やまとことばと原始言語 22・人間的な連携

「自分なんか生きていてもしょうがない」と思い悩む人がいて、それがリストカット鬱病や自殺の契機になっていたりする。
そしてそんなときにわけ知り顔の大人が、「誰の命もかけがえのないものだ」という。
こういうおためごかしの低俗な物言いは、ほんとに愚劣だと思う。
命を、価値とか無価値の物差しで語るなよ。その視線の卑しさはなんなのだ。おまえらがそんなことばかり合唱しているから、「生きていてもしょうがない」と思うほかないところに追いつめられる人が生まれてくるんだぞ。おまえらがその卑しさを少しでも反省すれば、たくさんの人が救われる。
「生きていればいつかいいことがある」だって?
そんなことは、どうでもいい。死ぬまで悪いことだらけでも、命をまっとうした人はいくらでもいる。そういう人たちに対する敬意が少しでもあるのなら、そんな薄っぺらで欺瞞的な励まし方はするな。
「いいこと」とやらをいっぱいにためこんだあげくに死ぬのが怖くなって必死にこの生にしがみついているだけのくせに、幸せが人間を生かしている、というようなごまかしはするな。幸せなんて、生きてあるという事実とは別のことだ。幸せでなくても生きている人はいくらでもいる。彼らは、生きてあるという事実を受け入れて生きている。生き物は、もともとそのようにできているのだ。
生きることは、体が勝手にしてくれている。意識は、その結果として発生する。したがって意識は、その根源において、生きてあることを受け入れている。意識が身体を支配しているのではない。身体のはたらきに沿って意識がはたらいているだけなのだ。
意識(=心)に、命の価値や無価値を決める権利も資格も能力もない。つきつめて考えれば、どちらの結論も得ることはできない。
生きてあることは、しんどくてうっとうしいことだ。どうせ死んでしまうだけなのに、生まれてきてしまった。それは、残酷な事実だ。しかしそれでも生き物は、生きてあることを受け入れてしまうようにできている。
生まれてきてしまったことを嘆いて何が悪い。生まれてきて幸せだとほざいている人間より、ちょっとだけ正直すぎるだけじゃないか。
体が生きるようにはたらいているのなら、それを受け入れるしかない。
はえらい。意識は、そんな体を支配する権利や資格があるほどえらいわけではない。生きるか死ぬかなんて、ほんらい意識(心)が決めることではないのだ。
生きるも死ぬも、体が決めることだ。
誰だって、体が決めることにしたがおうとする心の動きは持っている。腹が減ったら飯を食いたくなるのは、そういうことだ。それは、生きてあることの苦痛であり、その苦痛を知らなければわれわれは生きられない。
意識(心)は、体のはたらきを受け入れている。
身体をうっとうしいと感じることは、身体がいかに精妙にこの生をいとなんでいるかということに驚きときめくことでもある。
生きることのうっとうしさを味わい尽くせば、生きてあることの醍醐味を体験させられる。生きてあることの醍醐味は、もっとも深く生きてあることのうっとうしさを味わい尽くした人が知っている。そして彼らは、この社会で成功した人間や幸せな人間のように、「誰の命もかけがえのないものである」などとはいわない。
生きてあることの「価値」を問うている人間は、生きてあることの「事実」を味わい尽くすことはできない。そんな人間ばかりの世の中だから、そこから追いつめられて「生きていてもしょうがない」と悲観的な価値を問うてしまうことにもなるのだ。
生きてあることの価値を問うなんて卑しいことだ。それでもそのことを問わねばならないのなら、生きてあることを嘆きとともに深く味わいつくしているものほど「生きていてもしょうがない」と思うところに追いつめられてしまう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間は、生きてあることを嘆いている存在である。人間は、直立二足歩行を開始して人間になったときから、ずっと生きてあることを嘆きながら歴史を歩んできた。生きてあることの嘆きが、ことばをはじめとする文化や文明を生み出してきた。
原初の人類は、生きてあることの嘆きを共有していた。生きてあることの価値を共有していたのではない。
彼らが直立二足歩行を開始することは、不安定でうまく動けないまま胸・腹・性器等の急所をさらした姿勢になり、生き物のとしての能力を大幅に喪失する体験だった。彼らは、そうした事態の嘆きを共有しつつ、連携し、長い歴史を生きのびてきた。
嘆きが、人間どうしを連携させ、文化・文明を生み出してきた。
ことばはたしかに人間的な連携の道具であるが、その機能の本質は、「伝達」ではなく「共有」にある。
生きてあることが幸せで価値があるのなら、そこから連携してゆく必要はない。
深く嘆いている弱い存在だから、その嘆きを共有しながらタフで緊密な連携が生まれてきたのだ。
幸せで命のかけがえのなさを自覚している人間は、おおむね酷薄である。なぜなら彼には他者と連携してゆく契機がないからである。
生きてあることを深く嘆いている人間のほうが人情の機微をよくわかっているし、セックスアピールも持っている。セックスアピールとは、他者と連携してゆく契機を持っている、ということである。
仲良しグループで固まっているのは、連携しているのではなく、そうやってグループとして連携する契機を喪失している状態である。彼らは、人間として、酷薄である。
たとえば、家族は最も典型的な仲良しグループであるが、ときにもっとも人情の薄い関係の空間になったりする。すなわち、親子や兄弟姉妹でセックスの関係が生まれないくらい人情の薄い関係の集団なのである。家族の中では、誰もセックスアピールを持っていない。誰もが、連携の契機を喪失している。
他者と連携してゆく契機は、一人ぼっちで生きてあることを深く嘆いている人間こそがそなえている。
日本列島の歴史において、何はともあれもっともタフで緊密な連携をつくってきたのは、農民たちの集団だった。
黒澤明の「七人の侍」という映画で、農民たちを助ける侍グループのリーダーは、農民たちを指して「けっきょく最後に生き残るのはあいつらなんだ」といった。
農民たちは、誰もが弱い存在として生きてあることを深く嘆いていた。生きてあることの嘆きを共有している集団において、もっともタフで緊密な連携が生まれてくる。これは、直立二足歩行以来の、普遍的な人間性のかたちである。
生きてあることを嘆いているあなたこそ、誰よりも深く豊かに他者との連携の契機をそなえている。
人間の集団は、もともと「かけがえのない命」などという嘘くさくポジティブなスローガンで連携してゆくことのできる集団ではない。
男と女の関係だろうと、集団の関係だろうと、生きてあることの嘆きを共有しているところでこそ、豊かなセックスアピールや連携が生まれているのだ。
そして嘆きを共有して微笑み合うことができれば、人は生きられる。
人間は、生きてあるという事実に、驚き畏れ、ときめいている。
生きてあることに価値があるとかないとか、そんなことはどうでもいいのだ。
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/