1・なんかやりきれない
人が何かを願うのは、この生の基層に「もう生きられない」という嘆きが疼いているからである。この「嘆き」こそ人間性の基礎であり究極ではないかと僕は思っている。
「もう生きられない」という嘆きが人を生かしているのだ。人間はそうやって追いつめられている存在だから、願いを持つのだ。その「嘆き」がなければ、「願い」も「祈り」も生まれてこない。
つまり、そういう「嘆き」を自覚しないで、自分は清らかで正しい心の持ち主だからということを根拠にして「願い」だの「祈り」だのを語られても、僕は信用しない。そんなものは、ただの欺瞞であり、ただのポーズにすぎない。
人間の「願い」も「祈り」も、「もう生きられない」と嘆いているもののところにあるのだ。
しかしこんなことをいっても、この社会の多くの人には届かないのだろうな、という無力感がある。
たしかに、こんな人間観が通用する世の中ではない。
こんなことをいうのなら、まず僕自身が多くの人たちから尊敬の念を集められる存在になってからの話で、そのときはじめて説得力を持つ、ということだろうか。
しかし僕は、ひといちばい切実な「願い」や「祈り」を持っている尊敬されるべき人間ではない。ただのありふれた人間だ。もし仮に僕を尊敬している人がいるとしても、きっと内田樹先生の1万分の1くらいだろうな。
だから、ますます無力感が募る。
ただもう、この世のどこかにいる「もう生きられない」と嘆いている人がいちばん深く切実な「願い」や「祈り」を持っている、といいたいだけだ。
そしてそんなもっとも深く切実な「願い」や「祈り」を持っている人が言葉を失い命を失ってゆく社会であることがやりきれないのだ。
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   2・「いまここ」に反応するということ
先日「愛を読むひと」という映画を観て、文盲であることは誰よりも深く切実な「願い」や「祈り」を持つことでもあるのだなあ、と思わせられた。
深く切実な「願い」や「祈り」を持っている人ほど言葉を失ってゆく社会なのだ。それが、やりきれない。言葉を失ったその人が何もいわないのなら、僕がいうしかない。
しかし僕がむきになってわめいたからといって、いったいどこに届くというのか。
内田先生なんてただのアホだと思っている人間は僕だけではないだろうが、それでも先生のいうことに他愛なくたらしこまれている善男善女は世の中にたくさんいる。
そういう人たちの群れに追いつめられて、「もう生きられない」と嘆いている人が言葉を失ってゆく。
言葉というよりは文字、文字を持っていない文盲の人は、この社会の「弱いもの」だ。
人類は文字とともに未来を獲得した。文字によって、スケジュール帳の空白が埋まってゆく。文字が未来を約束してくれる。文字が人間の代わりにスケジュールを記憶してくれる。
そうやって人間は未来のスケジュールを獲得し、未来のスケジュールに縛られていった。
未来のスケジュール(計画)に縛られているものは、「いまここ」に対するときめき=反応が希薄になる。
文字は、人間の未来意識を肥大化させ、「いまここ」に対する反応を希薄にしてゆく。
それに対して文字を持たない人は、未来(=計画)を喪失し、「いまここ」に立ちつくしている。すなわち「もう生きられない」と「いまここ」に立ちつくしている。
人間は未来を思い描いてしまう生き物であるがゆえに、「もう生きられない」と嘆かなければ、「いまここ」に立ちつくして「いまここ」を味わいつくすことができない。
文字を持たない人は、「いまここ」に立ちつくし、「いまここ」を味わいつくしている。彼らは、「いまここ」に対するときめき=反応が深く豊かである。
言葉は、「いまここ」に対するときめき=反応から生まれてくる。文字を持たない人は、言葉に対するときめき=反応が深く豊かである。このことは、「愛を読むひと」のシーンにもあった。
人間は、言葉に対するときめき=反応が極まって文字を生み出した。そして、文字を生み出したことによって、言葉に対するときめき=反応が希薄になっていった。それは、「いまここ」に対するときめき=反応が希薄になっていったということだ。
文字に淫してはならない、言葉に敏感であらねばならない。言葉に敏感なものは、「いまここ」に対して切実である。
内田先生がやたらに漢字熟語を使って文章を飾りたがるのは、文字に淫する習性からくるのだろう。
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   3・「弱いもの」として生きる
人類は「いまここ」に対する切実さとして地球の隅々まで拡散していったのであって、それが未来に対するスケジュール(計画)だったのではない。
住みにくい地に立って「もう生きられない」と嘆けば、「いまここ」に対するときめき=反応が豊かに起こる。そうやって地球の隅々まで拡散していった。
親やまわりに反対されている恋ほど深く燃え上がってゆく……まあそんなようなことだ。人間は危機を生きようとする。危機が人間を人間たらしめる。そこにおいて心は深く豊かに世界や他者に反応し、生きてあることのカタルシス(=快楽)が汲み上げられる。
文字を持たないもの、すなわち「もう生きられない」という危機を生きている「弱いもの」こそ、もっとも深く豊かに「いまここ」のこの生を味わいつくしている。
それに気づかされただけでも、「愛を読むひと」という映画を見た甲斐があった。
人間は危機を生きようとしてしまう。危機に魅入られてしまう。だからユダヤ人はナチスの残虐行為に無抵抗になってしまった、という側面もある。
それはつまり、「弱いもの」として生きようとする、ということだ。人間は「弱いもの」として「なぜ?」と問うのだし、自然に対して無力な「弱いもの」として冒険に挑んだりもする。
すなわち、「弱いもの」を助けてやる「強いもの」のもとに人間性の真実があるのではない、ということだ。
人類は、「弱いもの」として「もう生きられない」という状況を生きながら、地球上に君臨する「強いもの」になってきた。
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   4・発見することのときめき
文字を知らないものがはじめて文字を知ったときの感動。そういう感動が人を生かしている。
意識が「これはリンゴである」と「認識」することだって、ひとつの感動体験である。
われわれは、根源的には、生まれたばかりの赤ん坊のような「弱いもの」として、この世界に存在している。「認識」することだって、意識の根源においては、じつは赤ん坊のような、わからないものがわかった感動として体験されている。認識するとは、そうやって意識の混沌が収拾されてゆくはたらきなのだ。
これは、脳科学者がいっていることだ。脳の神経回路は最初から整然と流れているのではなく、最初はランダム(でたらめ)な流れとして起こり、そこからだんだん緻密で整然とした流れになってゆくのだとか。
人間は、「もう生きられない=混沌」という嘆きを生きている存在である。人間であることの知性も理性も、そこを契機として生まれてくる。
その「もう生きられない=混沌」をもっとも豊かにそなえているものこそ、もっとも人間的であると同時に、もっとも神に近い存在でもあるのだ。
だから人類は、「この世のもっとも弱いもの」である子供や障害者や死にそうな老人を「神のそばにいる存在」として崇める歴史を歩んできた。
人間の知性や理性は、「弱いものを助け教育する」などといいたがる「強いもの」の側に立った人間にそなわっているのではない。「もう生きられない」という嘆きとともに生きている人間のもとにある。
人間は、「もう生きられない」と嘆いている「弱いもの」として生きようとする。そこにおいて、人は人にときめいている。
人間の「願い」や「祈り」は、「もう生きられない」と嘆いているところから生まれてくる。それは、知能が発達したものや悟りをひらいたもののもとにあるのではない。
この世のもっとも弱いものとしての文字を知らない人は、もっとも人間的であると同時に、もっとも神に近い存在でもある。そういうことを僕は、「愛を読むひと」という映画から教えられた。
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   5・人間社会の停滞
僕は内田先生のいう「弱いものを助ける」という正義ぶったへりくつはほんとにくだらないと思っている。
弱いものは内田先生に助けてもらわないと生きられないんだってさ。そして、「もう生きられない」という嘆きなんか持つなという。俺様のように悠々と生きてゆけるようにしてやる、という。
人間は根源において「もう生きられない」と嘆く生き物であり、人間からその嘆きを奪うことは誰にもできない。したがって、「助ける」というかたちは論理的に成り立たない。人間は、「もう生きられない」と嘆く弱いものであることから逃れることのできない生き物なのだ。「もう生きられない」と嘆くときにこそ、人間は人間であることができる。
弱いものを助ける強いものであることは、人間であることを喪失している状態である。
人間は弱いものを助けない。たがいに弱いものとして連携し結束しようとする。だから人間は、避けがたく大きな集団をつくってしまう。
人間の集団は、根源的には、強いものが弱いもの助けるというような停滞した構造にはなっていない。人間の能力は、集団の能力である。集団として強いのであって、弱いものを助けることのできる強いものがいるのではない。根源においては、そういうことだ。
たとえば猿が、見ず知らずのものたちがひとつのスタジアムに何万人も集まって仲良くするということなんかできないだろう。なぜなら猿は、つねに強いものと弱いものという関係をつくっているから、そんなことをいちいち確認し合っていたらきりがないし、その関係を確かめられないことの不安で発狂してしまう。猿は、その関係を確認し合えるレベルでしか群れをつくらない。
しかし人間の集団は、ひとまずみんなが「弱いもの」だという前提の上に成り立っているから、そういう力関係を確かめ合おうとしないし、確かめられない不安もないから、ひとまず無限に大きな群れをつくることができる。
人間の集団に、「強いもの」など存在しない。
強いものは、強いものであることをつねに確かめようとするし、確かめることによって強いものであることが自覚できる。いいかえれば、確かめられる範囲でしか弱いものを助けようとしない。だから、アメリカにはホームレスがたくさんいる。
強いものが弱いものを助けるというコンセプトでは、大きな集団になると必ずそういう矛盾が露出してくる。
強いものは、自分が強いものであることを確認するために弱いものを助けようとする。それは、近代の人間社会が捏造した偽善だ。
人間の集団はもともと弱いものどうしの集団だから、そういう「強いものと弱いもの」とか「助けるものと助けられるもの」という関係が存在しない。そういう停滞した集団ではないのであり、安定してりゃいいというものではない。そうやって強引に「強いものと弱いもの」という構図で停滞させていちおうの安定をつくっても、必ず矛盾が生じてくる。
原始人や古代人が老人や身体障害者を介助していったのは、同じ弱いものどうしとして一緒に生きようとしたのであって、上から目線で助けてやっていたのではない。彼らは、障害者や老人や乳児を「神の子」として崇める視線を持っていた。
すべての人間が「もう生きられない」と嘆いている「弱いもの」なのだ。
それはもう人類社会の普遍的な伝統であり、われわれ現代人だって、つまるところ無意識的には、「弱いもの」どうしとしてスタジアムに集まっているのだ。
人間は、内田先生のいうような「弱者を救済する」とか「弱者を教育する」などという傲慢な本性は持っていない。
人間は、根源的には、誰もが「もう生きられない」という嘆きを抱えた「弱いもの」である。この生は、そこからはじまる。
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   6・献身するということ
つまりさ、「この世のもっとも弱いもの」に対する人間の普遍的な態度というのは、「助けてやる」とか「教育してやる」とか、そういうことじゃないのですよ。
「この世のもっとも弱いもの」を神のそばにいるものとして崇めてゆくことの上に、人間性および人間の集団性が成り立っている。そのようにして、人と人は結束してゆく。
この社会の勝者が「弱いものを助け教育する」といって自分を正当化しているかぎり、人と人が結束できる社会にはならない。
どんな社会であれ、普遍的根源的な人の心の動きとしては、誰もがたがいに弱いものどうしであると自覚し、「この世のもっとも弱いもの」にひざまずいてゆく気持ちを共有してゆくところで人と人が結束しているのだ。そうやってスタジアムに人が集まってきているのであり、人間であれイヌやネコであれカラスであれ、そうやって生まれたばかりの子供を育てようとしているのだ。
生き物は、弱いものに対して「献身」してゆく態度を本能として持っている。助けてやるとか教育してやるなどといっていると、必ず矛盾が生じてくる。それは、生物学的に間違っている。こんな薄っぺらなことをいってうなずき合っている人間が大勢いる世の中だから、いつまでたっても自殺する人が減らない。
人間の知性も理性も冒険心も美しいものに対する感動も人に対するときめきもしなやかな体の動きも、この世の「弱いもの」として「もう生きられない」という嘆きを身体化しているもののもとにある。
心も体も、「生きられるかどうか」という問いのレベルで深く豊かにはたらくのだ。
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   7・鈍感な人間にステレオタイプな道徳論を押しつけられると、ほんとにうんざりする
内田先生のだめなところは、生きることに追いつめられていないところにある。自分を免責し正当化するためになされる思考も行為もやさしさも、たかが知れているのだ。
まあ内田先生が何を言おうと勝手なのだが、そのたかが知れている脳みそにしてやられている善男善女がたくさんいるという現実が問題なのだ。彼らはつまるところ内田先生と同じ人種であり、この現実はそうかんたんには変わらない。しかし、変わりつつある気配がないわけでもないとも思う。
変わりつつあるから、その気配に苛立った彼らの声がかまびすしくなり、「弱いもの」たちが必要以上に追いつめられてしまう世の中になっているのかもしれない。
近ごろ、妙に傍若無人な老人が多いじゃないですか。それはその象徴かもしれない。ふだんは善良な小市民が突如鬼のようなクレーマーに変身することも多い世の中だし。
まあ僕も内田シンパからはあれこれクレームをつけられてきたが、こっちは彼らほど善良で安定した小市民然として生きているわけではなく、内田先生以下おまえらよりは支払うものは支払って生きてきた、といいたい思いはないわけではない。
先生ほどには自分のことをむやみに語りたがる趣味はないですけどね。
何はともあれ、おまえらの「願い」や「祈り」なんか、屁みたいなものだ。
内田先生みたいなアホよりも、文字を知らない人から学ぶことの方がはるかに多い、とつくづく思う。彼らがどれほど深く豊かに世界や他者に反応し(ときめき)、彼らの願いや祈りがどれほど切実であるかということは、おまえらみたいな鈍感なアホにはわからない。
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社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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