このところずっと、この前見た「愛を読むひと」というドイツ映画のことを考えている。
ネアンデルタール人のことと関係ないとは思わない。
ドイツ人というか、北ヨーロッパゲルマン民族は、もっとも正統的なネアンデルタール人の末裔だと僕は思っている。
感動的なすばらしい映画だったからではない。とても印象的なシーンはたくさんあったが、物語としては何もカタルシスがなく、後味の悪さばかりをずっと引きずっている。
戦争の悲劇、などといわれても、戦後生まれの僕にはよくわからない。
悲劇は、この平和な世界においても、いたるところで起きている。
この国においては、年間の自殺者が3万人以上という事態が、もう14年も続いている。
平和な時代の彼や彼女が好きな相手と一緒になれないことだってじゅうぶんに悲劇であり、いつの時代においても、人は人を死ぬほど好きになってしまったりするのだ。
この映画の原作のタイトルは「朗読者」というらしく、実際は、女に本を読んであげた男が主人公で、彼のドイツ人としての苦悩が主題になっているのかもしれない。
しかし映画の印象としては、最初から最後まで画面に出ていた男はたんなる狂言回しで、途中から登場して途中で消えていった女の誇り高い豊かな感受性やかなしみの鮮やかさばかりが際立っていた。
この映画の監督だって、原作のストーリーをひとまず踏襲しながらも、女を描くことに主眼があったのかもしれない。
映画のラスト近くで、刑務所に面会に行った男から「罪を悔いているか?」と詰問された彼女が「そんなことをしても死者はもう帰らない」とつぶやくシーンが、すべてをあらわしている。男は、自分の身勝手な感傷や安っぽい正義感ばかりが空回りして、ナチスの収容所の看守として歴史の当事者になってしまったかなしみと「どうして私が謝らないといけないのか」という彼女のやりきれなさなんかついに理解できなかった。
また、彼女が刑務所で首を吊って死んだあと、この事件の原告で、いまはニューヨークのセレブとして成功しているユダヤ人の女も、彼女を許してやってくれという男に対して「あなたたちが贖罪のカタルシスを得るためのお手伝いをするつもりはない」と言い放つ。
この男は、この期に及んでも、「私がどうして謝らないといけないのか」といっていた彼女の気持ちをまだわかることができなかった。
彼女の代わりに謝りにゆくなんて、よけいなことだ。
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あくまで懺悔するドイツ人とあくまで許さないユダヤ人と、この不毛な関係は永遠に続けなければならないのだろうか。
たぶんユダヤ人は、あと2000年は忘れない。この世に国家というものが存在するかぎり忘れないのかもしれない。それは、文字を持ってしまった人間の不幸かもしれない。文字が忘れさせてくれない。
「永遠に許さない」というユダヤ人の態度が正しいのかどうかは、僕にはわからない。
ただ、文字を持たなければ、加害者も被害者もそのことは忘れて「いまここ」だけを生きようとする、ということだけはいえそうな気がする。
文字が、忘れさせてくれない。
どちらも忘れてしまった方がいいに決まっているのに、文字が忘れさせてくれない。それは、パンドラの箱を開けてしまった人類の不幸だ。
キリストが「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」といったように、それでも人類は許さなければならないのかもしれない。
しかし、ユダヤ人に「許してやれ」という権利は誰にもない。そしてユダヤ人が忘れないかぎり、われわれも忘れるわけにはゆかない。
文字を持たなければ、許すことができるし、謝るという態度も生まれてこない。
文字を持たない人は、「いまここ」だけを生きている。もちろんその事実の記憶が消えるはずもないが、「裁く=許さない」とい態度はとれないし、「謝る」という態度も取れない。
「忘れない」とは「裁く」ということ、ユダヤ人は、永遠にドイツ人を裁き続ける。
裁くとは、未来において贖罪せよと迫ること。
謝れ、と要求して、謝るのは、次の瞬間に起きることである。「いまここ」ではない。それは、「伝達」するという行為である。伝達されて、次の瞬間=未来において謝るという行為が起きる。
しかし、文字を持たない人は、文字による伝達という手段を持っていない。
音声としての言葉は、世界や他者に対する「反応」として生まれてくるのであって、根源的本質的には、「伝達」ための機能ではない。文字を持たない人は、そのことをよく知っている。
文字を持たない人は、世界や他者に対する反応が深く豊かである。それほどに、「いまここ」を切実に生きている。
「裁く」とは、おまえはこの先の人生を「罪人」として生きてゆけと要求・命令することである。文字を持たない人には、そういう未来意識がない。他者に対しても自分に対しても、「この先の人生」という未来などイメージしない。
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この映画で、別れる直前の少年と彼女とのベッドでの激しい痴話げんかのとき、「謝るのはいつも僕だ」という少年に対して怒った彼女は、「誰も謝る(apologize)必要なんかないわよ」といい、枕元にいつも置いてある分厚い本をベッドに投げ出し、「戦争と平和よ、坊や」と吐き捨てるようにつぶやく。
この会話が物語の重要な伏線になってゆくのだが、このセリフをあえて彼女にいわせた監督と脚本家は、永遠に「許さない=謝る」の関係なんか続けていても不毛だ、それを超えてゆくしかない、という思いがあったのだろう。
彼らは、あくまで謝罪にこだわりドイツ人として許しを乞う知的エリートである男の罪の意識と、文盲ゆえにその地平を超えていた彼女の深いかなしみとの対比を表現したかったのかもしれない。
この物語において彼女に自殺させることが、ドイツ人の良心だったのだろうか。
まさしく、「戦争と平和」なのだ。戦争の狂気は、ユダヤ人だって持っている。パレスチナを迫害する現在のイスラエルが、ナチスの犯罪より理性的で正しいといえる根拠がどこにあるのか。ナチスほどじゃなければ、何をしても許されるのか。正義などというわけのわからないものを物差しにして許すの許さないといっていたら、けっきょくそういうことになる。
この男にいわせると、彼女は、ナチスの犯罪に加担したことと、戦後はひとりの少年を誘惑して人生を狂わせてしまったことの自責の念に追いつめられて死んでいったんだってさ。
冗談じゃない、悪いけど僕は、「どうして私が謝らないといけないのか」という彼女の態度は、神のように高潔で美しいと思う。少なくともこの映画の中の彼女は、誰よりも深くかなしみ、誰より深く豊かに世界や他者にときめいていた。誰だって、人間ならそのような存在でありたいだろう。彼女の存在こそ、人間であることの最後の尊厳であり希望ではないのか。
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