自殺できないわけ・「漂泊論B」21

<はじめに>

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どちらかというと世間に背を向けたようなブログだからそんな場に参加する柄でもないのだけれど、だからこそたとえ少数でも「あなた」にこの言葉を届けたいという思いもそれなりに切実です。
このブログは直立二足歩行の起源やネアンデルタール人のことについて考える場としてはじめたのですが、それはつまり「人間とは何か」と問うてゆくことで、いつの間にか世の中の常識に対して「それは違う」と反論することが多くなってきました。
このままではみんなから愛想を尽かされる、と心配しながら書いています。
心配だけど、書かずにいられないことがある。
どこかで拾ってきた言葉をコピペして書いているのではないし、仲間がいるわけでもなく、ぜんぶ、ひとりで考えています。
自分でもどうしてこんなにもむきになるのかよくわからないのだけれど、とにかくここで考えたことをなんとしても「あなた」に届けたい。
俺が負けたら人間の真実が滅びる、という思いがないわけではありません。
というわけで、もしも読んで気に入ってもらえたら、どうか、1日1回の下のマークのクリックをよろしくお願いします。それでランキングが上下します。こんなことは「あなた」にとってはどうでもいいことなのだけれど、なんとか人に見捨てられないブログにしたいと願ってがんばっています。
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<本文>

自殺できないわけ・「漂泊論B」21

     1・僕の命なんか、しょうもないしろものです
生きてあることに何も不満がない人など、めったにいない。
人間なんて、不満のかたまりだ。
誰も自分以外の人生を生きることはできない。けっきょくは「自分」の範疇でしか生きられない。
自分なんてつまらない。
自分の命なんてつまらない。
自分に比べて、他人はどうしてあんなにもいきいきと存在しているのだろうか。
他人だってやっぱり鬱陶しい「自分」を抱えているのだから条件は同じのはずだが、それでも自分だけがまわりの存在の確かさに置き去りにされているように思える。
世の中は、自分の外で動いている。自分ひとり、置き去りにされている。
いったん気持ちがネガティブになると、どんどんそういうところにはまり込んでゆく。
それは、不自然なことだろうか。
そうじゃない。
そういう存在の孤立性こそが、人間の自然なのだ。
われわれが生まれてくるときはひとりでこの世界に放り出されるのだし、しかも生きる能力などまったくない世界いちばん無力な存在として生まれてくるのだ。人は、ここから生きはじめる。
われわれの身体の孤立性は、生まれた瞬間に刻印されている。


     2・人間だって生き物なのだ
原初の人類は、密集しすぎた群れの中で他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくるというかたちで二本の足で立ち上がっていった。それは、みずからの身体の孤立性を確保するという行動だった。
生き物であることが「身体が動く」ということにあるとすれば、それは、身体のまわりに動くことのできる「空間」が存在することの上に成り立っている。つまり、身体の「孤立性」の上に成り立っている、ということだ。
身体の孤立性は、われわれが生き物であることの根源のかたちである。
だからわれわれの意識は、生き物の自然として、避けがたく、この世界にたったひとりで放り出されているような気分を持ってしまう。
自分が世界でいちばんえらいと思っても、いちばんだめな人間だと思っても同じなのだ。
この身体は、この世界に孤立して存在している。
1億人の集団の中に置かれていても、この身体は孤立して存在している。
この身体は、この世界の外に、この世界と向き合いながら存在している。
この身体は孤立してはいるが、世界と無関係であるのではない。身体が動くことも、つまるところこの世界に対する「反応」にほかならない。
孤立した存在だから、「反応」する。
孤立した存在ほど、豊かに「反応」する。人間は猿よりももっと大きく密集した集団の中に置かれているが、個体としての意識は、猿よりももっと孤立している。
身体が世界の一部として充足し安定していれば、「反応」することも「動く」こともない。それはもう、生き物でも人間でもない。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって「猿よりも弱い猿」になりながら、集団としても個体としても、意識は、猿よりももっと孤立していった。
原初の人類は、集団としても個体としても、猿よりももっと不安定な孤立した存在として歴史を歩んできた。人間としての知性や感性は、そこから育っていった。
生き物は、根源において、不満だらけの不安定な存在なのだ。そういう「孤立性」を持っている心ほど、世界に対して豊かに「反応」してゆく。それをわれわれは、知性とか感性と呼んでいる。
人間の心や体は、この生ともこの世界とも調和していない。調和していないから、心や体が動く。
生き物は、死んでゆく存在である。それは、この生がこの世界と調和していないからだ。調和していたら、死なない。


     3・人間なんかさっさと死んでしまえばいいだけの存在なのだけれど、それでも死にたいのに死ねないわけがある
死んでゆくとは、孤立した個体になりきって消えてゆくことである。
人間の心は、孤立した個体になりきってゆく動きを持っている。だからわれわれは「死にたい」と思うし、何かつらいことがあれば自分が世界でいちばん不幸な存在であるかのような心地に浸されてしまう。
人が「死にたい」と思う気持ちは、否定できない。人間の心はそのように思ってしまうようにできている。それは、絶望というより、ひとつの情熱なのだ。
自殺の衝動はくせになるし、人から人へと伝播する。
それでも人は、死にたくても死ねない状況の中に置かれている。。
生きてあれば、何かとしがらみがまとわりついている。自分が自殺したら深く傷つく人や悲しむ人や困る人がいる。「死にたい」と思っても、きれいさっぱりあとかたもなく消えてゆくことはできない。何かとややこしい禍根やかなしみをあとに残してしまう。
生まれてきたからには、「関係」の中につながれてしまっている。
それにまあ、生きていればしたいことやせずにいられないこともどうしても持ってしまう。息苦しければ、息をしてしまう。生きていたいわけではないのに、身体は勝手に息をしてしまう。身体が勝手に生きてしまっている。
死にたいけど死ねない、と絶望して生きているのが人間なのだ。絶望して死ぬのではない。絶望して生きているのだ。
身体の孤立性を持とうとし、その究極のかたちとして「死にたい」と思うのが生き物としての本性なのに、人間社会のわれわれは、死ねない、と絶望して生きている。人間とは、そういう存在なのではないだろうか。


     4・ネアンデルタールの場合
人の死に悲しむ気持ちがあるのなら、自分もまた死ねない。
極寒の極北の地を生きたネアンデルタールの女は、30数年の生涯で10人近くの子供を産み、その半数以上は寒さのために母親より先に死んでいった。
彼女らにとって子を産み育てることは、ひとつの恐怖であったにちがいない。
それでも、産み続けた。それができたのは、人間は根源において、「死にたい」という、死に対する親密さ(=情熱)を持っているからだ。
そうして、死にたくても死ねない絶望を持って存在しているからだ。
「命の尊厳」といい、「生き延びること」に価値があるのなら、すぐに死んでしまう子供を懲りもせずに産み続けることなんかできない。
人間は死んでしまう存在であり、死んでしまってもかまわないのだ。
死んでしまうために生まれてくる、ともいえる。
そして、生まれてくれば、他者との関係の中に投げ入れられて、自分で死ぬことのできない絶望を持たされる。
人間は、どんな生き物よりも「死にたい」と思ってしまう存在である。と同時に、死ぬことのできないタイトで親密な他者との関係を持ってしまう存在でもある。ネアンデルタールはつまり、集団としてそういう人と人の関係を持っていたから、深く子供の死をかなしみつつ子供を産み続けることができたし、いいかげんさっさと死んでしまいたいような厳しい環境だったにもかかわらず最後まで生き切ることができた。
人間は、死にたいのに死ねなくなる関係の集団をつくっている。それはつまり、誰もが他者の死に悲しむ集団である、ということだ。
そうやってネアンデルタールは、ひたすら他者の死にかなしみながら「埋葬」という儀礼をはじめた。
人類は、死者の霊魂を発見したから埋葬をはじめたのではない、ひたすらかなしんだからだ。
人間は、他者の死をかなしまなければ生きていられない存在であり、原始時代の集団は、そのようなかたちにつくられていた。
それは、食料を効率よく確保するための集団だったのではないし、集団が存在することに意義があったのでもない。他者にときめき、他者の死に悲しみながら集団になっていったのだ。そういう関係が生まれない集団は、集団であることができなかった。
原始人は、生き延びるために集団をつくっていたのではない。誰もが他者にときめきながら集団になっていっただけだ。そしてそのようにして生まれてきた集団では、誰もが他者の死に深く悲しんだ。
人間は、他者の死にかなしむということがなければ、さっさと死んで自滅してしまう存在なのだ。
原始人の集団は、他者に対するときめきや他者の死にかなしむということが薄れてきて自然に解体していったのであって、ほかの集団に滅ぼされたのではない。
そういう「ときめき」や「かなしみ」という関係意識が、原始人の集団を成り立たせていた。彼らは、他の集団を滅ぼそうとする意欲も滅ぼされるという心配もなく、たがいに離ればなれになって集団をつくっていた。だからこそ、集団と集団のあいだやまわりの緩衝地帯に人が集まって来てそこに新しい集団が生まれる、ということが頻繁に起きていた。
とすれば、原始人の集団が自壊するのは、ある種の自殺だったともいえる。
他者に対する「ときめき」と「かなしみ」があるうちは死ねない。たとえば鬱病になるとかして、そういう感慨が薄れてきたときが危ないのだろう。


     5・ときめきとかなしみ
戦争をして誰もが仲間の死に深くかなしめば、誰もが死にたくても死ねない存在になる。因果なことに戦争は、人の生や集団を活性化させる機能を持っている。それはつまり、他者に対する「ときめき」や「かなしみ」を活性化させる、ということだ。
人間の集団は、根源において、そういう感慨を共有することの上に成り立っているのであって、生き延びることの目標を共有しているのではない。
なんのかのといっても、人間が「もう死んでもいい」という死にたいする親密な感慨を持っている生き物でなければ、この世に戦争なんか存在しない。
そしてその感慨は、他者の死に深くかなしむ感慨でもある。
自分がもし死んでしまったら人をかなしませたり傷つけたりしてしまう、その人が生きていられなくさせてしまう……そう思うのは、自分自身が他者の死にかなしんだり傷ついたりしてしまう存在だからである。そしてなぜかなしむかといえば、生きられない生を生きることのかなしみを知っているからである。
人間が生きられない存在であることを知っているから、他者の死がかなしいのだ。
人間が生きようとして生きていると思うのなら、勝手に死んでしまった人間のことなど知ったことではない。
しかしわれわれは、じつは自分もまた心の底に「死にたい」という願望を抱えているから、勝手に死んでゆくことを責めることはできない。生き残ったものは、ただもう悲しむしかないし、死なせてしまったみずからの罪を背負うしかない。
自殺は、連鎖する。いじめ自殺やリストカットが学校中で流行するとかの空間的な連鎖もあれば、一族代々自殺者が出るというような歴史的時間的な連鎖もある。
人間は、誰もが生きられない生を「死にたい」と願いながら生きている存在だから、そのとき自分も死んでもいいのかと思ってしまうし、死ななければならないという気にもなってしまう。
小林秀雄は、「死者はどうしてあんなにも完全なかたちをしているのか」といったが、人間にとって死ぬことはこの生が完成・完結することであり、「死にたい」と思うことは、絶望ではなく、ひとつの情熱なのだ。
「死にたい」という願いをかなえることに絶望しなければ、死を思いとどまることはできない。
しかし、他者の自殺は、死ぬことへの希望を与えられる。何はともあれ、死ねばこの生が完成し完結するのだ。
人間は、みずから死を選択することに絶望しながら生きている。生きてあることは、生まれてきてしまったからにはもう自殺できない、と絶望していることだ。
他者の自殺によって、そういう絶望が取り払われる。そうやって自殺が連鎖する。
どんなに制度的な観念で生き延びようとがんばっていても、人間は心の底で「死にたい」と願っている存在であり、人類史においても個人史においても生きてあることの不可能性をトラウマとして刻印された存在なのだ。
そして、その不可能性にこそ人間の知性や感性の可能性がある。
人間はこの生と和解していないし、和解しなければならないのでもない。
生き物であるかぎり、和解することなんかできないのだ。和解してしまったら、死ねなくなる。生き物は死んでゆく存在であるということを人間ほど深く自覚している生き物はいないし、人間ほど死と親密な感慨を持っている生き物もいない。
さっさと死んでしまいたいのだけれど、ひとまず死んでしまうことに絶望して生きている。他者に対して豊かにときめき、その死に深くかなしんでしまう存在だから。
そういう他者との「関係性」と「感慨」こそが人類の歴史を動かしてきたのであって、集団を維持するとか生き延びるとか食料を確保するとか、そういう問題で原始人の歴史を語られてもわれわれは納得しない。
人間のように身体の「無力性」と「受苦性」を深く負ってこの生と和解できない存在がなぜ滅びないでここまで生き残ってきたかということは、じつはとても不思議なことなのだ。
知能が発達したからとか、そういう問題じゃない。
それは、他者に対する「ときめき」と「かなしみ」の問題なのだ。
人間ほど死にたがっている生き物もいないのに、それでも人間は、さっさと死んでゆくことのできない絶望も深く負っている。このことこそ、人類が滅びなかったもっとも根源的な要素にほかならない。人間の生や集団のダイナミズムは、じつはこのことにある。
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