いまどきは「いかに生きるべきか」というハウツー本ばかり流行っている。よほどみんな退屈しているのだろう。
「生きられるかどうか」と追いつめられていたら、そんなことを考えている暇はない。
近代は、そういう退屈している人種を数多く生み出した。頭がいいからそんなことを考えるのではない。よかろうと悪かろうと、「自分」をまさぐることにこだわっていれば、世界や他者に対する反応する心の動きが希薄になって退屈し、そのあげくにこの生や世界に対して作為的になってゆく。
退屈しているとは、人の心が作為的になることであり、だからハウツー本が流行る。動きまわっていても心は退屈しているし、退屈しているから「お化け」や「あの世」を捏造して大騒ぎしている。いまどきはそういう世の中であるらしい。
人間が作為的になったり退屈することに、頭のいい悪いは関係ない。
頭悪いくせにそんなことばかり考えている人間はいくらでもいる。
頭がよくても、そんなことは考えない人間もたくさんいる。
頭がいいからではなく、退屈しているから、そんなことを考えてしまうのだ。その「いかに生きるべきか」ということのレベルや様相が人さまざまである、というだけのこと。形而上の悟りだろうと金の問題だろうと、ようするに生きることに退屈しているからそんなことを考えるのだ。
生き物には生きようとする衝動(本能)があって生きるのが当たり前だと思っている、と誰もが思っている世の中だ。それが真理だと思うのなら、とうぜん「いかに生きるべきか」という問題も起きてくる。
まあそういうことを考えようと考えるまいと、人は、この世に生まれてきてしまったという事実に追い詰められて存在しているのだ。
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「いかに生きるべきか」というテーマで動いている世の中で、それが人間であることの証しであると合意されている世の中であるらしい。
誰もが、自分やこの生を正当化したがっている。正当化するために、「いかに生きるべきか」と問う。
「生きられるかどうか」という問題など、とっくに解決してしまっているつもりらしい。
かつてのヨーロッパの王侯貴族は、「生きられるかどうか」という問題はすでに解決していた。彼らはそこで「退屈」を発見し、「いかに生きるべきか」という問題を考えるようになっていった。
いや、氷河期が明けて1万年前以降の人類が戦争をはじめたことだって、生きてあることの「退屈」を発見したからかもしれない。
氷河期の人類は、けんめいに「生きられるかどうか」というテーマで生きていた。
氷河期が明けて環境が良くなり、文明が進歩し、もうそんな切羽つまった生き方をしなくてもよくなった。そうして、「退屈」を発見したのかもしれない。
彼らにとって「いかに死ぬべきか」というテーマは、そのまま「いかに生きるべきか」というテーマでもあった。
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たとえば貧乏になったり病気をしたり失恋をしたりすれば、誰だって「生きられるかどうか」という問題と出会うだろう。人は、そこではじめて人間的な存在になる。そうして、この世界や他者の存在が心にしみて感じられたりするようになる。そうやって豊かに「反応」する心の動きを持つようになる。
「退屈している」とは、そういう「反応」を失っている状態にほかならない。
「反応」を失って、「いかに生きるべきか」と考えはじめる。
まあ大人になるということはそういう豊かな「反応」を失ってゆくことであり、人類は、氷河期が明けて寿命が延びたことによって、「退屈」を発見したのかもしれない。
氷河期の人類は、大人になる前に死んでいった。
現代は「大人」という人種がリードする社会だから、誰もが彼らに引っ張られて、自分が今生きてあることに「反応」するよりも、生きてあることをつくってゆこうとすることが人間本来の生きてあることのかたちであるかのように合意されてしまっている。
大人たちは、豊かな「反応」を失っているから、生きてあることをつくってゆこうとする。そして現代社会には家族という閉じられた空間があって、そこで子供が育てられるから、子供のうちから退屈して「いかに生きるべきか」というテーマを持つようになってゆく。
塾帰りの子供にインタビューするテレビの番組で、「一流大学に入って一流会社に就職しないといい人生は送れない」と平気で発言する子供がいるのには驚かされる。彼はすでに、生きることに退屈してしまっている。
そうやってこの社会は、大人と子供が結託してゆくのだろうか。
大人になんかなってしまったらおしまいなのに。
しかし、そうかんたんに子供を大人の世界に引きずり込んでしまうことはできない、という現実もたしかにある。
子供を大人にしてしまうことに失敗した親や、大人になることに失敗した子供は、いくらでもいる。
この世界や他者に豊かに反応していれば、「いかに生きるべきか」ということを考えている余裕はない。だから、大人になることができない子供たちの群れが生まれてくるのだし、大人になれない大人だっている。
大人になることができないのは、それだけ豊かにこの世界や他者に「反応」して生きているからであり、「反応」してしまうから生きることがしんどいものにもなる。そうして「生きられるかどうか」と問う。
もっとも近ごろでは、「若者ぶる」というかたちで人生をつくっている作為的な大人たちも少なからずいる。それだってまあ、「退屈」している証拠だろう。大人であることに退屈している。
大人であることは、人間の最終的なアイデンティティにはなり得ない。
なんのかのといっても人間は、この生の通奏低音として「生きられるかどうか」という問題を抱えている。「いかに生きるべきか」とか「生き延びられるかどうか」などという問題にかかわっている余裕のない部分を、誰もがどこかしらに抱えてしまっているのだ。人間だって生き物だから。
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「生きられるかどうか」と問うたものが、新しい文化を生み出すのだ。新しい文化は、つねにこの問いを携えてあらわれてくる。
「生きられるかどうか」と問うことが、「この世に生まれてきてしまった」という事実を克服していることなのだ。「いかに生きるべきか」と問うことなんかその事実から追い詰められているだけのことであり、そんなことの答えを見つけても何の解決にもならない。そんなことの答えとして人は「天国」や「お化け」を捏造してしまうのだ。
また、生き延びようとして新しい文化が生まれてくるのではない。
文化とは、この生やこの世界を「いまここ」で完結させる作法なのだ。そしてそれが、生き物の生の衝動の根源のかたちなのだ。
この生が「いまここ」で完結する「癒される」という体験があるのなら、ひとまず人は生きられる。
学問も芸術も、つまるところそういう体験として生まれてきた。恋やセックスの契機だって、そう違いはないだろう。
この世界にあなたがいて私がいるという関係は、「癒される」という体験があって初めて成り立つ。
われわれは、そういう「いまここ」の完結性において他者と関係を切り結んでゆくことができるか。
「癒される」という体験だって、真剣勝負なのだ。それは、この世にあなたが存在するということに「ときめく」という体験だ。それは、「いかに生きるべきか」と自分をまさぐっているだけの人間のところにはやってこない。
あなたにときめくためには、「意識が自分から離れてゆく」という契機がなければならない。その契機として人間は、根源的に、生きてあることの「嘆き」とともに存在させられている。人間にとって二本の足で立って歩くということは、その不安定で危険な姿勢の「居心地の悪さ=嘆き」とともに生きる、ということであり、そういう契機を持っているから人は「癒される」という体験をする。
「癒される」とは、この世に生まれてきてしまったという事実に追い詰められている「自分」にこだわる意識が消えてゆく体験のこと。人は、そういうかたちでその事実を解決しているのであって、「いかに生きるべきか」ということの答えによってではない。そうやって「自分」をまさぐり続けても、なんの解決にもならない。
「欲望」があるのではない、「契機」があるのだ。「いかに生きるべきか」という「欲望」を持っている人間が「癒される」という体験をするのではない。それは、生きてあることの「嘆き」という「契機」を持っているものによって体験されるのだ。
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氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったネアンデルタール人は、この「癒される」べき「契機」を持っていた。
そこには、生きてあることに対する深い「嘆き」があった。
彼らにも、形而上的な哲学があった。しかしそれは、「いかに生きるべきか」ということではなく、もっと根源的で切羽詰まった「生きられるかどうか」という問いだった。
ただ動物的に衣食住のことだけを考えて生きていたのではない。自分がこの世界に生まれてきてしまったことや、この世界に他者が存在することの意味を考えるほかない生存の条件のもとに置かれていた。
彼らの世界では、せっかく生まれてきても、成人になるまで生き残ることができるのは、おそらく3人に1人くらいだった。だったら、誰もが否応なく、生まれてくるとはどういうことかとか、死んでゆくとはどういうことかと問わずにいられなかったにちがいない。
そして彼らが抱きしめ合って寝ることによって凍死することから免れていたとすれば、それは、誰もが他者(の身体)によって生かされていた、ということを意味する。
そのような暮らしの中で彼らは「生きられるかどうか」と問うていたのであり、問うていたから、火の使用や言葉の発達や埋葬といった文化が生まれてきたのだ。衣食住という経済の問題だけでそれらの文化が生まれ育ってくるはずがない。どいつもこいつも、衣食住(経済)の問題を問えば、人間について深く考えているつもりでいやがる。それだけで「人間とは何か」という問題の答えが出るつもりでいやがる。
そうじゃない。
彼らはつねに、哲学的形而上学的に「生きられるかどうか」と問うていたのだ。
そうして、衣食住(経済)のこと以上に「癒される」体験がなければ人は生きられない、ということを彼らほど切実に感じていた人々もいないのだ。彼らの生きてあることの「嘆き」は、それほどに深かった。
「生きられるかどうか」という問いに関しては、われわれ現代人よりもネアンデルタール人の方がはるかに切実で深かったのであり、これこそが人間の根源的な問いなのだ。
「いかに生きるべきか」と問うことではない。そんな問いは、世界や他者に対する「反応」を失って退屈しているところから生まれてくるだけのこと。
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われわれだって、生きてあることにほっとする瞬間は必要だろう。それがうまいものを食うことであれ、芸術を鑑賞することであれ、好きな人と会うことであれ、ペットをかわいがることであれ、そのとき人は切羽詰まって「生きられるかどうか」と問うているのだ。意地汚く「いかに生きるべきか」と問うているのではない。
まあ、いまどき流行りの「癒し」という言葉は、何か感傷的な響きで、人間の根源を問うてゆくには似つかわしくない言葉かもしれない。だから、たんなる時代の一過性の気分のようにとらえられがちだ。
しかしたぶん、それだけではすまない。この言葉はたしかに、人間性の根源と関わっている。そこを問いつめたくて、このブログはなかなか次のステップに進めないでいる。もう少し考えてみたい。
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