1・集団のダイナミズムがあった
人類の歴史は飢えとともにあった……とよくいわれる。
しかしもしそうであるのなら人類の体はだんだん小さくなってきたはずであるが、実際は大きくなってきたのだ。
これは、必要以上にたくさん食べてきたからだろう。
オオカミは二週間くらい何も食べなくても生きられるし、食いだめをすることができる。それは、飢えとともに歴史を歩んできたからだろう。
人間はそういう体質になっていない。今やもう、一日に2回か3回食べるのが当たり前になっている。飢えてきた歴史があって、そんな習慣になるだろうか。
ネアンデルタール人の食事は、1日1回だったのだろうか。彼らは氷河期の極寒の季節のもとで暮らしていたから、飢えていたらすぐ体が衰弱してしまっただろう。われわれ以上に、たくさん食べないと生きられない環境だったはずである。彼らが筋肉質で頑丈な体をしていたということは、それだけたくさん食べてたくさん体を動かしていたことを意味する。
男たちは、毎日のように狩に出ていた。何も食わないでじっとしている、というような暮らしができる環境ではなかった。食い過ぎるくらい食わないと生きられなかった。
彼らは、氷河期の北ヨーロッパを生き残ってゆけるだけの狩の成果を得ていた。ただの「死肉漁り」だけでまかなえるような集団の規模ではなかったし、そうそう頻繁に行き倒れの草食獣の死体と出会えるはずがない。
冬場は、草食獣も衰弱して動きが鈍っているから、むしろ狩りがしやすかったのかもしれない。
そうしてその狩りによって彼らは集団性を確立していったし、その狩りの仕方も集団性も、狩の友であるオオカミを飼い馴らしたイヌから学んだこともけっして少なくはないはずである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   2・結束するということ
イヌが獲物を追い立てて、物陰に潜んで待ち伏せていた人間たちが一撃を加える、というような狩だってしていたかもしれない。
いずれにせよ、オオカミの群れに対する忠誠心は濃密で、現在の西洋人の公共心の高さはそこから学んでいった伝統であるのかもしれない。
集団の結束のダイナミズムはどのように生まれてくるか……おそらくネアンデルタール人は、この問題をオオカミ=イヌから学んでいった。そしてそれは、愛の問題でもある。けっきょくは1対1の関係を基礎にして集団の結束が生まれてくる。
言いかえれば、その基礎を持っていない集団の結束はもろい。
集団の結束なんて、利害関係が一致していればつくることはできる。しかしそれだけでは「金の切れ目が縁の切れ目」的なもろいものでしかない。
「愛」なんていやらしい言葉だが、何はともあれ他者に対する「献身=愛」が起きてこなければ、ダイナミックで確かな結束にはならない。
その結束は、強いものが弱いものを助けてやるという「正義」をスローガンとする集団からは生まれてこない。現在のアメリカ社会のようにホームレスや犯罪をあふれさせるだけだ。
強いものが恩に着せて弱いものを助けたからといって、いったいどんな感慨を共有できるというのか。正義を行使したという優越感と、恩に着せられた負い目があるだけだろう。何も共有していない。だから、そこからは結束のダイナミズムは生まれてこない。
強いもの(勝者)と弱いもの(敗者)という関係があるかぎり、結束のダイナミズムは生まれてこない。
国家という強いものが国民という弱いものを助けるという論理が破産しはじめている時代なのだ。
われわれはもう、国家など信じていない。
正義の側にある強いものを当てにするのではなく、目の前の弱いものどうしの関係を模索しはじめている。
われわれは、正義の名のもとに「自分を免責する」ということはしない。ネアンデルタール人が、自分を免責しないで群れからこぼれおちてきた「はぐれオオカミ」と心を通い合わせていったように、弱いものどうしが助け合う集団性を模索しはじめている。
強いものと弱いものが「同じ星のもとに生まれたような」感慨を共有できるはずがない。だから、そこからは集団の結束のダイナミズムは生まれてこない。
われわれは、正義の側に立って自分を正当化し自分を免責しているような相手とは結束できない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   3・消えようとする衝動(本能)
他者に「献身」するとは、他者に「反応」するということだ。
たとえば、往来で向こうから歩いてきた人とぶつかりそうになったら、体を横にずらしてよける。
相手と同じようにそのまままっすぐ歩いてゆけば、ぶつかってしまう。
「献身=反応」するとはこういうことで、相手と違う動きをして、相手にまっすぐ歩かせてやることだ。
生き物であることの根源は体が動くことであり、動くためには身体のまわりの空間が確保されていなければならない。ぶつかりそうになってよけることは、みずからの身体のまわりの空間を確保すると同時に、相手の身体のまわりの空間も確保してやることだ。
人と人が助け合うことの根源は、たがいの身体のまわりの空間を確保し合うことにある。そうやって大きな群れの中のイワシたちは泳いでいる。たがいの身体のまわりの空間を確保し合うことは、群れを成り立たせることであり、群れに献身することである。往来の雑踏という群れも、そうやってたがいに助け合い献身し合うことの上に成り立っている。
そしてこれは、根源的には「ぶつかりそうだ」と「予測」することではない。脳神経の根源的なはたらきに「予測」という機能などインプットされていない。ただもう目の前に迫った相手の身体の存在感の濃密さに驚き(反応して)消えようとしただけだ。
そのとき脳は、みずからの身体を守ろうとしたのではない。身体を消そうとしたのだ。生き物に「身体維持の本能」などない。死ぬことを宿命づけられている生き物にそんな本能がはたらいていることなど、論理的にあり得ない。消えようとする本能があるのだ。
消えようとすることが、生きるいとなみなのだ。
身体を動かすことは、「いまここ」から消えることだ。生き物は消えようとする本能を持っている。これが、脳神経のはたらきである。
どの方向によければ一番効率的かと「予測」したのではない。とにかく、相手の目の前から消えようとしたのだ。左によけたのは、たんなる「なりゆき」である。それがもっとも有効だと判断したのではない。有効な選択はほかにもあった。もっと有効な選択もあったかもしれない。しかしそれが、消えようとすることの「なりゆき」だった。あるいは、過去の経験知だ。「予測」したのではない。
腹が減ったら、減っていることを消そうとする。息苦しければ、息を吸って息苦しい身体を消そうとする。
身体を消すことが、生きるいとなみであり、体を動かすことだ。
「これはリンゴである」と認識することは、「これは何か?」という問いを消すことである。意識はリンゴを見た瞬間、そのぼんやりした赤い物を「これは何か?」と問う。
意識はつねに、見ることから一瞬遅れてそれを認識する。そして、見ることと認識することのあいだには、つねに「何か?」という問いが挿入されている。
「何か?」と問わなければ、「認識する」というはたらきなど起きるはずがない。「認識する」とは、問いを消すはたらきである。
「消す=消える」ことが脳神経における意識のはたらきであり、生きるいとなみである。
意識は、他者を前にして消えようとする。消えることが他者と「関係」することであり、「献身」することである。
往来で人とぶつかりそうになってよけるときのように、他者を前にして自分消そうとすることが「反応する」ということであり、それこそが、人と人が関係し、集団の結束が生まれてくる基礎的根源的な心の動きなのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   4・オオカミの流儀
物陰に潜んで自分の気配を消すこと、これこそが集団で狩をするオオカミにとってもっとも大切なことだ。ここで失敗したらもう、彼らの狩の成功はない。
オオカミの能力は、群れの能力である。その群れの能力は、それぞれの個体が自分を消すことの上に成り立っている。
はぐれオオカミだって、追い出されたのではない、自分を消してみずから出ていったのだ。
オオカミは、他者に対して自分を主張(プレゼンテーション)してゆくということをしない。サルのように、そうやってボスの座を奪いあうということはけっしてしない。みんなが自発的にボスを選ぶ。子供のときから一緒に遊んでいるうちに、いつの間にかそういうリーダー的な雰囲気を持った一頭がみんなから選ばれてゆく。
それは、けっして力が強く攻撃的な個体ではない。いないようでいて気がついたらいつもそこにいる、というような気配の個体がカリスマになってゆく。
オオカミは、体の触れあい(グルーミング)をいつもしていると同時に、たがいの身体の孤立性、すなわちたがいの身体のまわりの空間を尊重し合う習性も持っている。だから、むやみなボス争いなんかしない。
たがいに身体の気配を消し合って群れをつくっているのだ。みずからの身体の気配を消そうとする作法とメンタリティが発達しており、その特性に秀でたものがリーダーになる。彼らは、そうやって群れや他者に献身してゆく。
グルーミングはひとつの献身の行為だろうが、そうやって他者の身体に気づいてゆくことは、みずからの身体に対する意識が消えてゆくことでもある。
そうしてオオカミは、他者の身体に深く気づいているからこそ、他者の身体のまわりの空間を尊重しようとする。
他者の身体が接近していることに深く気づけば、意識は反射的にみずからの身体を消そうとする。
他者の身体に気づくこととみずからの身体が消えることは、セットになっている感覚なのだ。だからわれわれは人とぶつかりそうになったら思わずよけるし、オオカミは、他者に深く気づく能力とみずからの身体(の気配)を消す能力をセットにして持っている。
オオカミやイヌの嗅覚が発達しているということは、ただたんに鼻の身体的構造の問題だけではなく、他者の身体に深く気づいてゆくメンタリティの問題でもある。人間は、共同体の制度性とともに自分をプレゼンテーションして競争することを身につけていったことによって、「消える」というメンタリティが希薄になったから嗅覚が後退したともいえる。
みんながプレゼンテーションしたがる世の中なら、深く気づくという能力はむしろ邪魔になる。鈍感になった方が生きやすい。深く気づいて傷つき自殺してしまう人もいる。現在の人類社会の制度性においては、みんなが鈍感になってみんなでプレゼンテーションし合っている。われわれ現代人は、オオカミのような他者の存在に深く気づいてゆくという能力を喪失したことによって、嗅覚も後退させてしまった。
他者の存在に深く気づけば、みずからの存在を消そうとする「反応」が起きる。ここに、集団の結束のダイナミズムの基礎がある。そしてこれは、道徳の問題ではない、根源的な生き物としての身体論=存在論の問題なのだ。
僕がここで「弱いものどうしが助け合う」とか「献身し合う」といっても、道徳の問題ではない。むしろ非道徳な「快楽」の問題として、僕はそういいたいのだ。少なくともネアンデルタール人はそのようにして集団の結束のダイナミズムを生み出していったし、われわれ現代人もまたそういうかたちを模索しはじめている。
弱いものどうしが助け合い献身し合う、ひとまず誰もが弱いもになって他者の存在に深く気づいてゆくこと、これが、集団の結束のダイナミズムの原点であり究極なのではないだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   5・集団の結束のダイナミズム
なんのかのといっても、人と人が親密になるとき、どこかしらで同じ星のもとに生まれたような感慨が疼いている、ネアンデルタール人とオオカミの関係のように。
集団の結束のダイナミズムは、ここから生まれてくる。
強いものと弱いもののあいだでは、こういう関係が成り立たない。強いものが弱いものを助けるとか、強い大人が弱い子供や若者を教育するとか、そんなことをいっているかぎり、集団の結束のダイナミズムは生まれてこない。そういう教訓として、現代のアメリカ社会やユーロ圏の混乱がある。
内田樹先生は「弱者を救済し教育する」と盛んに説教を垂れておられるが、僕はそういう欺瞞的偽善的な言い草が大嫌いなのだ。アメリカもユーロも、弱者を救済し教育しようと必死でがんばっているのだ。それでもあんな混乱が起きている。もう、そんな手垢のついたパラダイムではどうにもならないのだ。
そうやって強いものがみずからの既得権益と正当性を守ろうとしているだけじゃないか。彼らのその、「自分を免責し正当化する」ことばかりして生きているという態度がこの世界を混乱させているのだ。
たとえば、人と人の関係において、相手が悪いか自分が悪いか、という問いが生まれてくる局面はよくある。そんなとき、たとえ相手に99パーセントの非があっても、自分の1パーセントの非に気づいて「自分が悪い」と思うことができるか。
どんな関係だろうと「自分が悪い」という部分は必ずある。
「自分が悪い」と思うことは、「自分を消す」という態度である。他者の存在に気づけば、生き物はどうしても「自分を消す」という態度や心の動きをしてしまうようになっている。
共同体(国家)の発展とともに、われわれ人類は、「正義」の側に立って「自分を免責し正当化する」という習性が肥大化してしまった。この習性が、現在の世界の混乱を招いている。
強いものの側に立って「弱者を救済し教育する」などといって自分を免責し正当化しているのが、いちばんたちが悪いのだ。いちばんグロテスクで愚かなのだ。
生き物には「消えようとする衝動(本能)」がある。この衝動(本能)の上に生きるいとなみが成り立っており、生きてあることのカタルシス(=快楽)が汲み上げられてゆく。
何はともあれ「弱いもの」にならなければ「消えようとする衝動(本能)」は起きてこないし、その衝動を共有してゆかないことには集団の結束のダイナミズムは生まれてこない。
われわれ人類は、何かの間違いで生まれてきた弱いものどうしなのだ。そこにおいて、恋をしたり結婚をしたり、友情をはぐくんだり、集団をいとなんだりしている。
「消えようとする衝動(本能)」こそ、生き物としての意識のはたらきの根源であり、究極の観念のかたちでもあるのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/