やまとことばと原始言語 23・「コレクティブ・ハウス」

承前
生きてあることの「嘆き」を共有している集団において、もっともタフで緊密な連携が生まれる。その好例として、先のサッカーワールドカップで、あんなにもぼろぼろだった日本代表が突然すばらしいチームワークの集団としてよみがえったことが挙げられる。そういう意味で、日本代表をあんなぼろぼろのチームにした監督の功績は大きい。有能な監督では、あんな芸当はできない。
老人介護の現場で、薄給の介護士たちがどうしてあんなにも献身的な世話ができるのかと、それはもう感動的だ。彼らもまた、老人たちと生きてあることの「嘆き」を共有しているのだろう。
彼らは、薄給に甘んじながら老人介護をして生きてゆくしかないみずからの現実を受け入れている。
人間は、ときにどんな過酷な現実も受け入れる。
誰だって年老いて死んでゆくのだもの、そういう本性を持っていなければ生きていられるものではない。顔がブサイクであることも、頭が悪いことも、家が貧乏であることも、年老いてゆくことも、ひとまずわれわれは受け入れて生きている。受け入れなければ生きられない。
生まれたばかりの赤ん坊だって、この世界の孤立した個体として放り出されたという過酷な現実と出会って「おぎゃあ」と泣く。この生のいとなみとしての、嘆きつつ現実を受け入れてゆくというトレーニングは、そこからはじまっている。
あなたは、みずからの身体がこの世界における孤立した個体として存在していることを「怖い」とは思わないか。われわれはたぶん、意識の根源においてそのような存在することの「恐怖=嘆き」を抱えているから、他者と連携し、集団をつくってゆくのだ。
人間的なタフで緊密な連携は、じつはこの「恐怖=嘆き」を共有しているところから生まれてくるのではないだろうか。
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5万年前の氷河期に地球上でもっともタフで緊密な連携を備えている集団は、極寒の北ヨーロッパというもっとも住みにくい地に住み着いていたネアンデルタールの集団だった。彼らこそ、もっとも深く生きてあることの嘆きを共有している集団だった。
氷河期明け以降の人類文明のめざましい発展の基礎は、ネアンデルタールによってつくられた。彼らは、氷河期の極北の寒さと、限度を超えて密集した群れをつくりながら洞窟にひしめき合って定住していることのうっとうしさを、深い嘆きとともに共有していた。
さらには、そんな厳しい環境であるために彼らの寿命はとても短く、乳幼児の死亡率も異常なほど高かった。ネアンデルタールの遺跡から掘り出される骨の半分は幼児のものであり、さらに溶けてなくなくなってしまった乳児の骨を加えれば、その死亡率の異常な高さは容易に推測できる。乳児の死亡率は、幼児のそれよりもずっと高い。そういうことも考えれば、無事に成人できる個体などほんの一握りだったにちがいない。彼らは、つねに死と向き合って生きていた。
彼らは、幾重にも嘆きを共有しながら生きていた。しかしそういう集団こそ、もっともタフで緊密な連携を備えている。そのころ、ネアンデルタールの集団こそ、もっとも大きく密集した集団だった。
彼らの行動範囲は広く、洞窟どうしの連携も持っていたらしい。その連携によって、女を交換したり、集団でマンモスなどの大型草食獣の狩をしたりしていた。
そして集団で狩をしていたなら、その獲物を分ける共有の広場を持たねばならない。また、その広場で集落間の男女の出会いも生まれてくる。彼らは、個人どうしも集落どうしも、さまざまなものを「共有」していた。人類の文化や文明は、そういう暮らしから生まれ発展してきた。
文化や文明は、知能の発達から生まれてきたのではない。それは集団の連携の中から生まれてきたのであり、その連携は、誰もが深いところで生きてあることの嘆きを「共有」しているところから生まれてきた。
人類の文化や文明は、生きてあることの嘆きを共有してゆくことからはじまっている。その嘆きを処理する機能として、文化や文明が生まれてきた。
べつに、知能の発達とともに文化や文明を生み出そうとする先験的な衝動を持っていたのではない。知能の発達は、文化や文明が生まれてきたことの「結果」であって、「原因」ではない。
知能のすぐれた者たちによって文化や文明が生み出されてきたのではない。それは、深く嘆いているものたちによって生み出されてきたのだ。
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人間は根源的に生きてあることの「嘆き」を抱えており、それが共有されて集団が生まれてくる。
生きてあることのよろこび、などというものは人それぞれだし、誰もが自覚している感情であるわけでもない。
われわれが意識の根源において共有しているのは生きてあることの「よろこび」ではなく、「嘆き」なのだ。人間存在は、生きてあることの「嘆き」の上に成り立っている。腹が減ったら、誰だってうっとうしいだろう、柱の角に膝をぶつければ痛いだろう、基本的には、そういう「苦痛=嘆き」を「共有」して存在しているのだ。それらの事態が「苦痛」だから生き物は生きられるのだし、意識はそういうところから発生してくる。
生き物がこの世界と調和してまどろんでいるのなら、意識なんか発生してくるはずがない。意識はまず「違和感=嘆き」として発生する。
生きてあることは、いたたまれないことなのだ。ほんとうは誰もが心の底ではそんな「嘆き」抱えており、それを共有してゆくところから人間的なタフで緊密な連携が生まれてくる。
人間がなぜなぜかくも密集した大きな群れをいとなんでいるかといえば、群れをつくろうとする衝動を先験的に持っているからではない。先験的には、密集しすぎた群れはうっとうしいに決まっている。チンパンジーもゴリラも、そんな状態になればヒステリーを起こしてしまう。
しかし人間は、その「うっとうしさ=嘆き」を「共有」してゆく醍醐味を知ってしまった。そうやって「共有」し、さらに共有することの醍醐味を「共有」しながら、「結果」として、かくも密集した大きな群れになってしまうのだ。
スタジアムの観衆は、限度を超えて密集してあることのうっとうしさから押し出されるようにして熱狂してゆく。うっとうしさの深さのぶんだけ、ダイナミックに熱狂してゆく。
人間の集団は、根源において「嘆き」を「共有」し、そこから「共有」することのカタルシスを汲み上げながら連携してゆく。
嘆いているものたちこそ、最も深く切実に寄り添い合っている。これが、人間の集団の普遍的な基礎になっている連携のかたちなのだ。
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内田樹先生が、自身のブログの<「七人の侍」の組織論>というタイトルの記事で、「強いものが弱いものを助ける、という部分を持っているのが人間のあるべき社会のかたちである」といっておられる。
映画では、七人の侍のリーダーは、戦闘には役に立たない弱くて若い男をメンバーに加えた。この若い男をみんなで励まし助けてゆくことによってチームの志気や戦闘能力がさらにアップしたのであり、このように「強いものが弱いものを助ける」という部分を持っている集団こそ普遍的にもっともタフで生きのびる能力をそなえている、と先生はいう。
しかしこの組織論は、われわれが考える人間の連携のかたちとは違う。われわれは、「嘆き」を「共有」した弱いものどうしの関係からもっとタフで緊密な連携が生まれてくる、と考えている。
内田先生は、こういう。
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幼児や老人や病人や障害者は集団内では支援を与えることより、支援を受けることの方が多い。けれども、これらの「マイナーメンバー」を支援するときに、「自分は損をしている」というふうに考える人間には共同体に参加する資格がない。あらゆる人間はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人となり、心身に傷を負う。だから、集団のすべての構成員は時間差をともなった「私の変容態」である。それゆえに集団において他者を支援するということは、「そうであった私、そうなるはずの私、そうであったかもしれない私」を支援することに他ならない。過去の自分、未来の自分、多元宇宙における自分を支援できることを喜びとすること。そのような想像力を用いることのできない人間には共同体を形成することはできない。
申し訳ないが、コレクティブ・ハウスというコンセプトはたぶん成功しないだろうと申し上げる。それはそこに参加する人間の「現時点での利便性」にもとづいて選択された共同体だからである。そこには「歴史を貫いて維持しなければならない共同体」の統合軸がない。共同体に蓄積された資産を「次世代への贈り物」であると考えることのできない集団は短期的に崩壊する。
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まあ、ここでは何から何までどうしようもなくくだらないことをいっておられるのだが、とりあえず、家族の外の連携を模索しようとする「コレクティブ・ハウス」というコンセプトが、はたして先生のいうように人間性と離反したものであるかどうかということを考えてみたい。
<「現時点での利便性」にもとづいて選択された共同体>だなんて、またいつもの「曲解して安く見積もりながら他人を見下してゆく」というこの先生の常套的な思考態度である。
「利便性」を一義的なコンセプトにしているのなら、ほかにいくらでも方法はある。
そうじゃないのですよ、先生。これはこれで、人と人が寄り添い合って(連携して)ゆくことのできる空間とは何か、と模索されていったことの結果なのだ。
内田先生がなぜえらそげに「コレクティブ・ハウス」は成功しないというかといえば、「家族」こそ人間の理想でもっとも本性的な集団である、といいたいからだ。先生のようなインポチックな人間にとっては、「家族」以外はすべて人間性に反する空間であるらしい。
もっとも理想的な家族においては、セックスの衝動は発生しない。だから、とうぜん近親相姦も起きない。家族とは、そういうインポチック(去勢的)な空間なのだ。
インポチックな人間は家族の中でしか生きられないらしい。しかしそれのどこが理想的だというのか。あほらしい。
インポチック(去勢的)な空間では、タフで緊密な連携は生まれない。タフで緊密な連携を持たないから、成長した子供は家族という空間から巣立ってゆくことができる。
家族とは、もともとタフで緊密な連携の存在しない、崩壊する運命を持った集団である。そこは、きょうだいや親子や夫婦でけんかばかりしている集団であり、セックスの衝動の起きない集団なのだ。
人間がなぜ連携するかといえば、孤立した個体として存在することの「恐怖=嘆き」を無意識として負っているからだ。つまり、そういう「恐怖=嘆き」を温存しながらそれに耐えるトレーニングをする場として「家族」が存在する。そして、その「恐怖=嘆き」を携えて家族の外に出てゆき、他者との連携を見出してゆくのだ。
家族とは、他者との連携を実現している場ではなく、あくまで他者と連携してゆこうとする衝動を育てる場なのだ。
まあ、人間の赤ん坊がいきなりこの世界に放り出されるショックというのはとても大きいから、そういうひとまずの緩衝地帯はあってもいいのかもしれない。しかしそれは、必ずしも「家族」である必要はない。人間として生きるための、あくまで「猶予期間」の話である。そこで人間として生きているのではない。
したがって、家族の外に出て「コレクティブ・ハウス」を模索していって何が悪い、という話になる。
人間は、家族の中で育つからこそ、「コレクティブ・ハウス」を模索しようとする思いが切実になるのだ。
たとえば、この国の伝統である、「若衆宿」とか「青年団」は、一種の「コレクティブ・ハウス」である。つまり「コレクティブ・ハウス」は、そういう伝統を再構築しようとする試みであるともいえる。
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家族は、必ず崩壊する。そしてまた新しい家族をつくり、また崩壊し、というかたちで無限に繰り返してゆくのが人間ほんらいのいとなみであるかといえば、そうともいえない。その無限連鎖の中では、他者とのタフで緊密な連携は、ついに実現しない。
もともと人間は、他者とのタフで緊密な連携をつくり、一年中セックスの衝動をたぎらせている生き物なのだ。ひとまず家族の外に出てそういう連携をつくってゆくのが、人間のいとなみなのだ。
すなわち、もっともタフで緊密な連携をもった集団は、「非家族的」なのである。
ネアンデルタールの集団には、「家族」は存在しなかった。子供は集団のみんなで育てたし、フリーセックスだった。何はともあれ、そういう社会で人類史上もっともタフで緊密な連携が実現されていた。もともと熱帯種である人間が、しかもろくな文明や文化も持たない原始人の身で、氷河期の極北の地に住み着いてしまうなんて、奇跡だとしかいいようがないだろう。人間的なタフで緊密な連携の文化の基礎は、ここでつくられていった。
家族という空間をつくるのが、人間性の基礎であるのでも、生き物の本性であるのでもない。
家族は、崩壊することこそその本質であり、人間的なタフで緊密な連携はそこからはじまる。
「コレクティブ・ハウス」の原型は、おそらくネアンデルタールの社会にある。
これではまだ結論になっていないが、ひとまずそういうことだ。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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