1・理想のリーダーなんかいらない
助け合うとは、競争をしない、ということだろう。たがいに弱者=敗者だから、助け合うということをしないと生きられない。
人間は、根源的に「弱者=敗者」として存在している。
「強い者が弱いものを助ける」というシステムがどんどん崩壊していっている時代なのだ。
理想的なリーダーがいれば国民は救われるとか、もうそんな時代ではないのだ。リーダーが国民を救うのではない。弱い国民どうしが助け合ってゆくしかないのであり、そこにこそ人間集団の結束のダイナミズムがある。
ひとまずそうやって近ごろの「アラブの春」という民衆運動が生まれてきたのだろう。それはべつに、理想のリーダーを待望するムーブメントだったのではない。理想であったはずの強いリーダーを倒し、弱い者どうしが助け合おうとする動きだったのだ。
この前内田樹先生が自身のブログで「理想のリーダー」論を恰好つけて語っていたが、それ自体、時代遅れの倒錯的な思考態度なのだ。自分より強い者には媚びへつらい、弱いものに対しては自分がリーダーぶっていい気になっている人間が、そういうことを語りたがる。自分がリーダーぶっていたいから「理想のリーダー」論を語っているだけのこと。そういう卑しい根性に、若者はもううんざりしている。
リーダーなどという立場は、誰かがしょうがなく引き受ければいいだけのこと。今や、リーダーがなんとかしてくれる、などとは誰も思っていない。みんなで助け合うという動きが起こってこなければどうにもならないし、そこにこそ人間集団のダイナミズムがある。
リーダーなどという立場は、みんなが助け合う動きを取りまとめる「事務方」であればいいだけのこと。ひとまず世界中の人々がそういうことに気づきはじめているのだ。
もう、「メシア(救世主)」だとか「理想のリーダー」だとかといっている時代ではないのだ。
助け合う動きに参加できないもの、すなわち人と心を通い合わせることができないものが、自分よりも強いリーダーにすり寄ってゆき、自分よりも弱いものをたらしこんで権力を持とうとする。まあこういうくだらないことばかりしている人間は内田先生だけじゃなく、現在のこの国の大人全体の病理だともいえる。
女房にも子供にも見限られた大人の悪あがき、ということだろうか。人と心を通い合わせることができないんだよね。ちゃんと金を稼いで女房子供を養っていても、なかよしこよしの平和な家族関係をつくっていても、お父さんが「見限られる」ということはいくらでも起きている。
いまどきの若者は、親を見限っているから親と仲良くできるのだ。ほんらいなら親が年老いて仲良くなってゆくのに、親がいちばん元気なときに、すでに子供から見限られてしまっている。
若者はもう、若者どうしで助け合おうとしているし、貧しいシングルマザーは、シングルマザーどうしで助け合う道を模索している。
彼らにとっては、「理想のリーダー」を待望するよりも、今ここの「生きられるかどうか」という問題の方がずっと切実なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
   2・救済するシステム
人と心を通い合わせなければ、助け合うということも起きてこない。この場合の「心」とは、生きてあることの「嘆き」のこと、すなわち正面から向き合ってその「嘆き」を共有してゆくことを、心が通い合う、という。
いつの時代でも、子供は生まれてきてしまったことの「嘆き」を抱えて存在している。その「嘆き」を共有できないから見限られるのだ。
現代社会は、強者が弱者を救済する、という制度の上に成り立っている。つまり、そういう社会だから、親が子供に、大人が若者に見限られるのだ。
競争して勝者=強者をつくり出すシステムなのだから、とうぜんそのようにしなければ社会は動いてゆけない。勝者=強者をつくるためには、避けがたく敗者=弱者も必要になる。敗者=弱者を存在させなければこの社会は成り立たないし、人間は本来的に敗者=弱者であろうとする習性を持っているから、どうしてもそういう立場の者が生まれてくることは避けられない。
というか、われわれは誰もが、子供時代の「弱者として生きる」という体験をたっぷりしてきているのであり、それがわれわれの持って生まれた本性になっているのだ。
なのに現代社会は、敗者=弱者を救済することで勝者=強者のアイデンティティを満足させる、というかたちで動いている。つまり、敗者=弱者を救済するという行為そのものが、競争に勝利する行為になっている。そうやって現代のこの社会は、勝者=強者のために成り立っており、誰もが勝者=強者になろうとする世の中なのだろうか。
まあこれは、経済のことだけではない。教育だって、大人という勝者=強者が子供という敗者=弱者を救済するシステムだろうし、えらい坊主や知識人が迷える大衆を救済するということだって、勝者対敗者・強者対弱者という構図にちがいない。
悟りをひらく、などといっても、そうやってこの社会の制度と慣れ合って勝者=強者になりたいというスケベ根性なのだ。そんなことは、共同体(国家)の発生以後に生まれてきたたんなる観念的な制度なのだ。
いまどきのおえらい坊主なんて俗物根性丸出しのみすぼらしい顔をした人間ばかりだし、また内田樹先生のような「勝者」がこの生や人間のなんたるかを語っても、ただの「アホだなあ」というレベルの薄っぺらな言説にしかならない。しょせんはコラムニストとして酒場談義的な時事放談をやっているのがお似合いなのだ。
選ばれた者や優秀なリーダーすなわち「強者=勝者」がこの社会を救うといっているかぎり、「弱者=敗者」は追いつめられてゆくばかりだろう。このことは、そういうスローガンの現代のアメリカ社会の状況がちゃんと証明してくれている。
強い者が弱い者を助けるシステムとは、弱いものを生み出し続けるシステムのことだ。
人間社会のダイナミズムは、「弱いものどうしが助け合う」というかたちで生まれてくる。
人間存在は根源において「弱いもの」であり、「おたがいさま」なのだ。
内田先生とか勝間和代というおばさんとか東浩紀氏とか上野千鶴子氏とか、「強者=勝者」たらんとすることばかりに熱心なものがえらそうなことをほざいてもたかが知れている。彼らには、人間存在の根源に錘を垂らしてゆく思考能力はない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   3・正義の没落
原始人があえてこの上なく過酷な環境である氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったことは、「敗者=弱者」として生きることを選択する行為であった。
現代社会が「勝者=強者」が「勝者=強者」であることを確認する行為として「敗者=弱者」を救済してゆくことの上に成り立っているのに対してネアンデルタール人の社会は、誰もが「敗者=弱者」として他者に献身してゆく関係をつくっていた。原始人があんな過酷な環境のもとで暮らせば、誰もが「敗者=弱者」であるほかないのだ。
したがってネアンデルタール=クロマニヨン人の原始社会には、「聖人」も「予言者」も「メシア」も「理想のリーダー」も存在しなかった。誰が誰を助けるなどということはなく、みんなで助け合って(献身し合って)生きていただけだ。
「理想のリーダー」が率いている社会とは、誰もがそういう「序列」関係を意識しながら、自分より弱いものを助けて恩に着せている社会なのだ。そんな社会をつくることが人間の理想なのか。
まあ現代社会でいうなら、親が子供に対して「育ててやっている」とか「いい暮らしをさせてやっている」と恩に着せてばかりいる。その「恩に着せる」という自分の態度を正当化するために「理想のリーダー」の待望論を恰好つけてああでもないこうでもないとわめき合っている。
スケベったらしく、自分が子供や若者に対して「メシア」や「理想のリーダー」として恩に着せようとしているだけのこと。
そして現在の若者たちは自分たちのことを幸せだと思っている、などとのうてんきなことを言ってもらっては困る。かれらは彼らなりに、大人たちの恩に着せようとする態度に追いつめられている。そこから彼ら独自の文化が生まれてきている。新しい文化はいつだって追い詰められたものたちのところから生まれてくるのであり、人間は、存在そのものにおいてすでに追いつめられて生きてある。
大人たちは、追いつめられていないから新しい文化を生み出す能力がない。だから、のうてんきに「理想のリーダー」論なんかを語り合いたがる。
「理想のリーダー」なんかあらわれてこなくてもいい。リーダーなんて、ただの「事務方」でじゅうぶんなのだ。
現在のこの国では、「理想のリーダー」ぶると必ず支持率を落とす。安倍も麻生も鳩山も菅も、現在の「どじょう」とやらも、「理想のリーダー」ぶった瞬間から支持率を落としていっている。ただの「事務方」でございます、としおらしくしていればよかったものを。
われわれ国民が気まぐれだから支持率を落とすのではない、われわれはもう「理想のリーダー」ぶって恩に着せられることにうんざりしている。
むかしの人は、人の家に行って贈り物を差し出すとき、「つまらないものですが」といいながら畳に頭をこすりつけるようにしてあいさつした。アメリカと違ってこの国には、そういう「恩に着せない」文化の伝統があり、戦後の高度経済成長によっていったんは失われたその伝統が、ここにきて露出してきている。
僕は、日本人だから、人から恩に着せられることなんかまっぴらだし、恩に着せることもようしない。
たとえ相手が自分の子供であれ、「恩に着せる」よりも、生きてあることの「嘆き」を共有できればと願っている。
「苦しみ(=嘆き)から抜け出す」ことと「苦しみ(=嘆き)を分かち合う」ことと、われわれにはどっちが必要なのだろう。人間は、分かちあって癒されながら生きているだけの存在であって、われわれに「聖人」や「メシア」になる「未来」などないのだ。
古代や中世だって、社会構造的には、強い者が弱い者を助けるという制度などなく、弱い者は弱い者どうしが助け合って生きていただけだろう。
昭和天皇は、ジャムサンドがいちばんの好物だったのだとか。歴代の天皇家には、できるだけ質素な暮らしをしようとする伝統がある。現在の平成天皇だって、東北大震災の直後はあえて電気のない暮らしをしていた。それは、国民と「弱者」であることを共有しようとする態度なのだ。そして「弱者」であり続けることによってこの国の天皇家は現在まで生き残ってきたのであり、強者として支配君臨しようとすれば、いつだってときの強者に頭を叩かれてきたのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   4・生きてあることは「何かの間違い」なのだ
自分を鬱陶しがり忘れようとするということは、生きてあることを鬱陶しがり忘れようとする、ということだ。人間にとって生きてあることは「何かの間違い」なのだ。「何かの間違い」であるという「違和感」において、もっとも確かに生きてあることを実感しているのだ。「実感」とは、「違和感」である。
人は生きてあることに対する違和感=実感が強く発生する場所に立とうとする。そうやって原初の人類は二本の足で立ち上がり、さらには住みにくいところ住みにくいところへと、地球の隅々まで拡散していった。
人間は、「弱者=敗者」として生きようとする。
「正義」などというものは、「勝者=強者」のものだ。現代社会では、誰もが「正義」を欲しがり「勝者=強者」になりたがるような制度になっている。
そうやって現代社会は競争をあおり続けている。
しかし、それでも人は、「生きてある」という実感を「敗者=弱者」の感受性として体験している。
人間が二本の足で立ち上がっているということは、たがいに弱者として向き合っているということである。われわれはそこから生きはじめるのであり、そこから人間の歴史がはじまっているのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/