やまとことばと原始言語 24・「コレクティブ・ハウス」2

<承前>
一般的にいわれている「コレクティブ・ハウス」とは、キッチンやリビングルームが一ヶ所で共有されている独身者用集合住宅のこと。
そこでは、ひとりで静かに本を読むことのできる部屋を確保し合いながら、誰かに会いたくなったらリビングルームにいってみんなと食事をしたりおしゃべりをしたりすることもできる。
それがモダンなつくりのマンションなら、新しいといえば新しいのだろうが、まあ昔の山奥の温泉宿なんか、だいたいこんなようなものだった。とくに雪国では、一週間も二週間も雪が降り続いて足止めを食らってしまうこともよくあるのだから、そのように手ごろな値段で長逗留ができるシステムにしないと、冬場の商売は成り立たなかった。またそれが、近在の村どうしの情報交換や連携の機会にもなった。
人と人は、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を「共有」し、止揚してゆく習性を持っている。直立二足歩行の開始以来、これが人と人の関係の基本的根源的なかたちなのだ。
コレクティブ・ハウスも、このかたちを踏襲している。このようにたがいの身体のあいだの「空間」を共有しながら連携してゆくのが、人間性の基礎なのだ。
トランプや花札やメンコや駒回しやお手玉やおはじきは、たがいの身体のあいだの「空間」を共有し止揚してゆく行為であり、コレクティブハウスも、まさにこのかたちそのままのコンセプトにほかならない。
共有された「空間」としての村のお寺や神社や集会所は、古来より祭りや連携の場になっていた。
高度経済成長のころはすっかりすたれてしまった町内会の盆踊りや祭りが、このごろまた復活してきた。
人間の集団は、たがいの身体のあいだの「空間」を「共有」し止揚してゆく。
内田樹先生は、コレクティブ・ハウスを、<そこには「歴史を貫いて維持しなければならない共同体」の統合軸がない。共同体に蓄積された資産を「次世代への贈り物」であると考えることのできない集団は短期的に崩壊する>といって批判するのだが、ちゃんと「歴史を貫いて維持しなければならない共同体の統合軸」を持っているではないか。日本列島の歴史を通じて引き継がれてきたものを、「次世代」に手渡そうとしているじゃないか。
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今年も年間の自殺者の数が3万人を越えるらしい。
死んでゆく人だけが追いつめられているのではない。みんなどこかしらで、この生から追いつめられている。
消費の意欲が衰えているのは、景気のせいばかりでもないだろう。いじめとか家族崩壊とか派遣切りとかリストラとか1億総クレーマー時代とか非婚者の増大とか、人と人の関係もギクシャクしてきている。少子化とは、全体的に性欲が衰えてきているということだろうか。まあ、それほど人々がこの社会のシステムからも追いつめられている、ということだ。
追いつめられることに耐えられないのは、自分をしっかり持っていないからか。自己実現が足りないからか。
そうではないだろう。自分にこだわっているぶんだけ追いつめられるのだし、追いつめられればなお自分が気になってしまう。
われわれはもう、自分になんかこだわっていたくないのだ。
誰かと出会ってときめきたいのだ。
われわれはもう、高度成長時代のような、どうすれば便利で快適な暮らしが出来るかとか自己実現できるかとか、そのような目的の消費衝動は薄れてきている。
どこかの大学教授が「近ごろのコレクティブ・ハウスは<利便性>だけが目的のコンセプトでつくられている」というような薄っぺらな時代認識をしておられるが、そういうことではないんだなあ。
今やもう、「利便性」や「自己実現」が目的で消費衝動が起きてくる時代ではないのだ。
自殺者が毎年3万人を超える時代状況にあって誰もがどこかしらで追いつめられているのであれば、もはや、「どうすれば生きられるのか」と問うしかない。そうして、自分のことなど忘れ、誰かと出会ってときめいていたいのだ。誰かにときめいていれば生きられる。
コレクティブ・ハウスは、そういうコンセプトで今模索されている。
もちろん、この試みが成功するという保証はない。しかしこの試みが、人々の「どうすれば生きられるか」という問いや、「誰かと出会ってときめきたい」という願いを救い上げようとするものであることは確かなのだ。
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そのようなコンセプトで今模索されているコレクティブ・ハウスを、内田先生は「申し訳ないが、コレクティブ・ハウスというコンセプトはたぶん成功しないだろうと申し上げる」とえらそげにおっしゃる。
他人がそれなりの切実さで始めようとしていることに対して、ただの部外者の身で、どうしてそんな冷水を浴びせるような物言いをしなければならないのか。
人間としての品性が卑しすぎるのだ。
それなりに批判せずにいられない悪意と事情があるとしても、ひとまずそんな物言いはつつしむのが人間として大人としてのたしなみだろう。
つまり先生だって、ついそんな悪態をついてしまうほどに、何かから追いつめられている、ということだ。
幸せぶって自慢していても、どこかしらで追いつめられているから、インポになっちまうのだ。
先生は「自尊感情」が人を生かしている、などというのだが、いまどきそんな人間観は流行らない。「自尊感情」よりも「出会いのときめき」を、というコレクティブ・ハウスのムーブメントは、内田先生の人間観を見限っている。先生は、コレクティブ・ハウスから追いつめられている。
つまり、そうやって自分にばかり執着していると、人と人の関係がギクシャクしている社会の状況から追いつめられねばならない。彼は、限られた人間としか感情を共有できないし、自尊感情などというものを捨てている異質な人間に対する悪意も抑えきれなくなる。その象徴的な体験として、内田先生は前の奥さんに逃げられた。
先生があんなにもあさましく幸せぶったり自慢ばかりしているのも、あんなにも自分の思いたいように勝手で偏頗な人間の決め付け方をするのも、そのようなかたちでこの社会から追いつめられているのだ。
先生を支持するものたちも、幸せに生きているようで、同じように追いつめられている。自分は正しく生きていると思う、そのこと自体がすでに追いつめられている。
彼らが「家族」という空間を止揚することそれ自体が、ごく少数の限られた人間としか生きられないことを物語っている。
人間は、他者の身体とのあいだに「空間」を「共有」し、祝福してゆく。内田先生は、この「空間」から追いつめられている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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