このところとりとめのないことばかり書いてしまっている。
それでも読んでくれている人がいるのだから、ありがたいと思う。
直立二足歩行やネアンデルタール人のことはひとまず古人類学の問題だが、つまるところ僕は、人間の自然について考えたいのだ。このことにつまずいてあっちに行ったりこっちに行ったりしてしまっている。
作為的にいい社会をつくっても、けっきょくは人間の自然に沿って落ち着くところに落ち着く。たとえその行き着く先がひどい世の中であったとしても、それはもうしょうがないことだ。どんな作為も、最後には自然に裏切られる。
個人の人生だって同じだ。誰もが素晴らしい人生や幸せな人生を生きたいと思うが、おおかたはその通りにはならない。そのための努力を最大限に払えればいいのだが、そうはいかない。われわれはけっきょく、人間の自然に引きずられて生きてしまう。
安きに流れてしまうのなら、安きに流れるのが人間の自然だからだ。
こうすればいい社会になるとか、こうすればいい生き方ができるとか、そういう思考が僕は嫌いだ。
いい生き方をしなければならないわけでもなかろう。誰だって、目の前の「いまここ」しかない。ひどい生き方をしているのなら、それを嘆けばいいだけだ。それが自然だ。
ひどい生き方をしているくせに「これでいいのだ」と居直るのは不自然だろう。
嘆いているのなら、それは自然なことであり、確かな「いまここ」を生きているといえる。
ひどい生き方をしているくせに嘆くことができないのなら、それは不自然なことであり、「いまここ」を喪失していることになる。
人間は、「いまここ」に憑依してゆく存在である。
死を知ってしまった人間ほど「いまここ」に対して切実な存在もない。このことがわれわれを生きにくくさせていると同時に、このことによって生きてあることのカタルシスがもたらされてもいる。
魅力的な人は「いまここ」に対する感覚がクリアだし、感動するとは「いまここ」がクリアになる体験のことだ。
「いまここ」を嘆くとき、「いまここ」は確かな手触りを持って目の前に立ち現われている。
意識は、嘆くことによって「いまここ」に立たされる。熱いとか寒いとか、痛いとか苦しいとか、空腹であるとか、意識は生きてあることに対する「違和感」として発生する。
違和感という嘆きこそ、意識の根源的なはたらきである。
だから人は、どうしても嘆くような生き方をしてしまう。嘆いているときこそ、確かな「いまここ」の実感があり、確かな生きた心地がある。
人は、嘆くことによって、生きてあることを知らされる。
だからわれわれは、ひどい生き方をしてしまう。
もっといい生き方をしたいと思うことだって、そうやって嘆きながら「いまここ」を確かめている態度にほかならない。
「いまここ」の確かさは、「嘆き」の中にある。
だから、もっといい生き方ができるはずなのに、もっといい生き方をしたいと願うだけのひどい生き方しかできない。
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ひどい生き方でも、本人がそれでよくってそれが幸せだと思っているなら、それでいいんじゃないの……という意見がある。ときどき聞くよね。
自分を大切に、自分を可愛がって生きていこうという世代……団塊世代は、けっこうこういう人種が多い。終戦直後というのは、そういう人種が生まれ育ってくる時代だったのだろう。大人たちは、「お国のために」といってみんなが戦争に参加していった時代の反省として、子供たちを、国よりも自分を可愛がる人間になるように育てていったのかもしれない。子供だって、そのようにふるまえば許されほめられるという意識で成長していった。
内田樹先生などは、みごとにこの世代の意識を代表している一人である。先生が、「世のため人のため」というとき、「みんなが自分を大切にして自分を可愛がって生きてゆける社会」をつくってゆこう、ということだ。
この国の戦後は、まさにそのようにしてはじまったのだ。みんながそういう社会をつくろうとしていった。だから、団塊世代は、とても社会意識が旺盛である。「世のため人のため」と「自分を大切にして自分を可愛がって生きてゆくこと」がセットになっている世代である。
団塊世代は、社会的であると同時に、排他的というか自己中心的でもある。彼らは、大きな塊だったから、上の世代とも下の世代とも遊んでこなかった。放課後に、同じクラスの仲間だけで野球の試合をして遊ぶことができた。みんなが社会的だから、そうやってまとまってゆく能力もあった。
だから、すぐ下の世代は、団塊世代のそうした社会意識にも自分たちの世代だけでかたまりたがる排他性にも反発した。彼らは、「無気力世代」だとか「しらけ世代」などといわれた。まあ、団塊世代とは水と油である。
団塊世代の「自分を大切にして自分を可愛がる」傾向は、現在の40歳前後のアラフォー世代に引き継がれている。彼らは、団塊世代とは歳が離れすぎていたからその排他性の被害を受けていない。むしろ団塊世代にあこがれている。そして、すぐ上の世代のしらけた気分も引き継いでいるから、社会を変革しようなどという気分もなく、ひたすら「自分を大切にして自分を可愛がる」ことに夢中になれる。
まあ、団塊世代もアラフォー世代も「自分を大切にして自分を可愛がる」生き方に熱心な世代である。彼らには、「不満」はあっても「嘆き」はない。そういう世代なのだ。内田先生だって、いろいろ社会やほかの世代に対する「不満」を並べ立てても、自分に対する「嘆き」などさらさらない。ただのみっともないインポおやじのくせにさ、自分のそういう部分にはあくまで知らんぷりして人格者ぶっておられる。そうやって自分を大切にし、自分を可愛がって生きておられる。
自分を「幸せだ」と思うことに熱心な世代なのだ。自分の価値を追求する世代、というのか。
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内田先生だって、女房子供に幻滅され逃げられた人生を生きてきたのに、ひどい人生だったとも自分がつまらない人間だとも思っていない。
そう思わないことは、自然だろうか。思わないですませたいらしいが、すむのだろうか。自分自身の心の奥ではすむはずもないのだが、自分はすぐれた人間だとプレゼンテーションしてゆけば世間からはそう思ってもらえるし、表面的にはひとまずその気になれる。
そんなの不自然だとわれわれが思っても、先生にとっては自分を大切にして自分を可愛がって生きてゆくのが人間の自然だと思っておられるから、先生の中では何の矛盾もない。
しょうもない男が何をかっこつけたことをほざいてやがる、とわれわれが言っても、先生にすれば「そんなのは負け犬の遠吠えだ」と一蹴できるし、世間も先生に同意する。
しかしそれでも、この広い世間には、先生と同じように女房子供に逃げられた男はいくらでもいるし、その人たちの中には、「ひどい人生だった」とか「自分なんかつまらない人間だ」と思っている人がいる。
そう思うことは、よくないことだろうか。不自然なことだろうか。そう思う人の方が、自分が生きてきた時間や場所にちゃんと向き合っているし、より確かに生きたといえるのではないだろうか。
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自分が生きていることとか、自分がこの世に生まれてきたこととか、なんかひどいもんだなあ、と思うのは不自然なことだろうか。
人間が生きてあることには、そう思うほかないような側面はないだろうか。そう思うほかないような側面があるからそう思うのは、生きてあることをちゃんと味わっている、ということにはならないだろうか。
おそらく原始人や古代人は、そう思っていた。人間はそう思うほかないような存在の仕方をさせられているし、彼らはわれわれ現代人よりはずっと生きてあることに率直だったはずだ。
生きてあることに率直ならそう思うほかないような存在の仕方を、われわれはさせられているのではないだろうか。
そしてそう思うことが、生きてあることを味わうということではないだろうか。
僕はまあ、そう思う人の方が、つまりそうやって嘆きつつ生きている人の方が、より豊かな心やより優れた知性やより鮮やかな感受性を持っている、と考えている。このブログは、つねにそういうスタンスで語っているつもりだ。
生きてあることの嘆きを地下水脈として持っていなければ、この世界に対する発見も感動も薄っぺらなものになってしまう。
内田先生を眺めていて、僕はつくづくそう思うのだ。
内田先生だって、心の底には、俺の人生はひどいものだったという思いはないわけではないにちがいない。ないわけではないが、見て見ぬふりをつらぬき通そうとしている。だから、その論理や思想が薄っぺらのものになってしまっている。
この世界の真実よりも自分が満足することの方が大切であるのなら、そうなるしかない。
団塊世代の論理や思想なんて、内田先生だけじゃなく、おおむねそんなところだよね。
まあ、内田先生よりはネアンデルタール人の方がずっと生きてあることに率直だったし、生きてあることの真実を味わいつくしていたはずだ。われわれはもう原始時代に戻れはしないが、そこから学ぶことはある。
女にさっぱりもてないのなら、セックスアピールとは何だろうと思うこともあるだろう。しかし、セックスアピールを持とうとすることほど野暮で色気のない態度もない。セックスアピールなんか、持とうとするものではない。われわれにできることは、他者に対してセックスアピールを感じることができるだけだ。
ネアンデルタール人は、誰もセックスアピールなんか持とうとしていなかった。しかし誰もが他者に対してセックスアピールを感じていた。
さあ、どうする?
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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