未来に対する「予測」とか「計画性」とか、こういう言葉が僕は大嫌いなのだ。こういう能力によって人類は進化してきた、などといわれると、むちゃくちゃ腹が立つ。そこに人間の本性がある、とか、現在の古人類学の研究者なんか、みんなしてそんな程度の低いことばかり合唱してやがる。
おまえら、アホか。その薄っぺらな思考能力や想像力には、ほんとにうんざりだ。
そうやって人間を規定することによっておまえらは、自分の中のそのスケベったらしい俗物根性を正当化している。それだけのことさ。
そんなことは、人間の歴史の真実でもなんでもない。
人類史の新しい文化は、そんなところから生まれてきたのではない。
人間には未来はわからない。誰もが「いまここ」に生きてあるということに対する切実な思いを抱えている。新しい文化は、そこから生まれてきたのだ。
「いまここ」に生きてあることの「嘆き」がある。そこから「いまここ」のこの世界や他者にヴィヴィッドに反応してゆく心の動きが生まれてくる。そうやってその「嘆き」を癒され、人類史における新しい文化が生まれてきた。未来に向かって何かを獲得しようとしたのではない。
未来に向かう意識が、生き物の根源にはたらいているわけではない。
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人間は、うまいものを食いたがる。そうやって料理の文化が発達してきた。
人間はなぜうまいものを食いたがるのか。
知能が発達して未来意識が強くなってくるとうまいものを食いたくなってくるのか。うまいものはうまくないものより優秀で、より優秀なものを欲しがる知能によるのか。西洋人は、そういう「差異意識」が意識のはたらきの根源である、などという。しかしそれではまだ説明になっていない。
「これはうまい」ということは、「これはあれよりもうまい」ということではない。それは、「いまここ」の固有の体験なのだ。「あれもうまいけどこれもうまい」というとき、「差異」が認識されているのではなく、「同一性」が認識されている。そしてそれでも「これ」でなければならないと思うのは、その体験が「いまここ」で完結しているからだ。
そういう「いまここ」の完結性が人間を生かしている。ほかと比べて「うまい」と思うのではない。
その「いまここ」の固有性=完結性として「うまい」と思うのだ。
最初は、それを食えばうまいとわかっていたのではない。うまいとわかっていて食うよりも、無心で食ったときの方がずっとうまいと感じる。「うまい」と思うことの根源=本質は、「予測」によってではなく、予測をしない無心の「出会いのときめき」として体験されるのだ。
そしてなぜ「うまい」と思うかといえば、予測が当たったことのよろこびではないだろう。それはあくまで「予測が当たる」という体験であって、「うまい」という体験ではない。だいいち、体験をしたこともないまったく新しい「うまい」という体験の内実を予測(イメージ)できるはずがない。
「うまい」とは、大げさにいえば「もういまここで死んでしまってもいい」という体験だろう。この生や世界が「いまここ」で完結する体験のことだ。そうやって心が癒される。
人間は、そういう体験をしてしまうくらい生きてあることの「嘆き」を抱えて存在している。
癒される体験が欲しい、というような先験的な心の動きなどというものはない。まずはじめに「嘆き」があるから、欲しいと思うし、癒されもする。「欲しい」という「欲望」だけでは、癒される体験も「うまい」と思う体験もできない。
「欲望という差異意識」が先験的に存在するのではない。先験的に存在するのは、「生きてあることの嘆き」であり「存在することの居心地の悪さ」なのだ。意識はまず、痛いとか痒いとか暑いとか寒いとか空腹であるとか、そういう「嘆き」として発生する。すなわちこの生やこの世界に対する「反応」として発生する。そして「反応」とは、「嘆き=違和感」なのだ。これが、生き物の意識の根源のかたちであり、二本の足で立つという不安定で危険な姿勢で生きている人間は、そういう「嘆き=違和感」がことのほか切実なのだ。
生きてあることの嘆きや満たされない思いは誰にだってあるじゃないか。それを携えて生きているから、人は、「うまい」という体験をしてしまうのだ。
現代社会の人々が、うまいものを食いたがっているとすれば、それだけ生きてあることの「嘆き」や満たされない思いが満ちている社会だからだろう。
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どんな商品であれ、それが売れるということは、買う人がそこに癒されるものを感じるからだろう。
リンゴであればなんでもいいというのなら、よりおいしいリンゴなんか生まれてこない。人間は「癒される」体験をしてしまうから、よりおいしいリンゴがあらわれてくる。
それが一個300円でも売れるということは、人間にとって「癒される」体験がそれほど切実だということを意味する。
それはもう、車や冷蔵庫の機械製品を買うときだって同じだろう。
人々が何を欲しがっているかをリサーチしても、その商品の売れ行きはたかが知れている。人々が予測もしないようなときめき、すなわち癒される体験をもたらすものが、ヒット商品になるのだ。
商品の流通だって、根源的には「癒される」体験によって動いている。
それが「よりよい」ものだということは、それ固有の「癒し」を持っているということである。根源的本質的には、「よりよい」という「差異意識」の上に成立しているのではない。
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この世の男たちは、自分の彼女や妻がほかの女よりも美人だとかいい女だという満足で愛しているわけでもないだろう。そんな満足が永続するわけでもないし、そんな満足をまさぐっていられる恵まれた男なんかごく少数だろう。
どんな男と女にも、固有の1対1の関係がある。その固有性=完結性が彼らの関係を成り立たせているのだ。
誰だって自分の容姿や頭のよさや生まれ育ちにいささかの不満はあるだろう。どんなにすぐれた人間でも、自分以外の人間には誰もなれない。それでも誰もが、ひとまず「自分」であることと和解して生きている。つまり「自分」としてこの生を完結させている。
意識の根源のはたらきは、この生やこの世界を「いまここ」で完結させてゆく。これが、「癒される」という体験だ。
意識のはたらきの根源を「差異性」として合意されているかぎり、競争社会は安泰だ。
しかし今や、お金であれ商品であれ才能であれ、欲しいものが手に入ればそれですべてが解決するという時代ではなくなりつつある。
よりよい社会であれ、よりよい知識や才能であれ、誰もがそれを欲しがっているとはかぎらない。
いまどきの若者は、そんなものを欲しがるということをしなくなってきている。彼らの消費意欲も知識欲も社会意識も、冷え切っている。ただもう「いまここ」の癒される体験を生きようとしている。
高度資本主義だって、けっきょくそこにたどり着く、ということだろうか。人間の歴史は、癒される体験にはじまって癒される体験に収斂してゆく、ということだろうか。この体験こそが、人類の歴史の通奏低音なのだ。
どんな「熱狂」も、やがては鎮まってゆく。つねに「癒される」という体験が通奏低音としてはたらき、最後にはそこに収斂してゆく。
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資本主義なんてもうマンネリだ、と若者は感じている。
高度経済成長の熱狂を忘れられない大人たちばかりが、若者に対して「おまえらだめだ」といって消費意欲や競争意欲をあおり続けている。そうやって若者に対する優越感を紡いで自分たちの競争意識を満足させている。彼らはもう、「競争」の中でしか生きられない絶滅危惧種なのだ。
時代はもう、静かに確実に冷えていっている。そうして、大人たちは、その状況に退屈している。彼らには、消費意欲や競争意欲が減衰した時代を生きる能力はない。その時代を生きられるだけの感受性を持てなくて、大いに退屈している。
つまり、「予測」と「計画性」で生きている彼らは、未来に対する希望がなければ生きられない人種で、「いまここ」でこの生やこの世界を完結し「いまここ」を生きることができる感受性を持っていない。
人間であれ生き物であれ、根源的には、未来に対する希望で生きているのではない。「いまここ」のこの生やこの世界に反応しながら「いまここ」を生きているのだ。
誰だって明日も生きてあるかどうかはわからない。そういう存在である生き物=人間が、明日も生きてあることを前提にして未来に対する希望を語る。死を宣告されている人間に未来に対する希望語るという制度性。天国が待っていますよ、とかなんとか言っちゃってさ。
カミユの「異邦人」という小説は、そういう嘘っぽさを告発した小説として、世界中の若者の心を動かした。
「未来に対する希望」という制度性。そんなものが生き物を生かしているのではない。そんなものにすがって「いまここ」に対する反応を喪失しながら人間は退屈してゆくのだ……という問題提起は、共同体(国家)とともにそういう制度性が生まれてからのこの5千年、人間はずっと繰り返してきたし、これからもずっと繰り返してゆくのだろう。
人間には未来のことはわからない。わからないから「いまここ」にヴィヴィッドに反応して退屈しないのだ。
だからいまどきの若者は、「未来に対する希望」なんか思い描かない。「いまここ」のこの世界やこの生に体ごと反応しながら生きている。現在のこの国がそういう空気になっているというわけではないが、少なくとも現在の世界に発信されている「ジャパンクール」といわれるマンガやファッションなどの文化には、そういう人間としての普遍的根源的な態度(生き方)が反映されている。
どんな未来を思い描くことができるか、という能力がこの地球上の生き物を生き延びさせているのではない。「いまここ」のこの世界やこの生に対するヴィヴィッドな「反応」を喪失した生き物は滅びてゆくしかない。
つまり、「退屈」したものから順番に滅びてゆくのだ。
「この世界をよくしたい」なんて、退屈している証拠だ。
人間は、「いまここ」でこの生を完結させながら生きている。そのはたらきを失ったものから順番に滅びてゆく。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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