1・あくまで「追いつめられる」ということを考えるなら
承前
ひとまずここでは自殺の問題を考えている。
おまえは死ぬか生きるかの瀬戸際に追いつめられたことがあるのか、と聞かれれば、まあ「イエス」と答える資格は僕にはない。だいいち、まだ死んだことがない。
それでも人間はみな死ぬのだし、誰だってこのことは考えさせられてしまう。それに、僕はもう、すでに明日死んでもおかしくない年齢にさしかかっている。
たしかに僕はのうてんきな人間ではあるが、年寄りがこの問題を考えたら悪いのか、と居直るしかない。
少なくとも内田樹先生なんかよりは僕の方がずっと深く遠くまで考えている、という自信くらいは持っている。
このブログをはじめて満5年がたったが、どんな問題であれ、つねに弱者として「生きられるかどうか」という問いのレベルで思考してきたつもりである。内田先生のように「いかに生きるべきか」というおちゃらけた問いをまさぐり続けてきたのでは断じてない。
日本列島は、海という自然の国境というかそうした他の国との緩衝地帯を持っているから、他の国と競争したり争ったりする必要がなかった。だから、「いかに生きるべきか」と問うて競争する能力を獲得してゆくメンタリティが育たなかった。
日本列島住民の問いは、つねに原初的な「生きられるかどうか」というレベルにあった。
日本列島には、「いかに生きるべきか」と問う文化はなかった。それは、明治以降の西洋文化によってもたらされた問いである。
明治以降のこの国は、この問いと向き合いながら西洋を追いかけていった。そうして戦後は、この問題意識に徹底することによって西洋を追い越し、バブル経済の繁栄を達成した。
バブルがはじけた今となっても、この問題意識に骨の髄まで浸されている人種は「勝ち組」としてまだまだたくさん残ってこの国を動かしている。そうして若者や弱者たちがついてこないことに苛立ってというか、もはやそういう問いで生きる時代ではないという現在の状況に苛立って、さかんに若者や弱者を「いかに生きるべきか」と問うて生きよと扇動し教育しようとしている。
現在の大人たちや勝ち組のものたちは、「いかに生きるべきか」という問題をすでに解決しているつもりでいる。これも、バブル時代の遺産かもしれない。あのころの繁栄を謳歌していた日本人たちは、そういうつもりで生きていた。
解決しているつもりでいるから、声高に扇動し教育しようとしてくる。そういう現在の状況から追いつめられている人間がたくさんいる。去年も年間の自殺者が3万人を超えたというのは、そういうことではないだろうか。
人は、「いかに生きるべきか」という問いに追いつめられて、みずから死を選ぶ。
心正しく清らかであらねばならないとか、幸せであらねばならないとか、健康であらねばならないとか、家族や仕事を持たねばならないとか、この社会に勝ち組がすでに獲得しているそんなものを誰もが目指さねばならないというお約束があるのなら、若者や弱者は絶望して「もう生きられない」とか「生きていたくない」と思うしかない。
もともとこの国は、この生やこの世界を「あはれ」とも「はかなし」とも嘆きながら歴史を歩んできたのであれば、「もう生きられない」という嘆きもかんたんに起きてくる風土なのである。
われわれ日本列島の住民は、この生を嘆きつつ薄氷を踏むように生きながら、そこから生きてあることの醍醐味を汲み上げてきたのだ。誰にも煩わされない海に囲まれた島国だからこそ、そんな生き方の文化をはぐくむことができた。
「もう生きられない」という嘆きが露出してきた時代である。この嘆きを携えながら「生きられるかどうか」と問うてゆくのが、この国の生きる流儀なのだ。
「もう生きられない」という嘆きを大切にする文化風土なのに、現在は、生きられることなんか当たり前だから「いかに生きるべきか」と問え、と迫ってくる社会の状況になっている。バブル時代はそれで通用したが、今やもう、そんなことをいっていたらどんどん敗者や弱いものを追いつめてしまう時代なのだ。
情緒的な言い方を許していただくなら、僕は、「もう生きられない」という嘆きは美しいと思う。「いかに生きるべきか」というスケベったらしい問いよりもずっと。
人間はほんらい、「もう生きられない」という嘆きからカタルシスを汲み上げながら生きる存在であり、幸か不幸かこの島国では、そうした人間性が純粋培養されるというか、そうした原初的な人間のかたちがむき出しになってしまう宿命を負っている。
西洋の近代のようには生きられない民族が西洋の近代のように生きてしまった矛盾がここに来て露出してきた、ということだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   2・愛を読むひと
GyaOという無料映画のサイトで、「愛を読むひと」という映画を見た。
ベストセラー小説の映画化で、興味深いスト−リーだった。主演女優も魅力的だったし、ナチスの犯罪裁判というモチーフを下敷きにしたいちおう「感動大作」なのだが、しかしそれでも、人間というのは因果な生き物だなあと、ひどく後味の悪い思いにもさせられた。
ちょいとややこしい話なので、ここに映画のあらすじを書いてみる。これから見ようと思っている人は、この先を読まないでいただきたい。
______________
1958年の西ドイツの地方都市から物語がはじまる。
15歳の少年と36歳の孤独な独身女性が出会い、恋に落ち、関係を持つ。
この女性は、市内電車の車掌をしている。彼女は、ベッドの中で少年に本を読んでもらうことを心の底から愉しみにしていた。同時に、けっこう気が強くて美人でもあった。孤独で誇り高く感受性の豊かな女性、といったところだろうか。
しかしその関係は、彼女が突然姿を消して数カ月で終わった。
数年後、少年はベルリン大学の法科に進み、その実習授業としてナチスの戦犯裁判の傍聴をすることになり、そこで彼女と再会する。
彼女が、裁判の被告としてあらわれたのだ。
彼女は、戦時中、ナチスユダヤ人収容所の看守として働いていた。そこでガス室送りになる人間を選別するとか、いろいろとそういう仕事の内容が暴き出されるのだが、裁判官の尋問に彼女は、同じ被告席にいる数名の同僚女性とは違ってごまかしたり嘘をいったりすることなく、すべて率直に答えてゆく。つまり、私は与えられた仕事を忠実に果たしただけで、ほかにどんな態度の選択肢があったというのか、という。彼女は、ユダヤ人収容者のことを「囚人」という言葉を使った。囚人として扱う仕事を与えられたのだから、囚人として扱うしかないではないか、という。
彼女はほかの看守よりもユダヤ人たちにやさしかったのだが、その態度と美貌のために看守仲間から孤立していた。
そこで、有罪の決定的な証拠となる、看守が作成した書類が提出される。
ほかの看守仲間たちは、彼女が責任者としてその書類を書いた、と証言した。
もちろん彼女は、そんな書類の存在すら知らない、と否定した。
で、筆跡鑑定をするから字を書いてみろ、と迫られる。
しかし彼女はじつは読み書きのできない文盲で、そのことを衆目の前にさらすことは彼女の誇りが耐えられないらしく、「私が書きました」と、最後の最後で嘘をつく。
けっきょく彼女は、数年の懲役刑のはずが、特別に20年の刑が言い渡される。
そのとき傍聴席にいた元恋人の大学生は、もちろん彼女の文盲のことを知っていたし、それを証言することもできた。
しかし、彼女の誇りを守るべきかどうかと悩んで、ついに証言を申請することができなかった。
卒業後、男は弁護士と出世して結婚もするのだが、ひとり娘が5、6歳になるころに離婚してしまう。
彼女に対する忘れられない思慕、ついに証言することができなかった法律家としての罪悪感、さらにはナチス戦犯に恋をしてしまったという一ドイツ人としての後ろめたさにも苦しめられ、もはや彼は、人と親しく交わることのできない人間になっていた。
離婚してひとりになると隠されていた彼女への思慕が解き放たれ、むかし彼女に読んでやった本の朗読をテープにとって刑務所の彼女に送ることをはじめた。まるでそれが生きがいであるかのように、どんどんテープに吹き込んで送っていった。
彼女はある日、その録音テープと元になる本を照らし合わせながら字が覚えられることに気づき、独学で字を覚えてゆき、その成果として、次々に彼に手紙を送った。今度はこんな本の話が聞きたい、とか、返事を下さい、とか。
しかし彼は、テープは送ることができても、ついにその返事は一度も書けなかったし、面会に行くこともしなかった。
彼女が出所する1週間前、彼は、身寄りのない彼女の身元引受人になることを刑務所の職員から頼まれ、はじめて面会に行って20数年ぶりの会話を交わす。しかし、もはやかつての親密な関係が戻ることはなかった。人に対して心を開くことのできない彼の態度は終始ぎこちなく、そっけなかった。
で、絶望した彼女は、出所する前に首を吊って死んでしまう。
______________
戦争の悲劇といえば、まあそういうことなのだろうが、僕は戦争なんか知らないから、どうしても男と女の関係、人と人の関係、として読んでしまう。
まず僕は、ドイツ人というか北ヨーロッパゲルマン民族は生粋のネアンデルタール人の子孫だろうと考えているからわりと好きなのだが、この映画を見て、彼らの「原則主義」というのもやっかいなものだなあとも思ってしまった。
この、一流弁護士として優雅な暮らしをしている男の苦悩は、共同体の一員としてのいわば大人の苦悩である。
戦後のドイツ人は、みずからの手でナチスの戦犯を徹底的に探し出し裁いていった。それが、ドイツ人がみずからに課した「原則」であり、それを徹底的に遂行していった。
それはとても誠実な態度だが、しかしドイツ人にナチスを裁く資格があるのだろうか。わるいけど僕は、ドイツ人みんなが同罪だと思う。責めているんじゃない。みんなでそういう歴史の運命をかなしめばいいだけだろう、と思う。
「ドイツ人の罪の意識」というのがこの映画のもっとも重要なテーマのひとつで、このテーマの上にこの二人の愛の物語が成り立っている。
もしも彼がそのとき、彼女が文盲であることを証言したらどうなっていたか。彼女の刑は3、4年ですんだ。そうして彼が、刑務所の彼女に面会に行って謝れば、彼女はきっとそれを許しただろう。なぜなら彼女は、もはや人を許すことでしか生きられない人間だからだ。
罪を犯してしまった人間は、すべてを許す神のような存在になる。少なくとも彼女はそういう人間であり、映画の中でもそのように描かれていた。
二人が出会ったころの彼女は、読めもしないトルストイの「戦争と平和」という分厚い本を聖書代わりとして枕元に置いていた。それは、すべてを神のように許す、という彼女の祈りと決意の証しだったのだ。
しかし男は、原則主義のドイツ人としての限界を引きずったまま、彼女がたどり着いたその世界に踏み込んでゆくことはついにできなかった。
それで感動せよというのも虫のいい話である。西洋人なら男のその苦悩を理解できるのかもしれないが、僕は、身勝手ないけすかない男だなあと思っただけである。
彼女だって同じドイツ人なのである。しかも、誰よりもドイツ女らしいドイツ女なのだ。犯罪者でただの文盲でしかない無学な彼女にできたことが、法律家として正義の側に立つエリートのインテリであるそのドイツ男にどうしてできなかったのか。
僕は、人間の正義を守ろうとするこの映画で、正義というものの限界を見た。人間であることの最後の尊厳を彼女に教えられ、正義の側に立つこの男に失望した。
戦後のドイツ人が、みずからを免責し正当化できる存在になるためには、徹底的にナチスの戦犯を裁く必要があった。彼らは、みずからを免責し正当化できる存在になるためにはどんな努力もするし、どんな我慢もする。それが、ドイツの原則主義である。自分の権利は徹底的に守るし、他人の権利はけっして侵さない。その場のなりゆきで譲り合うとか、そういう融通がきかない。
だから彼は、文盲であることを隠す彼女の権利を侵すことができなかった。
ドイツ人は、セックスに耽溺する情念は深く豊かだが、フランス人のようなおしゃれな恋はできない。彼らは、セックスに生きることはできるが、恋に生きることはできない。
その男にとって彼女は死ぬまで忘れられない女性であるのに、ドイツ人として彼女を許してはならないという強迫観念も重くのしかかっていた。
ドイツ人としてナチスの罪の償いをしなければならない、という強迫観念。
彼はたしかにドイツという共同体の一員ではあるが、戦争のときは、生まれたばかりの子供だったのである。その彼が、なぜそんな罪の意識を引き受けなければならないのか。これが、ドイツ人の原則主義であり、ヨーロッパ人の「大人の公共心」というものなのだろう。
ナチスの罪を徹底的に裁くことは、戦後のドイツが世界の国々との友好関係を取り戻すための大切な手続きだったにちがいない。しかしそれはそれ、だからナチスのしたことに罪があったかどうかということは、ほんとうは誰にもいえない。神は許しているのだ。
であればもう、人類が遭遇した歴史の不幸として、みんなして深くかなしむこと以外にどんな態度が残されていようか。
僕は、ドイツを許さないユダヤの正義も、あくまで懺悔するドイツの誠実さも認めない。そして、正義の「勝ち組」であるこの男の苦悩なんか、ぜんぜん感動しない。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   3・日本列島の場合
日本人には、西洋人のような公共心はない。あの侵略戦争のことにしても、東京裁判でひとまず「みそぎ」は終わったと思っていた。だから多くの左翼インテリがどんなに扇動しても、ほとんどの日本人が天皇の戦争責任を追及する気なんかさらさらなかった。自分たちに天皇を裁く資格はない、と思っていた。
われわれの心の底には、誰だってはかなくも生きにくいこの生を生きている、という思いがある。だから、人を裁くということが徹底しない。「人間は免責された存在あらねばならない」という「原則」を持っていない。
「免責」されているかいないかという物差しがない。つまり、西洋人のような「原罪意識」
というものがない。
われわれは、「この生は生きにくいか否か」と問う。誰もが罪を負った存在だと考えるのではなく、誰もが生きにくい生を生きている、と考える。罪を悔いるのではなく、この生の「あはれ」や「はかなし」を嘆く文化である。
日本列島は「罪の文化」ではなく「恥の文化」だ、とよく言われるが、それは江戸時代の儒教道徳が混在したもので、ほんらい的には「嘆きの文化」なのだ。
この生やこの世を「あはれ」とも「はかなし」とも嘆いていた中世や古代には、それほど「恥」の意識はなかった。
一般的いわれている意味での「恥辱」は儒教道徳から来ているもので、罪の意識とそう大差はない。それは、いかにも日本的な「はにかみ」とはまた別のものだ。
「恥を知れ!」というときの「恥の意識」は、僕はむしろ西洋人の方が持っているように思う。
でも日本人には、人を裁くことに対する「はにかみ」がある。それは、誰だってつらくはかない憂き世を生きている、という「嘆き」を通奏低音として共有しているからだ。
いや、かつては共有していた、というべきだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・
   4・すべてを許すということ
ようするに「公共心」持っているかいないかの差かもしれないが、世の中から孤立していたこの映画の主人公の女性もまた、公共心を捨てて、ある意味で「あはれ」や「はかなし」の世界観を生きていたともいえる。
戦争が終わるまでの彼女は、誰よりもドイツ人らしいドイツ人としてその「原則主義」を貫いていった。だからこそ、そこから反転していった何かがあったのだろう。
彼女の孤立性は、罪の意識だけではすまない何かを見てしまった。だから、誰よりも率直に包み隠さず答弁した。その態度を「鬼のようだ」と思った学生もいたらしいのだが。
最後の出所1週間前に訪ねてきた男に「悔い改めているか?」というようなことをいわれたときに彼女はこう答える、「そんなことをしても、死者はもう帰らない」と。この言葉は、重い。償いたくても償いようがないじゃないか、といっているのだ。
これは、ネアンデルタール人の思想である。彼らの母親は、自分が産んだ子供の半数以上が死んでゆき、それでも産み続けねばならないという状況に置かれていた。そんな状況で、いったいどのように「子供を死なせた」という罪が償えるのか。半分以上の確率で死んでしまうはずの子供を産むという罪を、いったいどのように償えるというのか。
「死んでしまった人間はもう戻らない」という事実を深くかなしむ以外にどんな方法があるというのか。
それとも、現代人のように罪を償ってかなしみを消せばいいのか。
かなしまない人間になることが、死者に対するとるべき態度なのか。
罪を償って身軽になるよりも、どこまでも深くかなしみ続けて生きる以外にないではないか。
西洋社会は、罪を償おうとする。しかし彼らの祖先であるネアンデルタール人は、かなしみ(嘆き)続けて生きることを選択していた。かなしむ以外にどんな方法もない、と深く自覚していた。誰も罪は問われなかった。
現在における赤ん坊の育て方に失敗して死なせてしまった母親だって、「自分が殺した」という罪の意識にさいなまれることだろう。現代社会は、人に罪の意識を持つことを強いる構造になっている。それでいいのか?そんなわけにはいくまい。深くかなしみ続けて生きる以外のどんな方法もない。その母親が死んでしまったら、赤ん坊の死をかなしむ人もいなくなる。
   5・何が彼女を追いつめたのか
この映画の主人公だって、彼女がユダヤ人を殺したわけではない。死なせてしまっただけだ。そして死なせてしまった人の最後の姿を記憶しているのは、彼女しかいない。その死んだ人がこの世に生きていたという痕跡は、彼女の中に刻まれている。彼女はそれを、どう引き受ければいいのか。彼女を裁いて共同体が免責されるという原則さえ守ることができれば、彼女の内面なんかどうでもいいのか。
部外者は、彼女を裁くだけで、彼女のかなしみを斟酌しなくてもいいのか。裁判官はともかく、彼女の恋人であるその男までそんな態度でいいのか。
その男はけっきょく、その両方の心のあいだで揺れ動きながら、彼女を裁くということときっぱり決別することができなかった。ドイツ人の「原則主義」ゆえに。
彼女は、収容所においても、体の弱い娘はとくに目をかけ、自分の部屋に呼んでベッドと食べ物を与え、本を読んでもらうということをしていた。
そんなことをしていたのだから、死者にたいするかなしみは、いっそう深いものになっていたにちがいない。
彼女はもともとその美貌や独立心の強さや感受性の豊かさによって共同体の制度から外れた孤立的な存在だったから、罪を償って自分を免責しようとする制度的な意識は希薄で、ひたすらときめき深くかなしむ人間だったのだ。戦後の彼女は、罪ではなく、かなしみ(嘆き)を背負って生きてゆこうと決意していた。
そういうことに、この男はどうして気づくことができなかったのかと、映画を観終わったあと僕は、ひどく後味の悪い思いにさせられた。
……
出所一週間前に訪ねていった男は、「むかしのことを思いだすかい?」と聞く。
彼女は「わたしたちのこと?」と聞き返す。
いやそうじゃなく、と男は前置きして、「この刑務所で(自分の罪について)何かを学んだか?」と詰問する。
で、彼女は、さびしそうに笑って「字を覚えたわ」とはぐらかす。
「出所後のアパートの近くには図書館があるから本も読めるよ」と男がいう。
彼女は、「読むよりも聞く方が好きだわ」と答える。もう一度男に読んでもらえるかというかすかな期待を込めて。
しかし男は黙る。
「それはもう終わりなのね」と彼女は静かに納得する。
……
まったく、よくこんな残酷な態度がとれるものだ。これが、ドイツ人の「原則主義」というものか。
普通の日本人だったら、「もう忘れよう」のひとことですませる。わざわざ相手の傷口を広げてのぞきこむようなことはしない。
この男も、しょせんはただの共同体の側の人間で、彼女を追いつめていった一人だったのか。おまえの勝手な感傷と勝手な罪の意識に彼女は追いつめられて死んでいったんだぞ、これだからドイツ人は恋ができないんだ、といいたくなってしまう。
彼女は、共同体の制度に追いつめられるほどやわな人間ではなかった。しかし1対1の人と人の関係にはとても傷つきやすい人間だったし、深くときめいて献身的になれる人間でもあった。
そういうシーンは、何度もあった。たとえば、少年と会うのもこれが最後だと覚悟を決めた彼女が、風呂場で少年の体を神経質な顔をしてちょっと乱暴だけどものすごく丁寧に隅々まで洗ってやるシーンは、さすがに僕も泣けた。女優の演技も上手かったし。
そんな彼女が、出所を明日に控えて刑務所で首を吊って死んでいかねばならなかったなんて、僕は全然納得できない。彼女は、自分の犯した罪に追いつめられたのじゃない、男の身勝手な感傷と罪の意識に追いつめられたのだ。
ラストシーンでは、男が彼女との思い出の地で自分の過去を娘に告白するのだが、そんなシーンなど僕には感動的でもなんでもなく、こういうことを戦争が生んだ悲劇として回収してしまうこの男や映画の作者たちの思考態度に、軽いいらだちを覚えた。日本人からしたら、その公共心こそ身勝手だ。
ドイツ人だからしょうがないのだろうが、その「原則主義」は何かエゴイスティックで、どうしてもついてゆけない。日本人からしたら、彼女を前にした状況に立てばもう自分の苦悩なんてどうでもいいじゃないかと思うのだけれど、ドイツ人にとってはそういうものでもないらしい。
しかし彼女は、少なくともこの男よりは自立して共同体を対象化し、人間の普遍に届く視線を獲得していた。この男こそ、もう一度彼女とちゃんと向き合って、彼女から学ぶべきだった。
僕は、ヒットラーナチスを生んだドイツ人に罪の意識を要求するつもりなんか、さらさらない。そんなものは歴史の「なりゆき」なんだもの。世界中が一緒に人間としてかなしむことができればいいだけだろう。
ましてや、彼女のような下っ端の看守を裁いたってしょうがない。ひとりの人間としての立場に立って見るなら、彼女の罪なんか問えない。ただもう、歴史の当事者になってしまった不幸があるだけだ。
彼女は、相手の男だけはその不幸を一緒にかなしんでもらえると期待した。人間だもの、女だもの、そんなテープが送られてくれば、どうしたって期待してしまうさ。
そんなことをするのならついでに彼女の人生も丸ごと受け止めてやる覚悟をしろよ、といいたくなってしまう。これだから僕は、大人の男が嫌いなのだ。おまえの自己満足のために送っただけじゃないか。おまえの煩悶なんか、彼女からしたら、ただの子供のお遊戯でしかないことだろう。
正義の側に立つものは、自分を免責し、人を裁くということをする。自分を免責するために、人を裁く。
彼女は、共同体に裁かれることには耐えられても、好きな男に裁かれることには耐えられなかった。
いったいその上から目線は何なのだ。戦争の悲劇だ、などといって気取ってんじゃないよ……この映画で僕は、日本人であれドイツ人であれ、世の中の「勝ち組」というクラスに属する人間の底の浅さを、つくづく思い知らされた。
彼女を追いつめ死なせたのは、戦争じゃない。おまえだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/