアンデルタール人にとって抱きしめ合うことは生きるか死ぬかのとても大切な行為だったが、それでも、抱きしめ合った感触を想像して相手にときめいていたのではない。彼らは抱きしめ合うことのエキスパートだったからこそ、そういう先入観は持たなかった。先入観を持たずに抱きしめ合うことがいちばんときめくことだということを知っていたし、ときめいて自分の身体のことなんか忘れていかなければ生きていられない環境だった。
抱きしめ合わずにいられない関係を持つことによって、彼らは生き残っていった。
抱きしめずにいられなくなるのは、相手が寒がっているからだろう。そんなの、当たり前のことだ。抱きしめたら気持ちよさそうだ、というようなことがセックスアピールになっていたはずがない。抱きしめずにいられない気配こそが、セックスアピールだったのだ。
寒がっているとはつまり、このままでは生きていられない、という気配のことだ。そういう気配が、彼らの世界のセックスアピールになっていた。
現代のように恋が制度化されている社会ではなかったのだ。彼らの恋心は、他者の死を悲しむというところから生まれてきた。したがって彼らの恋心は、生と死のイメージと深く結び付いていた。
たぶん、現代人より彼らの感じるセックスアピールの方がずっと純粋で高次元だったのだ。哲学的、といってもよい。
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このままでは生きていられない、という気配。
たとえば、けだるい表情やしぐさは、ひとつのセックスアピールになるだろう。鈍くさいのではなく、何か生きているのが面倒くさいようなつらいような気配。身近な他者の死が日常茶飯事だった彼らは、おそらく避けがたくそんな気配を誰もが持ってしまっていたし、また他者のそんな気配にとても敏感だったはずである。敏感になるほかない状況を生きていた。
それを感じるか否かは、知能の問題ではない。現代人の方が敏感だとも、子供よりも大人の方がよくわかっているともいえない。そういう状況を生きていれば、子供でも原始人でも、大人や現代人よりもずっと敏感に察知する。
ネアンデルタールの社会では、誰もが生きにくい生を生きていた。男女間のセックスアピールも、そういう状況と無縁であるはずがない。
セックスアピールは、生命力の表現でも生命賛歌でもない。その人の生きにくさが自然にあらわれてしまう、その表情やしぐさなどの「気配」のことである。
だから、安直な生命賛歌しかできない内田樹茂木健一郎にはセックスアピールがまるでないし、言うことが薄っぺらなのだ。まあ、インポの思想だよね。
人は、生きにくい生を生きているものと一緒に生きてゆこうとする。これがこの生の基本であり、ここからセックスアピール(=恋)の文化が生まれてきた。
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狩の能力のある男がもてた、といってしまえば話はかんたんである。
しかし彼らの社会では、狩はチームプレーでやっていたし、獲物が個人の所有になっていたわけでもないし、いちばん強い男が真っ先に食べる権利があるわけでもなかった。死に近いもの、すなわちもっとも弱いものから先に食べてゆくのが彼らの原則だった。そして大きな集団の社会だったということは、女たちは狩に参加していなかったことを意味する。だから、狩の能力なんか問題ではなかった。男たちみんなで頑張ってマンモスやオオツノジカを仕留めてきたのだ。
ネアンデルタールの女たちは、狩の能力なんかでは男を吟味しなかった。体つきも関係ない。女たちに先入観などなかった。その点では、男たちは平等だった。
強いものがもてはやされ、強いものが生き残ってゆく社会ではなかった。
もっとも弱いものを優先して生きさせようとする社会だった。人がかんたんに死んでしまう社会では、とうぜんそのようになってゆく。そうしないと、死んでゆくものは無際限に増えるばかりだ。
もっとも弱いものを生かそうとしたからこそ、生き残ってゆくことのできる文化が発達していったのだ。
であれば、狩りで怪我をしたり疲れ果てて帰って来た男は、真っ先に女たちから抱きしめられたことだろう。
人類学者たちは、ネアンデルタールが狩りで怪我ばかりしていたことを、体の動きが鈍重だったように言うのだが、そうではない、怪我を恐れない勇敢な狩りをしていたということであり、人より怪我をしやすいポジションに立つことに尻ごみするような男などいなかったし、怪我をして帰ってくれば女たちが真っ先に抱きしめてくれ、みんなから手厚く介抱されたのだ。
スポーツ選手には怪我は付き物だが、鈍重な人間はあまり怪我をしない。だって、けがをするようなダイナミックな動きができないし、したがらないんだもの。
ネアンデルタールは鈍重だったという人類学者たち、おまえらのその脳みその鈍重さはいったい何なのか。『ネアンデルタール人の正体(朝日選書)』という本では、そういうこと言いいたがるほんとにアホな人類学者がいっぱい登場してくる。この国の人類学者はアホしかいないのか、と思わせられる。
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