死にたいと思っている・「漂泊論B」22


「死にたい」と思ってもかまわない。それこそが人間の自然なのだ。
「死にたい」という思いを手放すべきではない。
「死にたい」と思いつつ「死ねない」と絶望しているのが人間なのだ。人類の歴史はそのようにして動いてきたのであり、そこにこそ人間であることの豊かさがある。
おそらくこれが、原始人の生のかたちである。
それだけではない。現代においても、この世のもっとも知的で感性の豊かな人は、そのようにして生きている。そしてそれはまた、この世のもっとも弱いものの生き方でもある。
この世のもっとも知的で感性の豊かな人は、この世のもっとも弱いものでもある。
「死にたい」という人間としての自然を放棄して生き延びようとあくせくしてゆくことによって、知性も感性も命のはたらきそのものも衰弱してゆく。
人がなぜ「死にたい」と思ってしまうかといえば、もともと生きてあることのカタルシスが「身体消えてゆく」心地を体験することにあるからだろう。この生は、そうやって死んでゆくことが生きることでもあるというパラドックスの上に成り立っている。
死ぬことくらい、たぶん猿でも知っている。しかし、自分がやがて死んでゆく存在だということをふだんから意識して生きているわけではあるまい。猿は、他者の死は理解しても、自分の死を意識することはない。
人間は、自分の死を意識して生きている。そこが猿とは違う。
人間は、身体の「無力性」と「受苦性」とともに、必要以上に身体を意識させられると同時に、それゆえにみずからの身体を忘れようとする衝動が強く、みずからの身体を忘れている心地に深いカタルシスを覚える。そうやって、身体を自覚する意識が、猿以上にダイナミックに点いたり消えたりしている。その点滅とともに、「生と死」という相反する二つの事態を意識するようになってきたのかもしれない。
猿は、ちょうどよい具合に身体を意識しつつ身体を忘れて生きている。人間ほどあからさまな点滅がない。
人間は、身体の「無力性」と「受苦性」とともに生を意識し、身体が消えてゆくカタルシス(快楽)の向こうに死を意識している。
人間にとって死は、快楽の向こう側にあるというか、快楽の裏に張り付いている。したがって、どうしても「死にたい」という思いを持ってしまう。
人間が「死にたい」と思ってしまうことはしょうがないことなのだ。それが、人間の自然である。それは、カタルシス(快楽)を汲みあげようとするひとつの情熱にほかならない。
人間は、「死にたい」と思いつつ、「死ねない」と絶望しながら生きている。



人は、「身体が消えてゆく」カタルシスを紡いで生きている。体が動くことは身体が空間に溶けてゆく感覚であり、さらには二本の足で立って歩くことは、身体=足のことを忘れてゆく感覚の上に成り立っている。身体=足のことを忘れているから、人間はどこまでも歩いてゆける。疲れても足のことを忘れて歩いてゆける。
人間は「身体を忘れる=身体が消えてゆく」カタルシスを紡ぎながら生きているから「死にたい」と思ってしまうのであり、この衝動は、意識の根源(無意識)においてはたらいている。
「死にたい」と思うことは、「身体が消えてゆく」カタルシスを汲みあげようとする生の衝動である。
手首を切るとかして自殺しようとする人は、何度でもその行為を繰り返す。なぜなら、死の淵に立つことは恐怖ではなく、快楽だからである。
死にそこなったから二度としない、というようなことはない。
人間は、「死にたい」という衝動をけっして手放さないし、その衝動は誰の中にも疼いている。
人間にとって「死にたい」と思うことは、絶望ではなく、情熱なのだ。
「死にたい」と思いつつ死なないのが人間であり、「死にたい」と思うことから生きることのダイナミズムが生まれてくる。そこから、人間的な知性や感性や命のはたらきが生まれてくる。
「死にたい」と思うところに、命のはたらきの豊かさがある。べつに言葉として思わなくても、われわれの生きてあることの根源的なかたちというか、言葉以前の本能的な身体意識としてその衝動がはたらいている。
「死にたい」と思うことが生きることであり、それは、「いまここ」で消えてゆこうとする衝動である。人間にとって二本の足で立って歩くことだけでなく、生き物としての体が動くということ自体が、「いまここ」で消えてゆくことなのだ。それははもうほかの生き物にとってもそうなのだが、人間だけがその心地を自覚的に体験している。そうやって「生と死」を自覚している。



人間は、他者と抱き合うことだけでなく、他者と向き合い他者を感じているということ自体に「いまここ」でみずからの身体が消えてゆくここちを体験している。
息をして息苦しさを解消したり、ものを食って空腹の鬱陶しさを解消すること自体が、身体のことを忘れて「身体が消えてゆく」体験であり、「死にたい」という願いがかなう体験なのだ。
この生は、「身体が消えてゆく」ことのカタルシスの上に成り立っている。
われわれの身体は、根源において「消えよう」とする衝動を持っている。
そうして、自分(の身体)が消えて他者や世界ばかり感じている瞬間にカタルシスがはたらいている。
意識にとって他者や世界を感じて反応することは、自分(の身体)が消えてゆくという、いわば死の体験であり、同時にそれが生きてあることのカタルシスになっている。
だからわれわれは、自殺しようと思っても、それによって親しい他者の悲しみや苦しみをもたらすと思うと、自殺できなくなってしまう。他者の存在を思うと、死ねなくなってしまう。
人間の「死にたい」という衝動は、根源的には「いまここ」で消えてゆこうとする衝動であって、未来に向かって死んでゆこうとしているのではない。
人間にとって死ぬことは、「いまここで消えてゆく」ことなのだ。
そうして、「いまここ」で消えてゆこうとすれば、生きてしまう。
人間は、「死にたい」と思いつつ「死ねない」と絶望している。命のはたらきの根源において、そういう仕組みになっているのだ。



人間が抱いている死に対する親密な感慨は、「いまここで消えてゆく」ことにある。
われわれは「いまここで消えてゆく」というかたちでしか、スムーズに死んでゆくことができない。
人間が根源において抱いている死のイメージは、「未来」にではなく「いまここ」にある。
人間は、「いまここの死」に対する親密さを抱いている。したがって、「未来の死」をうまく思い描くことができない。死は、「いまここ」にあらわれるとき、親密なものになる。
死の瞬間は、たぶん怖くないのだ。
われわれは、「未来の死」を思い描いて怖がっている。
たとえば「余命半年です」と宣告されるときがいちばん怖い。そうして死に近づけば近くほど、だんだん怖さが薄れてくる。それは、制度的な「未来の死」のイメージが自然としての「いまここの死」のイメージに修正されてゆくからだ。そうやってだんだん死に対する親密さを抱いてゆく。
「いまここの死」、すなわち「いまここ」において「身体が消えてゆく」ことは、この生そのもののかたちとしてわれわれはすでに体験している。そういうトレーニングを積んで生きてきた人は、死を怖がらない。
子供や「この世のもっとも弱いもの」は、そういうかたちで生きている。その、死に対する親密さこそ、人間の自然である。
大人は、身体が消えてゆくことや自分を忘れて何かに夢中になったりときめいたりしてゆく体験をしていないからいざというときにじたばたして死を怖がるし、大人でも、そういう人間の自然としての死にたいする親密さを持っている人はあまり怖がらない。
人間なら誰もが、死に対する親密さとしての「死にたい」という願いを心の奥に疼かせて生きている。そしてその願いこそ、人間を生かしている生の衝動にほかならない。
人間は、「死にたい」と願いつつ、「死ねない」と絶望している。
われわれは、この生そのもののかたちとして、「死ねない」と絶望するほかない情況に投げ入れられてしまっている。その絶望こそが、この生を豊かなものに変えてまう。



この生は死に瀕しているのであり、死に瀕した生を生きようとするのが人間の普遍的な習性なのだ。
東日本大震災の、津波に遭遇した人も原発事故に見舞われた人も、それでも懲りずに故郷に住み着こうとしている。人間は、死に瀕しているというそのことを生きようとする。
そして内田樹先生のように「生き延びる」などといってこの生の安定・充足にしがみついている人間から順番に女房子供に逃げられる。
人の世は、何かといろいろややこしい。
われわれの生は、死に瀕し、漂泊している。
人間が死を知ってしまった存在であるということは、死に対する親密さを持ってしまった、ということだ。
原始人は、死に対する親密さで地球の隅々まで拡散していった。
死にたいする親密さこそ、この生の根源的なかたちである。
死にたいする親密さが、人間を生かしている。
人の心は、「死にたい」と思うようにできている。
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