1・オオカミの子供はかわいいか
ネアンデルタール人が野生のオオカミを犬として飼育するようになったいちばん最初のきっかけとなる出来事はなんだったのか、ということを特定するのは、今のところ僕にはできない。まあ、いろんな出来事があったのだろう。
母親を亡くした仔オオカミを拾ってきた、という場合が、いちばん親密な関係を結べるのだろうか。そしてオオカミは人間よりも体温が高いから、乳幼児のお守役として一緒に遊ばせておけば、寒さで乳幼児の体温が低下するということを防げたかもしれない。なにしろオオカミは、スキンシップがとても好きな動物なのだ。
ネアンデルタール人=西洋人のやたらに抱きしめ合いたがる習性も、このオオカミ=イヌとの関係が基礎になっているのかもしれない。
ともあれ氷河期の極北の地で暮らすネアンデルタール人にとって、低体温化による乳幼児の死亡率の高さはとても大きな問題だった。
また、子供のときから一緒に育ってゆくのがいちばん心の絆が生まれやすいだろう。
サルの群れでは熾烈な権力闘争を勝ち抜いたものがボスの座につくのだが、オオカミは、子供のうちからそれぞれの個体が自発的にリーダーを選んでそれに付き従うようになってゆく。
この、「自発的にみずからのリーダーを選んで付き従ってゆく」という習性は、キツネにはないし、サルとの大きな違いでもある。この習性がネアンデルタールの心を魅了したのかもしれない。いったんリーダーとして認めれば、終生付き従う。この習性は、「忠犬ハチ公」ではないが、今の犬にも残っている。
だから、体の大きな北のオオカミでも、子供のうちから育てれば、犬として家畜化してゆくことはじゅうぶん可能なのだ。
いつのころからかネアンデルタール人のあいだで、子供のオオカミを拾ってきて育てるということが流行していったのかもしれない。そうして彼らは、オオカミとの深い心の絆に気付いていった。この関係は、サルともキツネとも築けない。
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   2・はぐれオオカミ
大人のオオカミを餌付けしていった、ということもあり得る。
オオカミは、群れで行動する生き物であるが、群れからはぐれた「一匹狼」も少なくない。オオカミの群れは、たがいの身体の孤立性を尊重し合うことの上に成り立っている。だから、どうしてもそのような「はぐれオオカミ」も出てきてしまう。この傾向は、人間の群れと似ている。というか、人間がそうした群れの作り方をオオカミから学んでいったのだろうか。
そういうはぐれオオカミは当然飢えているから、餌を与えてやっていれば人間になついてくることもあるにちがいない。
人間たちがシカを狩りで仕留めたところを遠くから様子をうかがっている一匹の飢えたはぐれオオカミ……という光景は、なんとなく想像がつく。
それ以前の歴史においても、同じ獲物を前にして人間とオオカミが接近遭遇する機会はいくらでもあったはずだ。
もしもオオカミの群れの方が圧倒的に数的優位にあれば、人間は、せっかく仕留めた獲物を放棄して逃げるしかない。
しかし、どちらが優位かは、何度も戦ってからわかってくることだ。
人間だって、そうかんたんには放棄しない。なにしろ人間は、オオカミのように2週間も何も食わないでも生き延びられるというような体ではない。しかもオオカミよりもはるかに寒さに弱いから、氷河期の極寒の地なら、2,3日食べないだけで瀕死の状態になってしまう。
ともあれ狼は、ライオンやトラやハイエナなどと同じ純粋な肉食獣ではあるが、そのわりには体が小さく力も弱いから狩の成功率が低く、冬場にはいつも飢えていなければならない。
そういう狼にとって、50万年前の氷河期の北ヨーロッパにやってきた人間は、格好の獲物だった。人間は、シカやウシやウマほど大きくないし、力も弱いし、足も速くない。しかも自分たちと同じ獲物を追いかけているのだから、接近遭遇する機会が頻繁にあった。
たいした武器を持っていなかった初期人類は、つねにオオカミの餌食にされてきた。
それでも人間は、必死でオオカミと戦ったことだろう。
戦うしかなかった。そこはもう行き止まりの地で、逃げてゆく場所はなかった。
そこでのネアンデルタール人とオオカミは、地上でもっとも弱い肉食獣どうしだった。ともに、もっとも敵対する相手であると同時に、同じような生態とメンタリティを持つもっとも心が通い合う相手でもあった。
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   3・氷河期の死肉漁り
ネアンデルタール人は同時代のアフリカのホモ・サピエンスよりもはるかに知能が劣った人種であると考えたがる集団的置換説の研究者たちは、ネアンデルタール人は氷河期になればもっぱら行き倒れになった草食獣の「死肉漁り」だけをしていた、といっている。
しかし、「死肉漁り」なら、オオカミやハイエナやキツネやタカやワシなどの他の動物の方がずっと上手い。ネアンデルタール人の集団がそれだけで生き残れるはずがない。
それに、人間が一日に動きまわることのできる地域などたかが知れている。オオカミは人間の何倍もの広さを移動できるし、嗅覚もはるかにすぐれている。
150人の集団が、毎日のようにシカやウシやウマの死肉にありつけるだろうか。ありつけるはずがない。10人か20人の集団なら1頭のシカで1週間か10日は食いつなげるだろうが、150人なら、1日か2日で食べつくしてしまう。
そしてもし人間が居留地から何日も離れて移動してゆけば、そうかんたんには戻ってこられなくなる。帰巣の能力もまた、オオカミの方がはるかに発達している。
人間が狩のために何日も遠征できるようになったのは、イヌを連れて歩くようになってからのことではないだろうか。帰り道は、人間は忘れても、イヌが覚えている。
おそらくネアンデルタール人は、あまり草食獣の死肉にはありつけなかった。オオカミでさえ冬場もシカの狩をしなければならないのなら、人間はさらにけんめいに狩りをしていたことだろう。
もしもネアンデルタール人がほんとうに死肉漁りだけで氷河期の冬の北ヨーロッパを生きていたのなら、現在の極地のオオカミだって苦労して鹿狩りなんかしなくても死肉漁りだけで生き延びているはずである。そうしてオオカミはもう、とっくに冬場の鹿狩りを忘れてしまっていることだろう。
ネアンデルタールとその祖先たちが氷河期の北ヨーロッパを生きてゆくことは、寒さに対しても食糧確保においても、現在の研究者が考えるよりもはるかに過酷ないとなみだったのだ。
もちろんオオカミだって必死に人間を追いかけまわしていたに違いなく、とにかく人間とオオカミの熾烈な戦いの歴史があったのだ。そこから、両者の友情というか絆のような関係が生まれてきたのだろう。
いまどきの安直な「犬を飼い馴らす」というような認識のレベルでは測れない。
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   4・戦う意欲と能力がない
人間はもともと「逃げ隠れする」生き物である。不安定な直立二足歩行をしているのだから、外敵から逃げる能力も戦う能力もない。
人間が戦う能力を持つようになってきたのは、石器の銛や槍や斧といった武器を持つようになってからのことである。それは、人類700万年の歴史で、数十万年前からのつい最近のことであり、それまでの大半の歴史をひたすら逃げ隠れして生き延びてきた。
というわけで戦う能力がないのだから、外敵はおろか同類の群れともテリトリーを接していることができない。たがいに離れてテリトリーをつくろうとする。
このへんのメンタリティや生態が、たぶん最初は同類であったはずのチンパンジーとはまったく違う。チンパンジーは戦う能力も意欲も持っているから、たがいのテリトリーが重なり合う「オーバーラップゾーン」を持っており、ここでよく殺し合いなどのいさかいが起きている。そしてリーダーの座も、強いもの戦って勝ち取る。
しかし戦いのメンタリティも能力もない初期人類は、子供のときから一緒に育ってゆく過程で、なんとなくみんなから一目置かれるようになるものが戦うことなく自然にリーダーになっていった。強いものがリーダーになるのではない、みんなをまとめるのがうまいものがリーダーとして一目置かれるようになってゆく。
人間は、強いものに対しては、本能的に逃げ隠れしようとする。猿の社会のように、弱いものが強いもののところに寄ってゆくということはしない。
だから、「強いものが弱いものを助ける」というアメリカ的な正義の理念ではけっして安定した社会構造にはならない。そんなものは、猿の理念にすぎない。人間の本性として、それでは「理想の社会」は実現しないのだ。
人間の本性は、「弱い猿」であることにある。われわれは700万年の歴史の大半をそういう存在として生きてきたのだ。したがって人間の本性の上に成り立った社会とは「弱いものどうしが助け合う」というかたちにあり、そこにおいてこそ人間的な結束のダイナミズムが生まれてくるのだ。
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   5・弱い生き物であるということ
そしてじつは、オオカミの社会もまた、たがいの群れのテリトリーは離れており、そのあいだに緩衝地帯がある。
オオカミの群れはあくまで狩のために存在しているのであって、他の群れと勢力争いをするためではない。リーダーは、狩のチームワークをまとめる能力はあるが、他の個体と勢力争いをする資質というか、そのような攻撃性は持っていない。リーダーが持っていないのだから、群れそのものも持っていない。だから、そうした軋轢が起きないように、たがいにテリトリーを離れさせようとする。
そして、この緩衝地帯を、はぐれオオカミがさまよっている。そしてこの緩衝地帯が、初期人類のテリトリーになっていたのかもしれない。だから、初期人類とはぐれオオカミは避けがたく接近遭遇していた。両者は、同類であり、いわば仲間だった。
群れから脱落してはぐれオオカミになってしまうのは、サルのように勢力争いをして負けたからではない。オオカミにはそんな争いをする本能はない。落ちこぼれてゆくのは、体力不足でみんなと一緒に狩をすることについてゆけなかった場合が多い。
オオカミにもとりあえず順位があって、たとえば狩りで倒した鹿を、上のものから順に食べてゆくから、下のものが食べようとするときにはもう肉が残っていないということも多い。そうやって脱落してゆく。けっきょく、獲物によって適正な個体数があるから、どうしてもはぐれオオカミは生まれてきてしまう。
はぐれオオカミは、サルのように仲間から追い出されたのではない。オオカミは、そんなことはしない。しかしオオカミのメンタリティは群れに忠誠をつくすことにあるのだから、自分が群れにとってよけいな存在だと判断すれば、自分から群れを離れてゆく。
そしてオオカミは、単独ではシカの狩はできない。相手の方が足が速いし体力もあるから、かんたんに蹴散らされてしまう。
オオカミには、肉食獣であることができるほどの体力はそなわっていない。ほんらいならキツネのように雑食性になるしかないのだが、その体力のなさを群れの力で補っている。
であれば、単独行動を余儀なくされたはぐれオオカミほどみじめな存在もない。
肉食獣だから必ず凶暴だとはかぎらない。はぐれオオカミは、みずからが弱い生き物だということを骨身にしみて知っている。もともとオオカミは弱い肉食獣だから群れをつくって狩をするようになっていったのだが、はぐれオオカミはその中でもさらに弱い存在なのだ。だから、人間の赤ん坊のようなこの世のもっとも弱い存在と心を通い合わせることができる。そういうメンタリティにおいては、雑食性で単独でも生きることのできるキツネよりもはるかに濃密である。
はぐれオオカミは、つねに「生きられるかどうか」と問うている。いや、オオカミそのものが、「生きられるかどうか」と問うている存在だった。
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   6・強いものと弱いものの社会
弱い生き物は、つねに「生きられるかどうか」と問うている。その心を通い合わせながら人間とオオカミは親密になっていった。
弱い生き物だから群れをつくる。弱いものどうしが助け合うことによって、群れの結束のダイナミズムが生まれる。
人間の群れは、根源的には、強いものが弱いものを助けるというかたちで成り立っているのではない。
人間の集団性の基礎は、サルの群れにあるのではない。人間は、サルの集団性から遠く離れることによって人間になったのだ。人間の集団性は、サルよりもオオカミの集団性の方がずっとよく似ている。
人助けをすることができる強いもののもとに「正義」があるというアメリカ流の思想では、人間社会はうまく機能しない。そうやって「正義」の側にある人間の「自分を免責する」という態度こそ人間社会を機能不全に陥らせている元凶なのだ。
そのはぐれオオカミは、自分を免責しないで、みずから「弱いもの」として群れからこぼれおちていった。その心とネアンデルタール人の心が響き合った。
強いもと弱いものは、「同じ星のもとに生まれた」という感慨を共有できない。だからそこからは、結束のダイナミズムも生まれてこない。
誰もが弱いものになってその「嘆き」を共有してゆくことによって、人と人が結束する。そういうことを、ネアンデルタール人はオオカミから学び、オオカミと心を通い合わせていった。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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