まあ僕は、この社会のいろんな常識や通念が気にくわないですよ。
そんなの嘘だ、と言いたくて、このブログを書いているのかもしれない。
しかし、世間の壁は厚い。こんなこと言っても誰もうなずいてくれないだろうな、という思いはいつもある。だから、書きざまがくどくなってしまう。書いても書いても、壁にはね返されている気分が消えない。
5〜3万年前にアフリカから出ていった純粋ホモ・サピエンスなどひとりもいない、というのもその一つで、最低限の「発信している」という気分にさえなれない。
うなずいてもらえなくても、せめて問題提起にはなりたいわけですよ。だから、この国の人類学者の誰かが匿名でいいから文句を言ってきてくれないかなあ、と願わずにいられない。
けっきょく、そのときホモ・サピエンスの「出アフリカ」がありました、という話で世間はまるく納まってゆくんだよね。こっちとしては、どいつもこいつもアホじゃないか、と思ってしまうのだけど。
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そうしてここまで書いてきて、また「伝達」という問題が出てきてしまった。
伝達することが人と人の関係の基本か。原初の社会集団は、伝達の技術の発達とともに大きくなってきたのか。
僕としては、言葉の起源の問題も含めて「それは違う」と言いたい。
人と人が愛し合うとか、出会ってときめき合うというような関係は、「伝達」という行為から生まれてきたのではない。相手が「伝達する」という行為などしなくても、こちらが「勝手に感じてしまう」ことによって、愛したりときめいたりしているだけだ。
伝達することの上に人と人の関係や男女の愛し合う関係が成り立っているのなら、片思いや勝手に憎まれたりというようなことは生まれてこない。
伝達しようとする衝動が人間性の基礎になっているのではない。直立二足歩行をはじめた原初の人類は、この世界や他者に深く気づき感じることによって人間になった。気づき合い感じ合うことこそ人と人の関係の根源的なかたちであり、その心の動きが極まって、言葉や恋の文化が生まれてきたのだ。
伝達し合うことが人間を人間たらしめているのではない。そんなことは、猿でもカラスでもしている。
人間性の基礎は、深く他者に気づいてしまうことにある。伝達なんかされなくても、勝手に深く気づいてしまうのだ。
伝達することが基礎で一番有効であるのなら、グラマーな女はすべての男のペニスを勃起させることができるだろう。インポなんか、かんたんに治せてしまう。でも現実は、「こちらが勝手に感じてしまう」という心の動きがなければ、勃起するということは起きないのだ。
原初の言葉の起源や恋心の発生、すなわち原初の人と人の関係は「こちらが勝手に感じてしまう」、「誰もが感じ合う」という心の動きの上に成り立っていたのであって、「伝達の技術の発達」の上に成り立っていたのではない。
もちろん現代社会に暮らすわれわれの人と人の関係も、つまるところはこの心の動き(感受性)の上に成り立っている。
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内田樹先生が、「学ぶ力」という一文を自身のブログに載せておられた。
先生が言われる「学ぶ」とは、「師を見つけ、教えを乞うこと」なのだとか。
こういう考え方がいかに淫靡で制度的で短絡的であるかということを、世の多くの人々は何もわかっていない。
ここでも僕は、世の常識の壁を感じてしまう。
人は、教えられなければ何も知ることができないのか。内田先生は、そう言っているのだ。大人に教えられなければ子供はなにも知ることができない、と言っているのだ。そうして、この社会での大人や教育者の優位性を温存しようと画策している。まったく下品で意地汚い根性だ。
子供は、この世界のすべてのものから学ぶのであって、大人に教えられたことなどたかが知れている。子供は、カブトムシや蟻んこや風や雲や、この世界のすべてから学ぶのであって、大人から教えられたことだけで生きているわけではないし、大人に教えられないと生きていけないわけでもない。すでに彼らは、自分自身の感受性で、この世界のすべてから学んでいる。そしてその感受性は、大人から与えられるものではなく、先験的に備わった能力なのだ。つまり子供は、自分で勝手に学んでゆかなければ生きてゆけない存在であり、生きることは、大人から与えられたものだけで間に合うほど簡単なことではないのだ。
生まれて間もない子供にとってこの世界は知らないことだらけで、生きている一瞬一瞬一日一日が新しい発見の連続である。そうやってつねに新しい発見をしていかなければ生きてゆけない。
大人が教えなければ子供は言葉を覚えないのか。そんなことはあるまい。誰から教えられなくても、まわりで人がしゃべっていれば、勝手に覚えてしまう。たとえ一歳二歳の幼児でも、子供が知っている言葉のほとんどは自分から覚えたものであって、大人から教えられた言葉などほんの少しでしかない。
人は自分から覚えてしまうから言葉をしゃべれるようになるのであって、教えられないとしゃべれないのなら、十才になっても赤ちゃん言葉のままでいるしかない。
「教える」ということがどんなに無力なことか、この世の大人たちは知らなすぎる。
まあ、内田先生のように、はじめに制度から与えられた世界観があって、その物差しで何もかも裁量してしまうタイプの人間なら、そりゃあ師に教えてもらうことは必要だろう。この先生は、教えられたことしか知らないのだ。生きている日々の発見など何もない。世界のことも、人間のことも、すでに知っているつもりでいやがる。世の中の大人なんて、たいていがこういう人種だよね。こういう人種によって「常識」が成り立っている。
教えてもらったことがすべてなら、この世界はすでに決定されていることと同義だ。そういう前提でこの先生は語っている。それが「師を見付けなさい」というセリフの意図するところだろう。
しかしわれわれは、それよりももっとたくさんのものを勝手に学んでしまっている。人はそうやってこの世界の厚みや豊かさに気づいてゆく。それを、「知性」というのではないのか。
自分をいい教育者だと思っている時点で、おまえらは教育者としてアウトなんだよ。
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学ぶとは、勝手に気づき感じることであって、大人や教師から教えられたことしか知ることができないのなら、人間が知ったり感じたりすることのできるこの世界はもっと単純で薄っぺらなものでしかないだろう。
「学ぶとは師を見付け教えを乞うことである」などといっている人間には、この世界の厚みや豊かさはわからない。なぜならそれは、自分で気づいたり感じたりするものであって、教えられるものではないからだ。
人間は、自分から気づいたり感じたりしてゆく生き物だから、この世界は厚みや豊かさを持って立ち現われるのだ。
この世の中の人と人の関係は、根源的には、「たがいに気づき合い感じ合う」ことの上に成り立っているのであって、「伝達」し合うことの上に成り立っているのではない。
伝えられたり教えられたりしなくても、人はすでに他者の存在に深く豊かに気づいてしまっている、これが人間性の基礎だ。
江戸時代の職人は、弟子に何も教えなかった。それでも弟子は勝手に学び、ときには師を超えていった。これが、人間性の基礎だ。
何が悲しくて子供が、あの先生のいうような「主従関係」に目覚めなければならないのか。「主従関係」に潜り込んでゆかねばならないのか。あの先生は、この世の中の人と人の関係のすべてを「主従関係」にしてしまおうと企んでいる。それが人間性の基礎だという。まあ、マザコン野郎だからさ、そういう「主従関係」に潜り込んでゆかないと生きていられないんだよね。
自分が生きてゆくのに都合がいいようにこの世界を決定してしまおうと企んでいやがる。この世界は、おまえだけのためにあるんじゃないんだぞ。こんなにも淫靡で愚劣な人間がオピ二ヨン・リーダーでございとのさばっていていいのか。「世のため人のため」と言いながら、誰よりもジコチューでいやがる。
ああ、ほんとにくだらない。
あの先生を信奉し擁護したい人は、誰でもいいから言ってこいよ。本格的に論争しようじゃないの。僕は、そういう体験に飢えているのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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