家族であれ、ネットワークであれ、そういうことの存在意義を説くこと自体がナンセンスなのだ。
存在意義にしがみつくことによって、その集団は崩壊してゆく。そのようにしてかつてのこの国は戦争に突入していったのだし、そのようにして戦後社会の家族は崩壊していった。
集団なんか鬱陶しいに決まっている。しかしそれを肯定し受け入れてゆくのも人間の自然だ。集団の存在意義を止揚するのではない。集団の無意味と鬱陶しさを共有してゆければ、集団のことなど忘れて集団の中にいられる。
何はともあれ人間は、他者との関係の中に投げ入れられて存在している。他者との関係にときめいてゆけば、集団は生まれてくる。それはもう肯定するしかない。
人間は、他の動物よりもずっと濃密に他者との関係を体験してしまう。そういう生き物はもう、集団を持ってしまうことは避けられないのだ。家族であれ、国家であれ。
しかし家族や国家に存在意義があるわけではない。
ひとは、「あなた」にときめいてさえいれば、生きられる。
家族や国民であることの意義なんか押し付けてくれるな。その集団はひとまず肯定するが、つまるところ人は、自分を確かめるために生きているのではない。快楽は、自分のことなど忘れて世界や他者にときめいてゆくことにある。
われわれは、上手に生きてゆける方法が知りたいのではない。ぎりぎりの根源のところで何が人を生かしているのかということが知りたいのだ。なんのかのといっても、男であれ女であれ、魅力的な人は、そういうレベルのタッチを持っている。
内田樹先生は、このごろだんだんそういうレベルの話ができなくなって、上手に生きてゆく方法とか俗っぽい道徳論とか政治の話とか、そんなことしか語れないところに追い詰められている。そういうことを本気で問うて生きてこなかったのだもの、とうぜんだよね。そしてそういう人間は、自分よりレベルの低い子分を集めることはできても、レヴィナスマルクスの向こうを張って前人未到の道をゆくということはもはやできない。男としても人間としても、さっぱり魅力的じゃない。
僕は最初、内田先生がこのごろそういう俗っぽいことばかり語っているのは子分を集めて気持ちよく生きてゆくためのひとまずの戦略だろうか、と思っていた。
でも、たぶんそれだけじゃない。そういうことしか語れないところに追い詰められてしまっているのだ。
60歳を過ぎればもう、自分の脳のはたらきの衰えとの追いかけっこになる。もはや、頭の回転だけで根源論を語ることはできない。そういうごまかしがきかなくなってくる。ここから先は、頭で考えるのではなく、みずからの存在そのものをかけた本能で考えるしかない。
つまり、それは自分が語っているのではなく、自分の体に棲みついた神や鬼が語っているだけだ、というレベルの言葉にならなければならない。
もともと言葉とは、そういうものだ。自分のものでも、人間のものでもない。人間が集団をつくっているその「状況」から生まれてくるのだ。言葉を紡ごうとするなら、われわれは、その「状況」に憑依してゆくしかない。
悪いけど、ただのインポおやじに、この生の根源など教えられたくはないよ。勝手に薄っぺらな道徳論や政治論を語ってろ。アホはいくらでもついてくる。
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内田先生は、「家族は家族であることそれじたいに存在意義がある」という。ありふれた言説だ。そしてこの思想こそ、家族の崩壊を招いた戦後社会のつまずきの元凶なのだ。この世の中には、そうやって「家族の価値」を止揚していこうとする人たちがいっぱいいる。
しかし、人間に集団をつくろうとする衝動などない。
この社会に家族という集団が生まれてくるような状況があれば人間はひとまずそれを受け入れるが、心を置き去りにしたそうしたスローガンだけですむはずもない。人間の集団は、人と人の自然な関係性の上に成り立っているのであって、存在意義を止揚するスローガンの上に成り立っているのではない。
人間としての魅力がなくて存在意義を押し付けるしか能がないから、それでなんとか丸めこんでしまおうとしているだけのこと。
集団の鬱陶しさは、集団を止揚してゆくことによってではなく、集団を忘れてしまう体験によって克服される。
集団は、人と人の関係の集合である。その「いまここ」の個別の人と人の関係で完結した体験ができれば、集団の鬱陶しさを忘れてしまうことができる。人間は、そういう体験をしてしまうから、どんなに大きく密集した集団もひとまず受け入れることができるのだ。
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人間は、根源において家族という集団をつくろうとしているわけではない。夫と妻とか親と子とか兄(姉)と弟(妹)とかの個別の完結した関係を体験できるならその集団の鬱陶しさは受け入れることができる、というだけである。
「家族は家族であることに存在意義がある」などといってもしょうがない。そんなことは大嘘なのだ。
現実問題として、そんな価値を信奉するだけで家族をいとなんでゆくことはできない。内田先生、あなたがどれほどそんな価値を信奉して奥さんや子供に押し付けようとしても、けっきょく二人とも逃げていったではないか。
今度こそうまくいく、てか?まあ、好きにやってくれ。人に本気でときめかれたことも自分からときめいたこともない人間が家族をいとなむためには、そういう価値にすがるしかないのだろう。
まさに現実問題として、「ときめき合う」という関係のない家族は壊れてしまうしかないのだ。そういう関係なしに人間がこの鬱陶しい家族という集団をいとなんでゆくことなんか不可能なのだ。
社会集団だって同じだ。利害関係があればひとまず維持されてゆくのだろうが、固有の関係性がなければ、けっきょく空々しかったりぎくしゃくしたりしていなければならない。
みんなが内田先生のようにそうやって鈍感でニヒルになってゆければいいが、そうはいかない。そういう人間に幻滅するものは、必ず一人や二人はいるし、腹の中ではみんなで幻滅し合いながら維持されているだけの集団はけっこう多いのだろう。
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家族の価値とか存在意義などというものにしがみついていたら、家族をいとなんでゆくことはできない。
家族なんかあってもなくてもどちらでもいい存在のものだが、あればひとまず受け入れるのが人間だ。
何はともあれ人間の集団は、個々の人と人の自然な関係性の集合として成り立っている。
田舎では、大人も子供も名前で呼び合う。それに対して都会では苗字で呼び合う。田舎の関係の方が個人的で、都会は集団の価値にとらわれている。つまり都会の人間どうしは自然な関係性が希薄であるために、かえってかんたんに「家族は家族であることそれ自体に存在意義がある」などという集団止揚のスローガンに浸されてしまうのだ。都会人が振りかざす市民意識とか公民意識といっても、しょせんはそうした関係性を持てないものたちの自己欺瞞というか方便に過ぎない。
家族であればときめき合うようにできている、ということはない。
家族の価値や存在意義を共有してゆくことによってときめき合うのではない。
家族という集団の不自然さに対する鬱陶しさを共有してゆくことによって、ときめき合うということが起きてくる。つまりそれによって家族の価値や存在意義から離れ、すべての人員が一対一の関係になってゆくときに、豊かで安定した関係性が生まれてくるのではないだろうか。
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夫と妻、父(母)と子、兄(姉)と弟(妹)、それぞれが一対一の人間どうしの関係性を持っていなければ危うい集団になってしまうし、その危うさを補うためには家族の存在意義を止揚してゆくスローガンが必要になる。。
父親づらしていたら子供に慕われない。教師づらしていたら生徒に慕われない。おおむね、そのような傾向はありそうに思える。一対一の人と人として関係を結べるかどうか。たぶん内田先生は、そういうことに失敗したのだろう。
親と子であれ、教師と生徒であれ、上司と部下であれ、立場を離れた固有の人と人の関係になっているところで安定している。
立場に固執するということは、集団の価値や存在意義に固執する、ということでもある。けっきょくそれは、相手を人として見ていない態度なのだ。集団の存在意義が第一義であるのなら、個々の人間なんか、集団を構成するための1ピースにすぎない。
人間は、目の前の「いまここ」に対して切実に豊かに憑依してゆく存在である。そういう「いまここ」の固有の関係性が集まって集団になるのであり、そういう関係性を結べなければ、集団なんか鬱陶しいばかりだ。
集団といえども、目の前の「いまここ」の固有の関係性の上に成り立っているのだ。はじめに集団があるのではない。集団できれば親と子とか教師と生徒とか上司と部下というような「立場」が生まれるが、それ以前の裸の人と人の関係性が生成していなければ、集団はけっして安定しない。
集団の存在意義などというものはない。集団は、「いまここ」の人と人の固有で自然な関係性が生成していることの「結果」として生まれてくるにすぎない。集団の存在意義を止揚したって、そうした固有で自然な関係性が生まれてくるわけではない。
固有で自然な関係性が生成していないから、集団の存在意義を止揚しなければならなくなるだけのこと。そういう関係性を結べないやつにかぎって、集団の存在意義を止揚したがる。
集団の存在意義をしたがる社会では人と人の直接的な関係性が希薄になっている。
家族の存在意義を語りたがるということそれ自体が病理なのだ。
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