人と人の関係の基本は、「一緒にいる」ことの安心や充実にあるのではない。
誰だって魅力的な人と一緒にいれば楽しいだろうが、つまらない人間と一緒なら鬱陶しいばかりだ。
人間は、「一緒にいる」ことを止揚してゆく生き物であるのではない。ヒューマニズムだかなんだか知らないが、そんな価値意識を押しつけられるのはたまらない。つまらない人間や嫌な人間と一緒にいることほど鬱陶しいこともない。
好きな相手とだって、一緒にいて鬱陶しいと思うことはある。せっかく好き合っていたのに一緒に暮らしてぶち壊しになってしまうことも多い。
一緒にいることは、根源的には鬱陶しいことだし、人間は一緒にいようとする衝動を持っている生き物でもない。
しかし同時に、一緒にいることのできない生き物でもない。
人間は、根源において、集団を肯定して(=受け入れて)いる。
原初の人類は、密集した集団の中で体をぶつけ合って行動していることの鬱陶しさから解放されるかたちとして、二本の足で立って歩くことをはじめた。鬱陶しさが極まって、鬱陶しさから押し出されるようにして二本の足で立ち上がっていったのだ。
人間は、「一緒にいること」の鬱陶しさを、ほかの動物よりもずっとよく知っている生き物である。だから、電車の中で肩がぶつかっただけですごく不愉快になる。猿は、それくらいのことは気にしない。
知らない人がそばに寄ってきただけで落ち着かなることもある。電車の座席に座るときは、誰もが少しでも体と体のあいだの「すきま」をつくり合おうとする。
人間はそれくらい一緒にいることの鬱陶しさに敏感な生き物であるが、その鬱陶しさから解放されるよろこびを発見して集団を肯定して(=受け入れて)いったのが、直立二足歩行の起源でもあった。
人間は、一緒にいることの鬱陶しさから解放されるスキルを持っている。だから、一緒にいることの鬱陶しさを引き受けてしまう。
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四本足で歩いている猿が二本の足で立ち上がれば、身体が占める横の平面がそれだけ狭くなって、体をぶつけ合わなくてもすむようになる。
そのようにして原初の人類は、その鬱陶しさから押し出されるようにして二本の足で立ち上がっていった。
このとき人類は、「じゃまだからあっちに行け」という態度を取らなかった。猿だったらそうするはずだが、それでもそうしなかったのは、そうする余裕がなかったからだろう。
誰もが体をぶつけ合っていたし、相手がぶつかってきた、と認められるような状況ではなかった。もしかしたら、誰もが「自分がぶつかっていってしまった」と思ったのかもしれない。こういうことは、体の強い弱いは関係ない。
そしてそこは孤立した小さな森だったから、追い出されてもほかに行くところがなく、誰も「ほかのところに行け」という態度をすることができなくなっていた。
みんなが「あっちに行け」といいたくなる立場で、「あっちに行け」といわれても仕方ない立場でもあった。
そういう混沌(カオス)があった。
そしてその状況を誰もが受け入れ、その状況から押し出されるように二本の足で立ち上がっていった。
立ち上がろうとしたのではない。状況にうながされて、気がついたら立ち上がっていたのだ。
四足歩行の猿が二本の足で立ち上がることは、体のバランスが不安定になって俊敏に動くことも早く走ることもできなくなるし、さらには胸・腹・性器等の急所をさらしてしまうことになり、生き物としての生き延びる能力を失うことである。したがってその選択が人類の意思によってなされたということはあり得ない。そんなつもりなどなかったけど、そういう事態が起きてしまったのだ。
そして、二本の足で立ち上がり、たがいの体のあいだに「空間=すきま」が生まれて体をぶつけ合わなくてもすむようになったとき、たがいにときめき合ったのだ。「ときめき」とは、鬱陶しさ(嘆き)からの解放感である。
人間は、限度を超えて密集した集団の中に置かれても、そこから「ときめき合う」という関係を紡いでゆくことができる存在である。
言いかえれば、そういう「解放感=ときめき」が生まれなければ集団の中にいることなんかできないのも人間である。というか、直立二足歩行する人間は、根源において、「すでに」ときめき合って存在している。
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生き物は、みずからの置かれた「状況」は受け入れる。猿は猿以外のものになろうとはしない。そのときの人類だって、猿から人間になろうとしたのではなく、猿から人間になってしまう「状況」を受け入れていっただけだ。
人間は、他者と「一緒にいる」状況を受け入れる。このことによって人間になったのだから、それはもう、そうなのだ。一緒にいたいわけではない。「一緒にいる」ことが価値であるということは、原理的に成り立たない。一緒にいることなんか鬱陶しいだけだが、そういう状況があれば受け入れる。なぜなら、根源において、「すでに」ときめき合って存在しているから。
人間は、猿よりももっと一緒にいることを鬱陶しがる存在であると同時に、猿よりももっとかんたんにその状況を受け入れてしまう存在でもある。人間は、そんな密集した状況にありながら、それでもその鬱陶しさから解放されてゆく関係の作法を持っている。それが、根源的には直立二足歩行であり、その延長として「ときめく」という「セックスアピール」の文化が生まれてきた。
人間は、鬱陶しい集団の中に置かれても、「ときめき合う」という関係をつくってゆくことができる。「ときめき合う」関係を持つことができるからこそ、鬱陶しい集団を受け入れることができる。
人間は、集団をつくりたいのではない、すでに集団の中に置かれてあるかたちで存在している生き物なのだ。だから集団を受け入れてしまうのであり、われわれの生は、ここからはじまる。人間は「すでに」この世界や他者にときめいて存在している。
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しかしまあ「一緒にいる」ということは、根源的には鬱陶しいことでもあるのだ。
この「共生」という関係=状態はすばらしいという合意を社会でつくったとしても、根源的には不自然なことだから、それなりに無理がある。いずれはほころびがあらわれてくる。
戦後の日本社会で家族や社会的な関係が壊れていったのは、まるでそれが人間関係の自然で究極であるかのような思想をでっち上げ、安直にこの合意の上に家族や社会をいとなんできたからだ。
お父さんがこの社会的合意を妻や子供に押し付けていっても、けっきょくのところ妻や子供は、人間の自然にしたがって「鬱陶しい」という思いから逃れられない。
とくに子供は、たとえ両親がそろってこの共生関係の幸せを説いても、納得しない。そのときお父さんやお母さんだって、鬱陶しさをごまかしながらその合意に執着していることをちゃんと見抜いている。子供は、お父さんやお母さんほどには社会的な合意に対する忠誠心を持っていないから、お父さんやお母さんほどには鈍感にはなれない。
「一緒にいる」ことは、鬱陶しいことなのだ。家族のひとりひとりがときめき合っていないのなら、なお鬱陶しい。
どんなに家族の存在意義を説かれても、鬱陶しいものは鬱陶しいのだ。鬱陶しいと思うのが人間の自然なのだから。
家族の崩壊を招いた戦後社会のつまずきは、けっきょく家族の存在意義に執着していったことにある。家族をないがしろにしたからではない。社会はずっと、家族は大切だと言い続けてきたのである。
とくに団塊世代は、70年代ころからのニューファミリーブームとともに、もっとも家族の存在意義に執着した世代である。存在意義に執着するだけで、そのぶん家族の中のひとりひとりの関係性はどんどん希薄になっていった。
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人間の直立二足歩行は、「一緒にいる」ことの鬱陶しさから解放される姿勢である。
それによって人類は、くっつき合っている状態から、いったん離れ合った。離れ合うための姿勢だった。
しかし戦後の日本社会の家族をはじめとする人と人の関係は、くっつき合おうとしていった。
戦争で離ればなれになってしまったことの反動だろうか。いまだに家族の存在意義というスローガンを合唱している人たちがたくさんいる。
また、社会的には、ネットワークをつくってくっつき合おうとしている人たちもいる。
どちらも同じことで、くっつき合おうとしていることに変わりはない。
人と人がくっつき合おうとするのは、不自然なことだ。
たがいの身体のあいだの「空間=すきま」をはさんで向き合っているのが、人と人の関係の自然なのだ。
「くっつき合っている」のではなく、「向き合っている」関係。原初の人類が二本の足で立ち上がることは、この関係になってときめき合うことだった。
「一緒にいる」のではなく「出会っている」関係。一緒にいながら「出会っている」関係をつくってゆく、ということだろうか。
人と人の関係の作法は、一緒にいることの鬱陶しさを消去してゆくことにあるのであって、一緒にいることの意義に満足してゆくことにあるのではない。そんなスローガンをつくっても、鬱陶しいものは鬱陶しいのだ。
スローガンだけで人間の関係や行動を決定できるわけではない。
不自然であれば、けっきょく居心地が悪くなってしまう。
家族の存在意義をスローガンにしたからといって、それだけでは家族をいとなむことができない。戦後社会の家族の崩壊が叫ばれる今、われわれはそのことを思い知らされている。
現代社会は、はじめにスローガンがあって、それに合わせて「これが自然だ」と思いこむ。
くっつき合おうとするのが人間の自然だと思いこむ。
そうして、けっきょく自然に裏切られる。
一緒にいることが鬱陶しいのは、誰だって知っている。戦後社会はそれを、スローガンによって乗り越えてゆこうとした。そこに無理があった。スローガンを信奉してその無理を通すことができる人もいれば、できない人もいる。
心の中に「自然」を抱えている子供ほど、耐えられなくなってしまう。
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原始人に比べたら、現代人ははるかに大きく密集した集団をいとなんでいる。だからそのぶんその鬱陶しさを克服しているかといえば、それはわからない。そのぶん鈍感になっているだけだともいえる。
とにかくここまで大きく密集してしまえば、集団の存在意義を止揚してゆくスローガンも必要だろう。国家は、ほとんどそのスローガンの上に成り立っている。
しかしだからこそわれわれは、町や村やさらに小さな単位での「出会いのときめき」すなわち人と人の自然な関係性が生まれる「サークル集団」をつくってゆく習性を持っている。
家族は、ほんらい、国家とは異質なもっとも小さな単位の「サークル集団」のはずである。まあそれは、現代社会における人と人の自然な関係性を守ることのできる最後の砦だともいえる。
人類の歴史は、はじめに家族があったのではない。社会集団が大きくなりすぎて人と人の自然な関係性が希薄になり、あげくの果てにはスローガンだけで結束してゆくようになっていったために、人と人の自然な関係性が生まれる単位として家族集団が生まれていったのだ。
社会集団そのものが自然な人と人の関係性の上に成り立っていたネアンデルタール人クロマニヨン人は、家族など持たなかった。持つ必要がなかった。
そして自然な人と人の関係性においては、集団の存在意義を止揚するスローガンを持たない。なぜならそれは、つくろうとしてつくられている集団ではなく、「すでに存在している」集団だからだ。
だから家族は、仲よくても仲よくしようとはしないし、平気で喧嘩もする。
戦後社会の家族や人と人の関係は、この安定感を失った。誰もが、スローガンのもとに仲よくしようとしているだけである。スローガンを失えば、たちまち崩壊する関係の集団ばかりになっていった。
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ネアンデルタール人は、仲よくしようとなんかしなかった。それは、つくろうとしてつくられた集団ではなかった。また彼らは、住みよい土地を目指してそこにやってきたのではない。氷河期の北ヨーロッパが住みよい土地であるはずがない。何はともあれ、気がついたらここに来てしまっていて、気がついたら集団になってしまっていただけである。そういう「結果」としての「いまここ」を受け入れることを共有しながら集団が成り立っていた。
「すでに」仲がよいのだから、仲よくしようとする必要なんかない。はた目に仲が良いように見えるだけで、本人たちは仲よくしようとなんかしていない。会っても、べつにうれしそうな顔をするわけでもない。「すでに」仲がよいのだから、する必要がない。
「すでに仲がよい」とは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」がつくられている、ということだ。原初の人類は、二本の足で立ち上がってこの状態になったとき、はじめて仲のよい関係になった。
仲よくしようとしない関係が、仲のよい関係なのだ。すでに仲がよいのだから、相手が自分のことをどう思っているかということなど気にしていない。それは、すでにたがいの身体のあいだに「空間=すきま」がつくられている、ということだ。
それに対して現代人が仲良くしようとしているということは、くっつき合おうとしているということだ。そうして、相手が自分のことをどう思っているかということをとても気にするし、敏感にもなっている。それは、「空間=すきま」を失った関係である。
そのあげくに近ごろの「クレーマー」という現象も起きてくるし、若者がせっかく入った会社に長くいられないという傾向にもなってきている。
けっきょく、集団の存在意義を止揚するというスローガンに縛られて「空間=すきま」を失ってしまっているのだ。
家族であれ会社であれ、現代は集団の存在意義を失っているのではない、存在意義を振りかざすということが不自然であり、集団をより鬱陶しいものにしてしまっているのだ。
内田樹先生みたいに、家族の存在意義を振りかざしたあげくに女房子供に愛想を尽かされるということはきっと、この広い世間ではけっして珍しいことでもあるまい。現代社会に生きているかぎり、誰だって明日は我が身に起こることかもしれない。
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