極寒の地で暮らしていたネアンデルタールは、おそらく、いつも抱きしめ合うということをしていた。恋心が発生するよりも先にその行為が日常化していたはずだ。
まずはじめは、恋心で抱きしめ合っていたのではない。寒かったからであり、意識が身体の物性に貼りついている状態が鬱陶しかったからだ。
彼らは、身体の物性を忘れることを共有する行為として、抱きしめ合っていた。そしてこの行為が習慣化してゆけば、心地よくそれを忘れることのできる相手とそうでない相手があることに気づいてくる。
これが、恋心のはじまりだ。
相手の身体ばかり感じて、自分の身体のことはすっかり忘れていることの心地よさ。そういう体験ができる相手とは、どういう存在か。
まず、同性よりも異性の方が身体の感触に多くの違和感がともなう。その違和感が大切なのだ。
では、女にとっては、ごつごつした体の相手がいちばんなのか。
そうともいえない。
彼らは、抱きしめ合うことのエキスパートなのだ。抱きしめ方の上手い下手だってわかっていた。
しかしたぶん、そういう問題でもない。
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直感に訴えてくるなんとなくの相性というものがある。それに気づいて、はじめて恋心と言えるのだろう。
相性とは、何かを共有することだ。
ただ与えてくれるだけではだめで、「共有」できる何かを感じなければならない。
抱きしめ合うことは、身体が消えてゆく醍醐味を共有する行為として習慣化してきた。そして、相手がその行為に充足しているとわかることが、みずからの身体が消えてゆく契機になる。関係とは、共有してゆく行為である。
直立二足歩行の開始は、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を共有してゆく行為であり、身体が動く自由を共有する行為だった。原初の人類は、ともに体をぶつけ合っていることに鬱陶しがり、一緒に立ち上がっていった。そのように「共有」してゆくことが人と人の関係の基礎になっている。
もし自分が寒いのなら、相手も寒くなければならない。そうでなければ、抱きしめ合うということの必然性は成り立たない。自分だけが寒いのなら、自分だけで工夫するしかない。どちらも寒いから抱きしめ合うのだ。
自分を忘れるためには、相手に憑依していなければならない。それは、自分を忘れる行為であって、何かをしてもらって満足し自分を確認するのではない。
とすれば、寒がっている相手こそ、興味の対象になる。寒がっていない相手と抱きしめ合っても、相手の身体を感じる必然性がない。相手の身体に対する興味が生まれない。正確にいえば、相手の身体に興味を持つのではない、寒がっていることに興味を持つのだ。
相手は、寒がっている身体でなければならない。そういう身体と抱きしめ合いたいと思う。彼らにとって、抱きしめ合うことが恋だったのではない。その行為は、たんなる習慣だった。しかしセックスまでつながってゆく抱きしめ合う体験があった。そのような何かを「共有」してゆく「ときめき」に気づいていった。
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人類は「ときめく」という体験が極まって、1年中発情している生き物になっていった。そしてそれは、それほどに「身体=自分」に対する鬱陶しさが耐え難いものなっていったからだ。
まあ、二本の足で立っていれば、身体は鬱陶しいに決まっている。原初の人類は、その鬱陶しさを歩いてゆくことによって克服していった。人間にとって歩くことは、身体を忘れることであり、身体の解放である。歩こうとして立ち上がったのではない。歩くことは、立ち上がったことの必然的な「結果」にすぎない。その人類史の異変は、サバンナで起こったのではない。遠くまで歩いてゆく必要のない原初の森で起こったのだ。
原初の人類は、二本の足で立ち上がって、いきなり遠くまで歩いていったのではない。二本の足で立っていることの鬱陶しさから解放される行為として、しだいに遠くまで歩いてゆくようになっただけのこと。原初の森で数百万年そのトレーニングを繰り返し、それからサバンナに出て移動生活をするようになっていったのだ。
そうして、さらに二百万年後に極寒の北ヨーロパに住み着いて定住生活をはじめれば、歩くだけではすまなくなり、そうした身体の鬱陶しさから解放される補助的な機能として、言葉を交わすことや抱きしめ合うことなどの文化が急速に育ってきた。
人類は、二本の足で立ち上がることによって、「身体=自分」の鬱陶しさを抱え込んでしまった。そういう基礎の上に立って他者に「ときめく」という心を持ったのであって、世間で言う「自分を愛するように他者を愛しなさい」というようなことではない。
現代社会は、自分を愛するあまり「ときめき」を失ってインポになってしまったりするような制度性に浸されている。それをどう克服してゆくかということこそ問題なのだ。
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原初の恋は、セックスとの関連で生まれてきたのか。それともセックスから独立していたのか。
まあ、恋を知ったからセックスするようになったのではないことは確かだ。
年中セックスしたがる生き物になったから、恋心も生まれてきたのだろう。それは、セックスによってしか癒せないようなストレスを持ってしまった、ということだ。
50万年前以降、氷河期の北ヨーロッパに住み着いた人類は、寒さのために年中身体の物性に悩まされていた。身体だけでなく、この世界そのものが物性をともなって立ち現われていることの鬱陶しさが募ってゆき、そこから逃れるように恋心が生まれてきた。
西洋人は、伝統的に世界の物性に対する感覚が発達している。日本人にはあんなにも質量感を持った表現の絵画は描けない。彼らは、自然(の物性)を支配しようとする。それもこれも、世界に物性に悩まされてきた歴史の伝統を持っているからだろうし、その伝統はすでにネアンデルタールのところからはじまっていた。
過酷な環境のもとで暮らせば、いやでもこの世界の物性を思い知らされる。ヨーロッパの歴史は、この世界の物性との戦いの歴史だった。彼らは、この世界の物性を支配しつつ、「空間性」としての恋の文化を止揚してきた。彼らにとって恋の文化は、この世界の物性からの解放だった。
ヨーロッパ人にとってこの世界は、つねに物性を持って立ち現れる。それは彼らが、50万年前に人類で最初に極寒の地に住み着いていった伝統を持っているからだ。そうして氷河期が開けて環境が和らぎ、さらには文明が発達するとともに、物性から逃れるという原始的ないとなみを超えて、「自然=物性を支配する」というかたちで自然=物性と和解していった。
それはともかく、彼らの恋心の文化の基礎は、ネアンデルタールの時代の「物性からの解放」としてつくられている。だから彼らは、いざとなったら、物性としての男の顔も背の高さも金や地位も問わない恋をすることがある。そのときヨーロッパの女は、セックスアピール以外のものには目もくれない。それはつまり、ネアンデルタールの伝統なのだ。
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氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったネアンデルタールは、みずからの身体の物性に悩まされていたから、抱きしめ合うようになった。そして、抱きしめ合ったときに「ときめき」を体験するようになっていった。極寒の地で暮らせば、みずからの身体の物性にたいする鬱陶しさが募り、そのぶんそこからの解放感としての「ときめき」も豊かになってくる。
恋心とは、身体の物性から逃れようとする衝動である。身体の物性から逃れることを他者と共有しようとする衝動である。
だから人は、身体が成長して身体の物性を意識しはじめる思春期になると、恋をするようになってくる。他者にときめくようになってくる。思春期の少年と少女は、成長する身体の物性の鬱陶しさから解放されたいという願いを共有している。
共有できる相手でなければ、恋心は芽生えない。ただ男らしい体をしているとか抱きしめ方がうまいというだけでは恋心の対象にはなりえない。
おそらくネアンデルタールの女たちは、寒がっている男と抱きしめ合いセックスしようとしたのだろう。
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しかし寒がっているといってもそれはひとつのニュアンスというか気配の問題であって、ほんとうに寒いかどうかなど他人にはわからない。
ようするに、生きにくさを生きている雰囲気を持っているかどうかということ。恋心とは何はともあれ「献身」の衝動であり、ネアンデルタールは、誰もが生きにくい生を生きていた。彼らの恋心は、そういう風土から生まれてきた。
彼らは、寒がっているみずからの身体に対する関心を消したかった。したがって、そこから「抱きしめられたい」というみずからの身体への関心が生まれてくることは論理的にありえない。身体に対する関心を消そうとしていたのだ。であれば、他者の身体に対する関心もない。ただもう、他者の寒がっている気配に関心があった。その関心によって、みずからの身体に対する関心が消えた。
自分の身体を投げ出して、他者の身体を温めたかった。そういう「献身」の衝動と行為によって、みずからの身体の物性が消えていった。消えてゆくことのカタルシスというかエクスタシーがあった。
5万年前の氷河期の地球上で、北ヨーロッパネアンデルタールほど生きにくい生を生きていた人々もいない。そういう状況から恋心が生まれてきた。
そのとき女たちは、「物性」としての男の身体を見ていたのではない。生きにくい生を生きているという、その「空間性」としての気配を見ていたのだ。
ネアンデルタールの恋は、「空間」に憑依してゆくことだった。
なんのかのといってもわれわれは、人と出会ったとき、この人はいい人かどうかとか顔がきれいかどうかとか、そういう「立体画像=空間性」を見ているのであって、その身体の「物性」を吟味しているわけではない。
原始時代に、男の身体の「物性」に恋した女など、たぶんひとりもいない。
原始人だから即物的だったいうわけではないのだ。人類がこの世界の物性と親密になったのは近代になってからの制度的な観念であり、起源としての恋心は、物性からの解放として、「空間性」に憑依してゆく心の動きだった。もしかしたら原始人の方がずっと本格的なセックスアピールというものを知っていたのかもしれない。
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