1・「予測」と「計画性」
生物人類学者の海部陽介氏の「人類がたどってきた道」という本によれば、人類の文化は「予測」や「計画性」の知能とともに発達してきたのだとか。
僕は、近代合理主義に毒されたこういう程度の低いことを研究者にいわれると、めちゃめちゃむかつく。
おまえらアホか、おまえら人間をなめているのか、といいたくなる。
マチュアの人類学フリークがそんな調子で知ったかぶりして語るのなら「ああそうですか」と苦笑いしながら生温かくスルーすることもできるが、世界の第一線の研究がこんな薄っぺらなへりくつで進行しているのだとしたら、納得するわけにはいかない。
こんな程度の低いことばかりいっていたら、われわれはいつまでたっても人類史の真実に迫ることができない。
「予測」や「計画性」などという頭のはたらきは近代社会において止揚されてきたたんなる「観念行為」であって、人間を生かしている根源的な意識のはたらきでもなんでもない。
また、ロケット工学の一流の専門家であるらしい人の「哲学はなぜ間違うのか?」というブログでは、「生き物の脳神経系には<予測>の機能があり、人間は直立二足歩行の起源以来この機能を進化させてきた」といっておられる。
まったく、何いってるんだか。世界じゅうの脳科学者が、「脳神経系」という基礎的根源的な脳のはたらきに「予測」という機能がインプットされていると考えているのなら、脳科学の未来なんか絶望的だと僕は思う。
脳は、基本的には外界からの刺激に「反応」する装置だろう。それ以上でも以下でもないのではないか。そのはたらきを基礎に、われわれは「予測」という観念を紡いでいるだけだろう。たしかに現代社会では「予測」の観念を持たないとうまく暮らしてゆけない。しかしそれが生き物を生かしている根源的な意識のはたらき、すなわち脳神経系のはたらきの本質だとは、僕はぜんぜん思わない。俗物が何をくだらないことほざいていやがる、と思うばかりだ。
「反応」すること、これが意識のはたらきの根源であり究極だと思っている。それこそがもっとも原初的な脳神経系のはたらきであると同時に、もっとも現代的な新しい文化を生み出す知性や感受性になっている。
人類史において進化してきたのは、この「反応」というはたらきなのだ。
またこれは、あなたにとって、予測の能力のすぐれた小ざかしくも小ずるい生き方上手の人間と、世界や他者に豊かに「反応」することのできる人とどちらが魅力的かという問題でもある。どちらが、美しいものや人の魅力に感動したり醜さを嫌悪したりする豊かな感受性や知性をそなえているか、という問題でもある。
何が「予測の脳神経系」か。「哲学はなぜ間違うのか?」といいながら、おまえがいちばん俗っぽくて間違いやすい哲学をやっているんだよ。くだらない。
作為的な「予測」や「計画性」の亡者になってしまったら、生きることの感動なんかなくなってしまうのですよ。俗っぽくいえば、これは「愛の問題」ですよ。おまえらは愛が薄いんだよ。
愛とは「反応」することであり、これが意識のはたらきの根源であり究極なのだ。
というわけで、「予測」だの「計画性」などという知能(観念)が人類史の新しい文化や文明を切り拓いてきたわけではないのであり、「いまここ」の「反応」というはたらきを問うことこそ、もっとも原初的な問題であると同時にもっとも現在的な問題でもある。
そして「いかに生きるべきか」と未来を問うてばかりいるいまどきの大人たちと、「いまここ」の「生きられるかどうか」という問いを携えて生きている若者たちとの世代間の断絶の問題でもある。
現在のこの国の自殺者が年間3万人以上であるということは、「いまここ」の「生きられるかどうか」という問いが露出してきた時代である、ということを意味する。そういう時代に「予測」だの「計画性」だのと薄っぺらなことばかりいってんじゃないよ。ほんとに、くだらない。
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   2・「絆」の発見
ネアンデルタール人は、狼を家畜にしようと「予測」し「計画」して狼を飼いはじめたのか。
そうじゃないだろう。
とりあえず拾ってきた狼の子供がかわいかっただけだろう。
そしてその狼が家畜になっていったから、家畜にしようという発想が生まれてきただけのこと。そこにいたるまでには狼と人間とのせっぱつまった愛と憎しみの関係の歴史があるわけで、狼を家畜にしようとする「予測」だの「計画」があったのではない。
ただの言葉の問題だといわれそうだが、人間が狼を家畜にしたのではない、狼が家畜になっていったのだ。
ジャック・ロンドンの「野性の叫び」という小説などでもわかるように、犬を狩の友や犬ぞりとして飼育している極北の人々は、われわれ都会人よりもはるかに犬とのせっぱつまった関係を結んでいる。それは、おたがいに「生きられるかどうか」と問い合う関係なのだ。
そこでの犬は、「野性」として人間と一緒に生きている。文明化したひ弱な飼い犬根性では共生できないのだ。その犬たちは、へたしたら人間を噛み殺しかねないメンタリティを残しているのであり、だからこそ人間との強い結束も生まれてくる。
このことを、今どき流行りの「絆」という言葉の生温かいニュアンスで語られると、ちょっと困る。しかし現代人のその「絆」だって、じつは、心の底で「生きられるかどうか」というせっぱつまった問いを交感しているのだ。根源的には、誰もがそのようにして存在している。
もしかした人類は、ネアンデルタール人の時代の狼=犬との関係から「絆」というものを発見したのかもしれない。
そこは、アフリカで生まれた南方種である人類にとってまったく新しい環境だった。つまりそこで、新しい人と人の関係が生まれてきたのであり、それによって猿としての限界を超えたより大きな集団を形成していった。その「関係」を、ネアンデルタール人はたぶん、狼=犬との関係から学んでいった。
そうしてそれがやがて共同体(国家)の制度的観念的な関係へと変質していったとしても、さしあたってわれわれは、心の底でそうしたせっぱつまった関係を結んでいるのだ。
だから、自殺するということも戦争をするということも起きてくる。
「愛」とか「絆」という問題が一般的にいわれているような生温かいだけの関係ですむはずがない。誰だってどこかしらに「生きられるかどうか」という問題を抱えているのだ。人間だって生き物なんだもの。
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   3・狼の生態
狼は、ネズミから大きな鹿まで、なんでも襲う。つまり、それだけ飢えが骨身にしみている種なのだ。
夏場の、比較的かんたんに食料が得られる時期は、それほど群れの結束はタイトではない。ネズミ一匹をみんなで分けられるはずがない。彼らは、個体の孤立性を尊重することもちゃんと知っている。だから、「一匹狼」というはぐれ者も出てくる。
餌が手に入りにくくもはや集団で大きな鹿などを狙うしかない冬場になってきて、一気に群れの結束が高まってゆく。これが、北の狼の習性らしい。
狼の発情期は年に冬場の一回だけで、受胎して数週間で子供が生まれる。そして子供を産むのは、群れの最上位のメス一匹だけらしい。一匹の母親から、4〜6匹くらいの赤ん坊が生まれる。メス全員が出産していたら、赤ん坊だらけで群れは収拾がつかなくなってしまう。
春から夏にかけて、夫婦だけで子育てをする。もしもこの時期に人間に襲われて子供を連れてゆかれるということが何年か続いたら、北の野生の狼の寿命はせいぜい7、8年くらいだといわれているから、その群れは確実に弱体化してゆく。
まあそういうことがあったのかどうかは知らない。ただ人間と狼は同じ場所で同じ獲物を追いかけているものどうしで、しかも人間は、狼が鹿などの獲物にありつけないときの代用の食料にされてきた歴史を持っているのだから、人間だってそうそうのんきに「共生」などいっていられない。
狼が冬場に鹿の狩をするときの成功率は10パーセント以下で、二週間くらい何も食わずに過ごすこともあるのだとか。だから、そのために食いだめをすることができる体になっているのだが、それだけに武器が未発達だった初期の人類はつねに狼に狙われていたともいえる。
いちおう狼と戦えるだけの武器や文化を持っていたネアンデルタールだって、たとえ集団で行動していても、隊列から遅れがちな体力のない者がたちまち狼に囲まれて餌食になってしまうことは少なからずあったはずである。
ネアンデルタールだって、生きるか死ぬかのせっぱつまった問題として、狼の戦力を削ごうとする試みはしていたのではないだろうか。
彼らは、狼の狩の仕方を学習しながら狼を追い越してゆき、ついに狼を犬として家畜化するまでになっていった。
たとえばアイヌの人々が熊を「神=カムイ」として崇めるようになっていったのも、同じような歴史的経緯があるからだろう。最初は一方的に襲われるだけの関係だった熊と、やがては好敵手として命のやり取りをするようになり、ついにはその恩恵を被るようになっていったという、のっぴきならない関係の歴史の厚さと重さがあるのだ。
熊はアイヌの大切な食料になったが、ネアンデルタールにとっての狼=犬は、そのかわりに切実で豊かな心の交流を体験させてくれた。そこには、「絆」という関係を発見する契機となる体験があった。
狼もまた人間にとっての「神」になっている時代があったし、古代ローマ人は、狼に育てられた子供が国生みの親になった、という伝説をつくっていた。
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   4・人間が狼から学んだこと
このブログが、横道にそれていまどきの「萌え」とか「癒し」という問題のところをうろうろしていたのも、このネアンデルタールと狼=犬との関係の問題にたどり着きたかったからだ。
僕は、ネアンデルタールのことを考えることは今日的な問題を考えることだと思っているし、ネアンデルタールと犬との関係の問題は、その後の共同体(国家)の発生の基礎になっている問題だと考えている。
そうしてよくよく考えたら、いまどき流行りの「絆」という関係の問題でもあったのだ。
「絆」とは、いまどきいわれているような、先験的に与えられている生温かい関係のことではない、生きるか死ぬかのせっぱつまった状況において「発生」する関係なのだ。ネアンデルタールは、狼とのそういう真剣勝負を挑んで狼との「絆」を発見し、狼を犬として家畜化していった。
狼との「絆」があったのではない、狼との「絆」が「発生」したのだ。
ネアンデルタール人が狼から学んだことは、狩の仕方だけではない。
たとえば、狼のリーダーは、猿の社会のように一番力が強い個体がなるのではない。
社会的な意識が高い狼がリーダーになる。つまり、「力」ではなく「メンタリティ」によって、みんなからリーダーとして認められてゆく。子供のときから群れの中で一緒に遊んだりして育ってゆくうちに、なんとなくほかの仔狼がその個体に一目置くようになり、その個体も子供どうしで遊ぶことよりも群れのリーダーについてまわるようになってゆく。そうして自分たちが群れの中心の世代になれば、その個体がリーダーになる。
猿のように、力でその座を奪いあうのではない。
だからリーダーは、群れの中のほかの狼よりもむしろ穏やかな性格であることが多い。攻撃性が希薄で穏やかなリーダーを持っている群れほど、個体どうしのいさかいも少なく安定している。
ネアンデルタールだって、子供だけの社会があったのだから、そのときすでに将来のリーダーが決定されていたのだろう。それは、いちばん強い子供ではなく、みんなを上手に遊ばせるのが得意な子供だったのだろう。
狼は、強いものにしたがうのではなく、群れを存続させる能力を持ったものにしたがう。狼の能力は、群れの能力なのだ。力比べ(競争)なんかしていたら、群れは成り立たなかった。
そこのところを、おそらくネアンデルタールは学んでいったことによって大きな集団を形成できるようになり、氷河期明けの後世の人類の集団は「国家」という単位までふくらんでいった。
ネアンデルタールだって、力比べをしている余裕なんかなかった。狼のようにチームプレーで大型草食獣の狩りをしなければならなかったし、みんなで寄り集まって寒さをしのいでゆかねばならなかった。
そして狼は、体を触れ合ったり舐め合ったりということ(グルーミング)をいつもしている。そういうことだって、おそらくネアンデルタールの男女の触れ合いのお手本になっているし、現在の西洋人の習俗だってそこからきているということがよくわかる。西洋の恋人どうしのじゃれ合いなんて、狼のグルーミングとそっくりだ。
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   5・人間と狼のせっぱつまった関係
ネアンデルタールが狼から学んだであろうことは、いちいち挙げたらきりがないほどほかにもたくさんある。
西洋のオーケストラは、それぞれの楽器が違う音階を奏でながら一つの曲の世界をつくってゆく。狼もまた、個体どうしの性格が千差万別で、みんなが違う動きをとりながら獲物を追いつめてゆくという狩をする。
狼は、たがいの身体の孤立性を尊重し合っている。上位の狼が下位の狼の食べ物を奪うということはけっしてしない。猿のように、近づいていって「くれ」というような態度もとらない。
たがいの身体のまわりの「空間」を尊重するという態度は、猿よりも狼の方がずっと人間に近い。
人間と心を通い合わせる資質は、猿よりも狼の方がずっと豊かにそなえている。
そして、原初の人類は猿(チンパンジー)から逃げて地球の隅々まで拡散していったが、最後に出会った狼とは、真剣勝負の関係を挑んでいった。それだけたくさんの心の響き合いがあったからだ。最初は一方的に食われてしまうだけの関係だったのに、ただ逃げ隠れしていただけではなかった。
猿よりも狼=犬の方がずっと豊かに人間の心に反応する。
人間の心は狼の心にはたらきかけてゆく何かを持っていたし、狼の心は人間の心に反応する何かを持っていた。
それは、両者の生態やメンタリティが似ていたということもあるが、同時に、ぎりぎりのせっぱつまった状況を生きているという「嘆き」を共有していたからだろう。
人間も狼も、鹿を殺して食べる地上でもっとも弱い存在だった。
狼は、ハイエナなどのイヌ科の動物のもっとも小さくて弱い亜種のひとつであり、人間もまた、類人猿の中のもっと弱い猿としてこぼれおちていったところから歴史をスタートさせてきた。そうして、ともに追われ追われて氷河期の極北の地にたどり着いてそこで出会い、ともに群れとして生きることに活路を見出そうとしていた。
ともに、「生きられるかどうか」とせっぱつまっていた。
人間が狼を家畜化していったのは、その歴史のはじめに狼に食べられていたことの復讐というよりも、同類として真剣勝負の関係を挑んでゆく行為だった。だから、狼の心は、人間の心に反応した。
狼は警戒心が強く、人間以外のどんな動物とも仲良くならない。なぜ人間とだけは親密な関係を結ぶことができたのか。これは、不思議といえばまったく不思議であり、そこで何かそういう「絆」が発生した、としかいいようがない。
ネアンデルタール人と狼は、そこで、「生きられるかどうか」という問いを交感していったのだ。
そして退屈しきった現代人が犬に「癒し」を求めていることだって、じつは心の底で、「生きられるかどうか」という問いを交感している。そういう心の底に響く何かがあるのだろう。人と人の関係でそういう体験ができなくなってしまっている時代だから、最後のよりどころとして犬との関係にすがっているのだろうか。
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   7・喪失感
「絆」といっておけば、それで問題が解決されるわけではない。「絆」とは何かと問い、「絆」を失っているというそのことこそ問われなければならない。それは、現代人がお気楽にもてあそんでいられるような生温かい予定調和の関係ではない。
僕だって「絆」を喪失しているひとりさ。われわれはもう、その喪失感から生きはじめるしかない。それは、人と人のあいだに先験的に存在しているのではない。「いまここ」に対する切実さとして、「発生」するのだ。そしてそういうことは人間よりも狼=犬の方がよく知っているのであり、そういうことをネアンデルタール人は狼から学んでいったのだ。
たとえば、ネアンデルタール人にとって、人と人は先験的に温め合って存在している、といえるような悠長な環境ではなかった。「いまここ」の切実さとして、「温め合う」という関係が「発生」する。
狼は、グルーミングであれ何であれ、他者の領分を侵さないとか他者に献身するとか、そういうことを人間よりずっとひたむきにやっていることをネアンデルタール人は発見したのであり、だから狼を、犬という家畜としてそばに置いておきたかった。
ネアンデルタール人も狼も、「絆」の喪失感から生きはじめていた。つまり彼らは、個体としての孤立感から生きはじめていた。
現代人ばかりが、先験的に「絆」が存在するかのようなのうてんきなことを合唱してやがる。
極寒の極北の地で、ネアンデルタール人は寒さに震えていたし、狼たちは飢えていた。
狼たちがやたらに仲間の体を舐めたり甘噛みしたりしたがるのはその歴史が飢えとともにあったからだろうし、寒さに震えていたネアンデルタール人たちは抱きしめ合っていった。
狼や原始人が、飢えや寒さを忘れるためには、みずからの身体を忘れること、すなわち他者の身体に気づいてゆくしかほかに方法がなかった。
他者の身体に「反応」すること、それは、他者の身体が存在するという前提の上に起こる心の動きではない。その前提を喪失しているという孤立感から「反応」という現象が起きてくるのであり、飢えとか寒さは、その前提を喪失して意識がみずからの身体に閉じ込められている状態のほかならない。そういう状態を、ネアンデルタール人も狼も、骨身にしみて体験していたのだ。
現在のこの国の若者たちだって醜い大人たちに囲まれ追いつめられて孤立してしまっているのだが、だからこそ「癒し」だの「萌え」だの「かわいい」だのとときめいてゆく(=反応してゆく)文化を生み出していった。
なんだかうまくまとらない書きざまになってしまったが、とにかくここでは「はじめから絆があるなどと思うな、われわれは絆を喪失しているのであり、絆は発生するのだ」といいたいのだ。
「絆」を喪失して孤立しているのが、弱い生き物である人間存在の根源のかたちなのだ。人は、そこから生きはじめる。しかしだからこそネアンデルタール人は、この世のもっとも敵対する相手であるはずの狼とのあいだに、生きてあることの「嘆き」を共有している同類としての「絆」が発生していることに気づきときめいていった。
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