人と人が親密に関係するとき、「この世界にあなたが存在すること」に対する癒しや希望がはたらいている。どんなにくだらないことを語り合っていても、どこかしらでそのように心が響き合っている。
しかしまあ、世の中が平和で豊かになれば、そういうせっぱつまったところでの心の響き合いが薄れてきて、退屈してくる。その退屈を紛らわそうとして、競争だの何だのというややこしい人間関係が生まれてくる。
そうして、根源的な位相での心の響き合いを喪失しているから、人間本来の「正面から向き合う」という関係のかたちが歪んできて、たとえば「競争」という関係のように、横並びになって関係してゆく、というかたちになってくる。
現代社会は横並びの競争や仲よしこよしの関係はおおいに盛んだが、人と人が正面から向き合うという関係の位相が希薄になってしまっている。
共同体の制度は、人と人を横並びにさせるシステムである。これによって社会は平和と豊かさを獲得し、戦争もする。そうして人々は、正面から向き合う関係に立つ能力を喪失してゆく。
人と人が正面から向き合うトレーニングを喪失している社会だから、たとえば新入社員がノイローゼになるとか、人間関係によるさまざまな心身症が起きてくる。
「人間関係が充実している」といっても、現代人のそんな自慢は、横並びの人間関係ばかりだったりする。そうして、妻や子供と正面から向き合う関係からはひたすら逃げまくっていたりする。
人付き合いがよくて人間関係が充実しているはずの人が、女房子供に背かれたり逃げられたりする。
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現代社会では、正面から向き合う人と人の関係が希薄になっている。
一緒にこの社会の「正義=制度」を共有しているのは、横並びの関係である。正面から向き合って心と心が響き合っている関係ではない。
しかしそれによってたがいに生きてあることのよろこびを共有し確認し合っているのなら、正面から向き合っているともいえる。ただそれは、第一義的には、「この世にあなたが存在すること」のよろこびではなく、「この世に正義=制度が存在すること」のよろこびである。
直接的に「この世にあなたが存在すること」それ自体によろこんでいるのではない。「この世にあなたが存在すること」のよろこびを共有しているわけではない。共有していたとしても、それは二義的であり、希薄である。「正義=制度」を共有できるのなら、相手は誰でもいいのだ。「あなた」でなくてもかまわない。
だが、家に帰れば、妻や子は、固有の「あなた」が存在することそれ自体と向き合う関係を要求してくる。それができなければ家族生活なんか成り立たない、と。
そこでお父さんは、「あなたが存在すること」よりも、「家族が存在すること」の「正義=制度」を共有できればそれですべては解決されるのだ、とみずからを納得させてゆく。
多くの現代の大人たちは、そんなことばかりして、「この世にあなたが存在すること」それ自体と向き合うことができなくなってしまっている。
まあそれで、結婚したいのに結婚できない、という若者も増えてきているのかもしれない。あなたの収入や容姿や性格にこだわるばかりで「あなた」の存在そのものに反応することができなければ、そうかんたんには結婚できない。結婚なんて、しょせんは浅はかな選択なのだ。しかし、浅はかな選択ができないことが、現代人が、正面から人と向き合うことができなくて病んでいる証拠なのだ。
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意識は、「いまここ」でこの生を完結させようとする。したがって、避けがたく浅はかな選択だってしてしまうのが本来的な意識のはたらきなのである。ネアンデルタール人だって、そうやって地球上でもっとも住みにくい土地であるはずの氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったのだ。
現在の人類が地球の隅々まで住み着いているというのは、そういうことなのである。
ネアンデルタール人は、氷河期の北ヨーロッパと結婚した。彼らのその過酷な生存は、人と人が正面から向き合うという文化によって支えられていた。そこから「抱きしめ合う」という文化が生まれてきた。それだけではない、火の使用をはじめたことにしろ、体毛が抜けていったことにしろ、言葉が発達したことにしろ、埋葬をはじめたことにしろ、すべては「正面から向き合う」という関係から生まれてきた文化なのだ。
それに対して現代人は、横並びの関係を止揚してゆくことによって、平和や繁栄を獲得し、そのあげくにみんなが退屈してしまうようになった。人間として正面から向き合うという関係をつくれないのなら、退屈するに決まっている。
正面から向き合うとは、「いまここ」でこの生を完結させる、という関係のことだ。そういう関係を持てないで意識が「いまここ」の外のあちこちをさまよっているから退屈する。そうして、「あの世」だの「お化け」だのという迷信を紡ぎ出したり、「悟りをひらく」だの「幸せになる」などといいながら「予測」だの「計画性」だのという未来意識を止揚している。
退屈しているから、退屈から逃れようと勤勉に働く。勤勉に働くこと自体が、退屈している証拠なのだ。
そして、退屈しているから戦争をしたくなる。
これは、平和か戦争かという問題ではない。社会の「正義=制度」を止揚して横並びの関係をつくってゆけば平和や豊かさを実現できるし戦争だってしたくなる、ということ。
横並びの関係をつくってそれに浸ってしまえば、人は退屈し、正面から向き合うという関係に対する耐性を失ってゆく。
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正面から向き合うことができないのなら、人を本気で好きになることも好きになられるということもないだろう。その人が魅力的であるかどうかの差は、そこにあらわれていたりする。
近ごろは、自分の魅力をプレゼンテーションすることばかり熱心で、本気で相手(の魅力)に関心を向けてゆくということができない人が多い。そういう人が、ほんとに魅力的だろうか。
いいかえれば、人と人が恋に落ちるとき、その容姿や収入や性格が愛されているのではない。たがいに正面から向き合い、たがいの存在そのものにときめき合っているのだ。
正面から向き合うことができないから、人を傷つけていることに気づかないし、傷つけられることに耐えられない。
戦後の日本は、人と人が正面から向き合う文化を失っていった。と同時に、それによって横並びで競争したり団結したりする関係を止揚しながら高度経済成長を果たしてきた。
それでも人間であるかぎり、他者と「正面から向き合う」という関係性からは誰も逃れられない。なぜならそれが、二本の足で立っていることの基本的な関係だからだ。
どんな間柄であれ、人間と人間であるかぎり、どこかしらにその関係がはたらいている。それが問題だ。どんなに人づき合いがよくて人間関係が充実している人格者だって、女房に逃げられたり子供に背かれたりしないとはかぎらないし、彼自身が知らず知らず病んでゆくということも起きてくるのだ。
そういう病理が、ここに来てあらわれてきているのではないだろうか。高度経済成長のころはその横並びの勢いだけで突っ走ることができたが、そのために「正面から向き合う」という根源的な関係性を大きく失ってしまったのではないだろうか。
だから、いまどきは魅力的な大人がいない。
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