1・集団の結束のダイナミズム
集団からいつもはぐれて落ちこぼれして生きてきた僕がこんな問題を語るのもなんだかおかしな話だが、ネアンデルタール人について考えることは、とどのつまり「集団の結束はどのようにして生まれるか」と問うことである。
人間の集団性の原点がここにある。
「集団的置換説」の研究者たちは、ここから何も学ぶ能力がないから、短絡的に「ネアンデルタール人は滅んだ」などといって平気な顔をしていられるのだ。
4万年前の氷河期のそのころ、北ヨーロッパネアンデルタール人は、地球上でもっとも大きな集団をいとなみ、もっとも集団として結束してゆく能力を持っていた。
したがって、そんなネアンデルタール人が、アフリカからやってきたホモ・サピエンスの集団に駆逐されるということなどは論理的にあり得ない。
そのころアフリカのホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人とは逆に、地球上でもっとも集団の結束をつくることが苦手な人種だったのである。そしてその伝統は現在まで続いて、アフリカの国家建設は遅々として進まない。
なんのかのといっても、人類の国家という共同体を建設する能力の地域的な差異は、4大文明発生以来の5千年か6千年の歴史で説明がつくことではなく、数十万年の伝統の違いとしてあらわれているのだ。
もしも、四大文明が発生した地域にもっとも豊かな集団性の伝統があるのなら、現在の国家としての成熟度もそのままのはずである。
しかし近代以降の歴史においては、北ヨーロッパにおいてもっとも成熟した国家群があらわれた。それは、北ヨーロッパこそもっとも豊かな集団のエネルギーを生み出す歴史的な伝統があったことを意味する。
その伝統は、50万年前の人類が氷河期の北ヨーロッパに住み着いていったところからはじまっている。
彼らの集団能力は、人類が生きられるはずのない極寒の地で、それでもみんなで寄り集まり結束して生き残っていったところから生まれてきた。人類の集団の能力は、そこで育っていったのだ。
現在の北ヨーロッパの国家群は、そういう伝統を持っている。現在のイギリスやフランスやドイツは、50万年前からそこに人が住み着き、寄り集まり結束して生きてきたという歴史を持っている。
氷河期明け以降の歴史にどんな紆余曲折があったにせよ、北ヨーロッパにもっとも成熟した国家や都市が出現することは、歴史的な必然だったのだ。
いいかえれば、4大文明の地がそのまま世界の最先端を歩みきることができなかったのも、北ヨーロッパほどには歴史的成熟を持っていないからだ。
そうしてホモ・サピエンスが発生したアフリカの中央部にあっては、家族的小集団で移動生活を続けるという生態を数十万年ずっと続けてきたのである。このような環境からは、個人主義は発達しても、集団の結束が豊かになってゆく歴史は生まれてこない。
しかし北ヨーロッパにあっては、「もう生きられない」という環境のもとで、みんなで寄り集まり結束しながらけんめいに生き残ってきた。
集団の結束のダイナミズムは、「もう生きられない」という嘆きを共有したところから生まれてくる。これが、人間の集団性の根源のかたちなのだ。
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   2・「未来を見通す計画力」が歴史をつくってきたのではない
そういうせっぱつまった環境で生きることをくぐりぬけてきたことによって、現在の人類社会の繁栄がある。
「もう生きられない」という嘆きとともに人類は、歴史を切り拓いてきたのだ。
世の研究者のいうような「未来を見通す計画力」とか「知能」とかそんなものが契機になったのではない。そんな能力は、切り拓かれたことの「結果」としてもたらされたにすぎない。
文明というものがありがたいものかどうかはわからないが、ひとまず現代文明は北ヨーロッパに先導されてここまで発達してきた。
住みやすい温暖な地で発達してきたのではない。
原始時代に、住みやすい温暖な地で暮らしてきた人種(ホモ・サピエンス)が北ヨーロッパに移住していって先住民(ネアンデルタール人)を駆逐してゆくということなどあるはずがない。
人類史における集団の結束は、人類が生きられるはずのない厳しい環境である極寒の北ヨーロッパにおいて生まれ育っていったのだ。
人類史の成熟は、集団の結束から生まれてきた。「知能の発達」によるのでも「未来を見通す計画力」によるのでもない。「もう生きられない」という嘆きこそ人類の歴史を成熟させてきたのだ。
現代史における北ヨーロッパの成熟は、「もう生きられない」という状況を生きる歴史の伝統を長く豊富に持っていることにある。
集団は、「もう生きられない」という嘆きを共有しながら結束してゆく。
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   3・「もう生きられない」とは「腹が減った」ということ
ろくな文明を持たない原始人が氷河期の北ヨーロッパに移住してゆけば、どう考えても「もう生きられない」という嘆きとともに生きてゆくほかなかったにちがいない。生きられるはずがないのに生きていたのだ。
息をしなければ死んでしまう。飯を食わなければ死んでしまう。生き物とは、生きられるはずがないのに生きている存在であるのかもしれない。だから人間は、ネアンデルタール人のように、生きられるはずがない状況を生きようとする。
生きられるはずがない状況を生きて、はじめて生きた心地がする。すなわち「快楽」は、そこにおいて発生する。快楽とは、生きられるはずがない状況を生きることだ。
息をすることや飯を食うことそれ自体が、生きられるはずがない状況を生きることだ。そのカタルシスは、死にそうな病気をすれば、きっと体験できる。そのとき人は、生きられるはずがな状況を生きている。
生きるとは、生きられるはずがない状況に身を置きながらそれをを消してゆくいとなみである。
生きてあることは、生きられるはずがない状況においてはじめて知らされる。
意識は、先験的に「生きてある」と認識するのではない。まず「何がなんだかわからない=生きられるはずがない」というかたちで発生する。その状況を消去して、はじめて「認識する」というかたちになる。すなわち「生きてある」と認識する。「もう生きられない」という状態との対比なしに「生きてある」という認識が成り立つはずがない。
「認識する」とは、「わからない」という状態を消去することである。
生まれたばかりの赤ん坊は、何もかも「わからない」という状態から生きはじめる。そこから、その「わからない」を消去しながら、「認識する」という体験を積み重ねてゆく。
誰もが、この生は「わからない=生きられない」というところからはじまることを知っている。
それは、「なぜ?」と問い、「生きられるかどうか」と問うところから生きはじめるということだ。その問いを持たなければ、人は、生きてあることを認識することができない。
人は、「もう生きられない」という状況に立って、息をし、物を食う。その状況がなければ、息をすることも物を食うことも起きてこない。
だから人は、どうしても「もう生きられない」という状況に身を置いてしまう。そういう状況に魅入られてしまう。その混沌こそが、この生のはじまりのかたちなのだ。
つまり、自殺しようとする人が「もう生きられない」という心の状態に陥るのは、みずから進んでそこに飛び込んでいる、ということもある。
そこで自殺してしまうか、そこから生きはじめるかは、紙一重なのだ。
人は、どうしても「もう生きられない」と思ってしまう。それは、絶望であると同時に、希望でもある。
「腹が減った」と思うことは、「もう生きられない」と思うことである。
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   4・結束の原点は、人にときめくということ
原初の人類は、「もう生きられない」という状況に引き寄せられるようにして、地球上の生きにくいところ生きにくいとろへと拡散してゆき、とうとう氷河期の北ヨーロッパにたどり着いた。
「もう生きられない」という状況に置かれたとき、人と人は結束する。結束することは、「もう生きられない」という嘆きを共有することである。
「もう生きられない」という嘆きを持っているから、人は人にときめく。それは、自分を生かそうとする意識ではない。自分を生かそうとする意識を喪失している状態である。そうやって意識は、自分の外に向かい、世界や他者にときめいてゆく。
「生きようとする衝動」などというものは、生き物の本能でもなんでもなく、自分に執着しているだけの、たんなる自意識にすぎない。そういう自意識が消えている状態で、人は人にときめいている。
それに対して「いかに生きるべきか」と問うとき、意識はそのまま自分のところにとどまり続けている。人は、「いかに生きるべきか」という問いに追いつめられて世界や他者に対する関心や反応を失い、死にたくなってしまう。
結束するとは、ときめき合うことである。こういう関係は、「もう生きられない」と嘆いている状況(=環境)において、より豊かに起きてくる。
だから、氷河期の北ヨーロッパで暮らすネアンデルタール人こそ、そのころの地球上でもっともダイナミックに結束していたにちがいないのだ。
彼らは、生きるのに都合がいいようにという目的=計画があって大きな集団をつくっていったのではない、人と人がときめき合った結果として大きな集団になっていっただけである。
集団の結束のダイナミズムは、結束しようとする目的=計画から生まれてくるのではなく、「もう生きられない」という嘆きを共有してときめき合っていったところから生まれてくる。
「もう生きられない」という嘆きが、人類の歴史を成熟させてきたのだ。
なのにこの国の現在は、「いかに生きるべきか」と自分に執着してゆくことばかりが止揚される社会の構造になってしまって、「もう生きられない」と嘆く弱いものどうしがときめき合って結束してゆく関係を抑圧している。
「もう生きられない」という嘆きを否定すれば自殺がなくなるというものでもない。「もう生きられない」という嘆きこそが人を生かしているのだ。そういうことがわからない社会だから、自殺がなくならない。年間の自殺者が3万人を超えるという現象がもう14年も続いているというのに、まだわからない。いまだにバブル景気の余韻を引きずって、わからない大人たちがのさばっているからだろう。
少なくともネアンデルタール人もむかしの日本人も、ちゃんとわかっていた。「もう生きられない」という嘆きを共有しながら結束してゆく社会をつくっていた。
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   5・「いまここ」に深く気づく
なぜ人は、人との出会いにときめくのか。
「もう生きられない」という意識は、未来に向かうことをふさがれているから、「いまここ」に深く気づいてゆく。
ときめきとは、「いまここ」に深く気づいてゆくカタルシスのこと。
何はともあれ「いかに生きるべきか」と問うことも、自殺することも、未来に向かう意識だ。それは、「いまここ」の世界や他者に対する関心や反応を失っている状態であることを意味する。
「もう生きられない」と嘆くことによって人は、「いまここ」のこの生を深く味わいつくす。
「もう生きられない」とせっぱつまって、「いまここ」でこの生を完結させてゆく。
人間なら誰だって、心の底に「もう生きられない」という嘆きを抱えて存在している。その嘆きを携えて人と出会うからときめくのだ。それは、「いまここ」に深く気づいてゆく心の動きである。
「もう生きられない」という嘆きを心の底に抱えているから人は、美しいものにときめく。薄い氷の上を歩くように、「もう生きられない」と嘆きながら生きているのが人間なのだ。そのようにして人類は700万年の歴史を歩んできた。
未来の安楽な暮らしを求めて(計画して)歴史を歩んできたのではない。それは現代人の習性にすぎない。その物差しでは原始時代は測れないし、われわれ現代人の中にも、「もう生きられない」と嘆きながら「いまここ」をけんめいに生きてきた歴史の伝統は残っている。つまり、それこそが人間であることの基礎なのだ。
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   6・起源と究極
「もう生きられない」という嘆きは、「腹が減った」という嘆きである。それが、人間であることの原点であると同時に究極でもある。
だから、ただのヤンキーのおねえちゃんが一流の知識人よりずっと高度な人間の普遍に対する視線を持っていたりする。
僕は、世の中の哲学者がこむずかしい言葉を並べてもっともらしいことを語っても、あまり信用しない。
人間であることの究極のかたちは起源のかたちでもあり、われわれは、その狭間の紆余曲折を生きている。だから、われわれの物差しでは、起源も究極も語れない。
「いかに生きるべきか」と合唱するばかりで、「もう生きられない」という生のかたちを止揚できない社会なら、自殺者が増えるに決まっている。
上から目線で「弱いものを救う」などといっても、それは、強いものたちが自分の生き方をまさぐっているだけの論理である。そんな薄っぺらな正義だけで人間のいとなみが成り立つはずがない。この社会の合意を、何もかも強いものたちの論理で決めつけられたら、弱いものたちは追いつめられるばかりに決まっている。
強いものたちがみずからの正義を主張しまさぐるために「弱いものを救う」といっているだけなのである。
原始社会や古代社会は「弱いものどうしがおたがいさまで助け合う」というかたちになっていただけで、「強いものが弱いものを救う」というかたちにはなっていなかった。「強いものが弱いものを救う」というかたちは、近代になってから強いものたちが自己正当化するために捏造されてきた倫理道徳にすぎない。
強いものに救ってもらわないと弱いものが生きられない社会が、いい社会であるはずがない。その矛盾が世界中で露出してきたのが、現在のわれわれの生きてある状況である。たとえばアメリカは典型的なそういう社会だからホームレスも犯罪もなくならないのであり、この国も今、そういうかたちを追随しようとしているらしい。TPPに参加しようとするまいと、人間に対する思想そのものが下品で、普遍性を欠いている。
根源的には、人間社会であるかぎり、「強いもの」も「正義」も存在しないのだ。そしてこれが、人間社会の究極のかたちでもあるにちがいない。人類がもっと追いつめられたら、そういうかたちになってくるのだろう。もともと追いつめられて生きるのが、人間であることのかたちなのだ。
すなわち、この世のもっとも弱いものや追いつめられてあるものは、人間の起源と究極を生きている存在なのだ。
いつもながら舌足らずな書きざまではあるが、「もう生きられない」と嘆いて生きることこそ人間であることの普遍的なかたちなのだ、と僕はいいたいわけで。
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社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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