1万3千年前の氷河期明け以降の人類は、「いかに生きるべきか」という観念的な問いとともに歴史を歩んできた。そこから共同体(国家)という制度が生まれ、発展してきた。そうして、原初的身体的な「生きられるかどうか」と問う文化を置き去りにしてきたのだが、しかしその文化はすっかり忘れられたということではなく、いぜんとして無意識の底で今なおはたらき続けている。
「生きられるかどうか」と問うところにこそ、人間性の基礎がある。
   1・「癒される」という体験
人間は、猿よりももっと喜怒哀楽の表情がはっきりしている。「癒される」体験に対する切実さが、人間の表情の豊かさを育てた。「癒される」体験をすることによろこんだり楽しんだりし、「癒される」体験がないことに怒ったり悲しんだりして、それが表情にあらわれる。
最初は、その喜怒哀楽を伝えようとしたのではない。知らず知らずそれがあらわれる表情になってゆき、他者がそれに気づくようになっていった。伝えようとする態度や心の動きが生まれてきたのは、そのあとのことである。
言葉の起源だって同じだ。知らず知らず発せられる言葉が生まれてきたから、それを伝達の道具にしようとするようになってきただけのこと。伝達しようとして言葉が生まれてきたのではない。言葉が存在したから、言葉が伝達の道具になることに気づいていっただけのこと。このへんのところを、世の凡庸な歴史家はなんにもわかっていない。伝達の道具として言葉が生まれてきた、ということは、言葉が生まれる前から言葉があった、といっているのと同じなのである。
言葉を発することによって癒される体験があったのだ。この世界やこの身体の現象に気づき、思わず言葉=音声がこぼれ出る。それによってその気づくという感慨の着地点が得られる。つまりそれによって、この生が完結するという癒される体験になった。この「癒される体験」として言葉は生まれ育ってゆき、その結果として伝達の道具になっていっただけのこと。
「癒される」という体験が、言葉を産み育てるのだ。これは、現代においても同じである。それによって癒される体験がその人の言葉になってゆくのであって、その言葉を伝達のための道具にしようとしてその言葉を覚えるのではない。覚えるからには、愛着するという体験があったからだ。そんなこと当たり前じゃないか。
魅力的な言葉の表現とは、その言葉に癒される体験を発信者と共有してゆくことにある。
「癒される」とは、この生が完結する、という体験のこと。新しい文化は、そのようにして生まれてくる。
人間が他者と関係する生き物だということは、伝達しようとする衝動を先験的に持っているということを意味するのではない、先験的に他者に反応し「癒される」体験をしているということを意味しているのだ。
関係することの根源は、伝達することではなく、他者の存在そのものに「反応」することにある。
言葉も人間の表情や身振り手振りも、根源的には世界に対する「反応」であり、根源的には「生きられるかどうか」と問うところで機能しているのだ。
だからこそ人は「癒される」という体験をするのであり、人間社会の結束のダイナミズムもそこから生まれてくる。
つまり、人間にとって結束することは、「伝達する」という「仕事」などではなく、他者に「反応」して快楽をくみ上げてゆく「遊び」だということ。
まあこの資本主義社会では、遊びを知らない仕事一途の人間が勝者になり、遊び心があるものは敗者になるようにできているらしい。
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   2・弱者になるということ
西洋人が喜怒哀楽の表情が豊かだとすれば、それだけ彼らは「癒される」という体験が切実な歴史を生きてきたからだろう。
この「癒される」という体験によってネアンデルタール人の言葉が発達してきたのであって、伝達しようとする衝動によってではない。
氷河期の北ヨーロッパという想像を絶する過酷な環境を生きたネアンデルタール=クロマニヨン人にとって「癒される」という体験がどれほど切実だったかということは、われわれ現代人のお気楽な暮らしの物差しでは測れない。
多くの古人類学の研究者たちは、そういうことを考えてみようともしない。彼らによる、いかにも現代的・制度的な「予測」や「計画性」の知能によってネアンデルタール=クロマニヨン人は生き延びていったというその底の浅い思考態度には、ほんとにうんざりさせられる。
すなわち、強者としての「いかに生きるべきか」という方法論・技術論が彼らを生かしていたのではない、弱者として「生きられるかどうか」と問うて癒されてゆく体験が彼らを生かしていたのだ。
人間は、生きることの基層に「癒される」という体験を持っているから、喜怒哀楽の表情がはっきりしてきた。
根源的には、癒されたいという欲望があるのではない、癒されてしまうような悲劇的な存在の仕方を先験的な「契機」として持っているのだ。
もしも先験的に癒されたいという欲望があるなら、住みよいところに住んで平穏な暮らしをしながらその「欲望」を紡いでいけばいい。しかしそんなところに住んで「嘆き」がないのなら、とうぜん癒されることもない。
人は避けがたくそういう体験をしてしまう先験的な「契機」を持っているのであり、それによって原初の人類は、地球上の住みにくいところ住みにくいところへと拡散していった。
癒される体験は、弱者、すなわち「嘆き」とともに生きてあるものにもたらされる。そしてすべての人間が、弱者として存在している。これが、二本の足で立っている人間の根源的な存在のかたちなのだ。
原初の人類は、まるであえて弱者として存在することを選択するかのように、住みにくい土地住みにくい土地へと拡散していった。この事実は、どうしても考えさせられてしまう。
この世に弱者が存在することは避けられない。なぜなら人間はみずからが弱者であろうとしてしまう存在だからであり、それによって「癒される」という体験が生きてあることのカタルシスになっている。人類の歴史は、直立二足歩行の開始のときから、すでにそのようにして動いてきた。人間は、二本の足で立ち上がることによって、弱者として生きようとする存在になった。
弱者になるとは、他者を排除する能力も意思もない存在になる、ということだ。そうやって人間の集団は、際限もなく大きくふくらんでゆく。
5万年前の氷河期の地球上で北ヨーロッパネアンデルタールがもっとも大きな集団をつくっていたとすれば、それは彼らがもっとも「弱者」として生きていたということだ。
人間が大きな集団をつくる生き物だということは、「弱者」として生きる存在である、ということを意味する。
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   3・結束する生き物
人間社会は、誰もが弱者になってゆくことによって結束してゆく。つまり、弱いものどうしが助け合うというところに人間社会の結束のダイナミズムが生まれるのであって、強い者が弱い者を助けることによってではない。
現在、強いものが弱いものを助けるという思想で動いているアメリカ社会が世界でもっとも結束のダイナミズムが起きている国だともいえないだろう。起きているのなら、アメリカにホームレスなんかいないし、人殺しもない。
結束のダイナミズムを持てない国だから、銃をなくすことができないのだ。
アメリカが結束するのは、いつだってよその国と戦争をするときだ。戦争をすれば、命が危険にさらされる。そうやって命の危険にさらされた「弱者」になることによって結束してゆく。命が危険にさらされている、というかたちでしか結束できない社会だから、そういう前提で誰もが銃を持つ社会になっているし、彼らは命が危険にさらされるパニック映画が異常に好きだ。
人は、「弱者=敗者」として生きようとする無意識を持っている。だから、どんなに「健全な競争社会」を唱えても、それ自体が不自然なことであり、それによって人の心は病んでゆくのだ。
けっきょく人間社会の結束のダイナミズムは、弱いものどうしが助け合うというかたちでしか生まれてこない。あの弱肉強食の病んでいるアメリカでさえ、そういう原理がはたらいている。
つまり、「いかに生きるべきか」と問うてばかりいるアメリカ人でさえ、ひとまずそれを忘れて「生きられるかどうか」と問うところに立たなければ結束することはできない、ということだ。
弱い存在だから結束する。強ければ結束する必要なんかない。したがって強いものが弱いものを助けるというのは不自然なことであり、そこからは結束のダイナミズムは生まれてこない。
結束することのダイナミズムは、弱いものが助け合うというかたちでしか生まれてこない。
人間が結束する生き物だということは、人間の根源的なメンタリティにおいては「弱者」として生きようとしているということだ。
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   4・強者は弱者を救うか
現在のアメリカは、荒廃と没落の危機にさらされているらしい。
彼らがつくりあげた競争社会の、その、強い者が弱い者を助けるという欺瞞・偽善的なスローガンが破綻をきたしている。
たとえばアメリカの医療保険制度はもう、病人が保険会社にいいように食い物にされ、病気になって破産したり、医療が受けられなくて死んでゆくという例はいくらでもあるらしい。医療技術は発達しているが、その医療技術は、金のある人間しか受けられないシステムになってしまっているのだとか。
アメリカ社会では、社会保障のシステムが大きく後退している。競争することだけは相変わらず盛んだが、だからこそ、もはや競争に勝たないことにはどうにもならない社会構造になってしまっている。
アメリカ人は、「アメリカンドリーム」や「正義」に興味があるだけで、「人間とは何か」と問う関心はあまりないらしい。人間とは「アメリカンドリーム」や「正義」を欲しがる生き物だと決めてかかっている。あの「ハーバード白熱教室」のサンデル教授には、「正義」そのものをいまいちど疑い「人間とは何か」という問いに立ちかえってみるという視点がまるでなかった。そんなプチブル根性でよく「哲学者」がつとまるものだと、僕はちょっと唖然としてしまった。
「自分」をまさぐってばかりいるから、「勝者=正義」であることを欲しがる。
アメリカ人は「快楽」というものを知らない。「快楽」とは、「自分」が消えてゆく体験のことだ。
人間はほんらい、自分を正当化し自分を確かめようとする生き物ではない、自分を鬱陶しがり自分を忘れようとする生き物であり、そこにこそ生きてあることの「快楽=カタルシス」がある。
勝者が敗者を救うという「正義」を止揚する文化であるアメリカには、弱いものどうしが助け合うという文化がない。弱者としてこの生を嘆くという文化がない。アメリカの弱者は、強いものの餌食として存在しているだけらしい。強いものが弱いものを救うといっても、強いものであることの正義を止揚するために弱いものを餌食にしているだけのことだ。
アメリカには正義とは何かと問う文化があるだけで、快楽とは何かと問う文化がない。弱者として生きる文化がない。それは、人間とは何かと問う文化がない、ということと同じなのだ。
それに対してネアンデルタール人の社会には、快楽があり、弱者として生きる文化があった。現代人であれ、たぶん、この伝統を歴史的な無意識として引き継いでいる。なぜならこれが、人間が生きることの根源のかたちだからだ。
アメリカだけが、人類のこの伝統をちゃんと引き継いでいない。彼らは、「正義」という概念によって、この伝統を置き去りにしている。そこに、資本主義社会におけるアメリカの強さと、犯罪や貧困をあふれさせる必然性がある。アメリカ人は、勝者になっても敗者であっても、生き方や考え方が「がさつ」なんだよね。そこがアメリカの強さであり、われわれ日本人が「ついてゆけないなあ」と思うゆえんでもある。
たとえば、この国の米軍基地問題をはじめとするアメリカのアジア外交なんて、「正義」を振り回すばかりで「お客」としてのたしなみもつつしみもまるでない。あきれるくらい「がさつ」な態度だ。それについてゆけなくてわれわれは右往左往している。
いや、戦後からバブル時代にいたる日本人だってアメリカを見習って大いに「がさつ」であったわけで、若者たちは、大人たちのその「がさつ」なところについてゆけなくて社会的に追いつめられたり、彼ら独自の「かわいい」の文化を生み出したりしている。
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   5・生きてあることの嘆きが人を生かしている
人間は、弱者であるとき、はじめて人間らしくなる。それは、ただ、貧乏になるとか病気になるということだけではない。社会的立場がなんであれ、生きてあることの「嘆き」が共有されているところでより人間的な関係が結ばれている、ということだ。
たとえ社会的に恵まれた立場にいても生きてあることの「嘆き」と向き合っているものもいれば、社会的には最下層のはずなのに生きてあることの価値を止揚することしか頭にないものもいる。
たとえば、たとえ最下層でも、競争して他人を押しのけることばかりしてれば、弱者として生きているとはいえないだろう。そういうことをしなくなるのを、弱者になる、という。それはもう、社会的な立場の問題ではない。
ロックスターは、どんなに成功しても、どんなに歳をとっても、生きてあることの「嘆き」を発信し続けるのがお約束であり、その心意気を大衆が支持している。彼らにとって「転がる石になる」ということは、「弱者であり続ける」ということである。
探究心の旺盛な学者ほど、「なぜ」と問い続けて生きている。「なぜ」と問うことは、生まれたばかりの子供のような「弱者」になることである。
人間は、存在そのものにおいてすでに「弱者」であり、その存在のありようが知能を発達させ、その顔の表情のニュアンスを豊かにしたのだ。
根源的には、人間社会に「強者=勝者」など存在しない。みんな「何かの間違い」でこの世に生まれてきてしまった「弱者=敗者」であり、みんな死んでゆくのだ。したがって、強いものが弱いものを助けるとか、悟りを開いたものが迷える衆生を救うとか、それが人間社会の根源的なかたちになっているのではない。
「弱いものどうしが助け合う」というかたちこそ、人間社会の根源のかたちなのだ。誰もが弱者になって「おたがいさま」というかたちにならなければ、結束のダイナミズムは生まれてこない。
ネアンデルタール人の社会はそのようになっていたし、この国の基層文化だってそのようなかたちになっているはずだ。そういう意味で、おそらくこの国の基層文化は現代の世界をリードする役回りになり得る。そうやってこの国の若者たちの「ジャパンクール」という文化が世界を席巻している。
それは、「幸せ」がどうとかこうとかという文化ではない。「生きられるかどうか」とせっぱつまっている弱者たちの文化なのだ。
強いものが弱いものを助けていい気になっている社会であるかぎり、結束のダイナミズムは生まれてこない。そこでは、強いものの「正義」を確保するために弱いものが生産され続ける。それは、弱い者が強い者の餌食になっている社会だ。アメリカみたいなそんな社会が、そんなに素晴らしいのか。
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