「ケアの社会学」を読む・50・命のはたらき

   1・上機嫌でなんか生きられない
人は、「上機嫌で生きている」と自慢されると、ふとたじろいでいしまう。
なぜなら、誰しも心の奥に、上機嫌だけでは生きられないものを抱えているからだ。
それは、根源的な不安だともいえる。
生き物が生きてあることは、その根源において、ひとつの受難なのだ。息をしないでいると、誰だって息苦しくなるだろう。その息苦しさを知らない人間なんかいない。命のしくみそのものが、上機嫌では生きられないようになっている。
誰の中にも、上機嫌であることに対する引け目がある。そして、誰もいつまでも上機嫌でなんかいられない。そのうち必ず、上機嫌であることにしらけてしまう。その嘘っぽさに、むなしくなってくる。
生きてあることの受難に追いつめられてあるわれわれは、上機嫌であることを自慢されると、ついたじろいでしまう。
上野千鶴子氏や内田樹先生がそれを自慢したがるのは、自慢すれば人がたじろぐということを本能的に知っているからである。彼らは、つねに、人より優位に立ってちやほやされたいという欲望で生きてきたから、人の足元を見るのは本能的に上手いのだ。いつもそこをつけ狙っているのだもの。だから、上機嫌を自慢したがる。
ほんとに、品性下劣だ。この騒々しさはどうにかならないのかと思う。
上機嫌であることは、人間の普遍的な願いではなく、人より優位に立ちたいやつらの普遍的な願いなのである。優越感を持ちたくてうずうずしているやつらが上機嫌ぶっているだけのこと。
「上機嫌」を自慢している人間がのさばっている社会だから、上機嫌で生きられない人たちがみずからの生を否定して死に急ぐということも起きている。
しかし人間は、存在そのものにおいて、上機嫌では生きられないようにできている。上機嫌では生きられない存在だから、他者を上機嫌にしようとするし、他者から上機嫌にさせられる。
人間は、「上機嫌になる」ことはあっても、存在そのものにおいて「上機嫌である」わけではない。
生きていれば、人から上機嫌にさせられることはあるし、人を上機嫌にしようともする。しかしそれは、「上機嫌である」ことの不可能性を生きている存在だからであって、先験的に上機嫌だからではない。
人間が上機嫌になりたがる存在であるとしても、そこに人間であることの本質や根源があるわけではない。上機嫌になりたがるということそれ自体が、上機嫌では生きられない存在であることの証しなのだ。
人は、上機嫌にさせられるだけであって、先験的に上機嫌であるのではない。したがって、上機嫌である機会を失った人に「上機嫌であれ」ということはできない。人は先験的に上機嫌であることはできない。上機嫌ではない存在の仕方をしているからこそ、人を上機嫌にできるし、人から上機嫌にさせられる。
上機嫌ではない存在の仕方をしている人間こそ、人を上機嫌にできるし、人から上機嫌にさせられる。
上機嫌では生きられないことにこそ、人間であることの証明も尊厳もある。
上野氏も内田先生も、自分で上機嫌をつくれると、思っている。彼らは、他人や社会に不満はあっても、自分が生きてあることの嘆きはない。生きてあることの「嘆き=受難」をかみしめることができる心の深さも豊かさも知性も持っていない。
言い換えれば、社会や他人に対する不満を募らせ社会や他人をいじくり倒そうとするのは、自分が生きてあることの「嘆き=受難」をかみしめることを回避しようとする作法である。彼らには、それをかみしめることができるだけの心の深さも豊かさも知性もない。そうやって彼らは、上機嫌の顔を人に見せびらかしている。
はじめから上機嫌で生きているなんて他人に対する優越感の上にしか成り立たないし、因果なことに現代人は、そういう生き方をしたがる人種であるらしい。
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   2・生きていられなくなる
彼らが「上機嫌」を自慢し扇動すれば、この国の年間の自殺者が3万人以上という現実が解消されるか。
たとえば、このところの就職難が原因で自殺する若者が急増している、という。では、就職難が解消されれば自殺する若者が減るかといえば、そうとはかぎらない。自殺する若者はたぶん、ほかのことが原因でも自殺する可能性がある。自殺する若者の数は、そう大きく増えも減りもしていないのだ。
上機嫌で生きないと生きたことにならないと思い込んでいる若者は、上機嫌で生きられなくなれば死にたくなってしまう。この世の中に上機嫌で生きられなくなる契機なんか、就職難だけじゃなく、ほかにいくらでもある。
就職に失敗することなんか、それほど大した不幸ともいえない。男なら牛丼屋のバイトになってもいいし、女なら開きなおってフーゾクで荒稼ぎしたっていい。
しかし上野氏や内田先生と同じように、まともな社会人になって先験的な上機嫌を獲得しなければ生きたことにならないというようなニュアンスのことばかりいっていたら、そりゃあ、就職に失敗したくらいでも死にたくなるし、死にたくなる契機はどこにでも転がっている。
内田先生や上野氏は、人間は上機嫌でないと生きられない、といっている。まあ恨みがましいブスやブ男はそうなんだろうが、自分たちがひとまず機嫌よく暮らせる身分だからといって、機嫌よく暮らせなきゃ生きたことにならないかのような言い方をしなくてもいいじゃないか。
人が生きていれば、打ちひしがれることやもがき苦しむことや、生きることが空しくて憂鬱になることはいくらでもある。
誰もが、そうした「受難」の生を生かされてあるのだ。
息をすること自体が、ひとつの受難なのだ。
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   3・自分を合理化して上機嫌になるいやらしい作法
おまえらがいつも上機嫌だというのなら、それは、おまえらが鈍感で自分をすぐ合理化したがる意地汚い根性が旺盛であるからだ。
内田先生は、奥さんに逃げられたときのことを、奥さんがやきもちをやきすぎて自滅したあげくに逃げていっただけだ、と「女は何を欲望するか?」という本の中で語っておられた。いかにも、俺がもてすぎたからだ、と言わんばかりに。笑わせんじゃないよ。おまえみたいなひねくれたブ男に本気で惚れる女なんか、そうそういるものか。
おまえに男としての魅力がなかったから、奥さんはがっかりして逃げていっただけだ。ほんとに魅力的な男は、どんなにもてようと浮気をしようと、女が離さない。そういうものだ。
内田先生はそのとき、自分に男としての魅力がなかった、という事実をかみしめることができなかった。噛みしめたら、生きていられなくなってしまうからだ。で、自分を合理化する理屈を必死で捏造していった。
しかし世の中は、内田先生のようにいつも自分を合理化したがる嘘っぽい人間ばかりではない。自分に男としての魅力がないからだという事実を突きつけられたら、それをかみしめてしまう人間がいる。そういう「受難」はかみしめてしまうのが人間の自然なのだ。
受難をかみしめながら、人類の文化や文明が発達してきた。
上野氏や内田先生がどんなに「上機嫌で生きよ」といっても、受難をかみしめてしまうのが人間なのである。多くの人は、彼らほど自分を合理化しようとするスケベ根性が旺盛ではない。ときどき、そういうスケベ根性が旺盛な気味悪い人間はいるよね。それは、持って生まれた性根だから、学歴とは関係ない。
内田先生や上野氏が「上機嫌で生きよ」というとき、自分たちのような自分を合理化したがるスケベ根性の旺盛な人間こそほんものの人間であり、合理化できないで自殺してしまう人間なんかみんな人間以前の存在だ、と言っているのである。上機嫌で生きられないなんて人間としてどうかしているのだ、といっているのである。
まあこういうことが社会的な合意として蔓延しているから、受難をかみしめている人たちが生きていられなくなるのだ。そういう人たちの中にこそ人間の自然があるというのに。
またそういう合意があるから、上機嫌になれないことはすべて生きていられないほどの不幸になってしまう。
「上機嫌に生きよ」とか「上機嫌でなきゃ生きたことにならない」みたいな言い方はしない方がいい。それは、上機嫌じゃないと生きられない強迫観念なのだ。
人間は、先験的に上機嫌であることはできない存在なのだ。
失恋をして、失恋をかみしめている人間よりも、自分をごまかして上機嫌の顔をしている人間の方がえらいのか。失恋して悲しくないのなら、愛していなかったのと同じじゃないか。
嘆き悲しむことは、人間の本性であり特性である。その心の深さと豊かさを喪失して上機嫌で生きることが、そんなにえらいのか。
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   4・嘆き悲しむこと
命とは、死んでしまう装置である。放っておいたら死んでしまう不完全な装置である。
不完全だから、もがかねばならない。嘆き悲しまねばならない。
命とは不完全な装置であり、不完全であるがゆえに、ぎくしゃくともがく。それを「命のはたらき」という。
われわれの命は、自然と調和していない。調和しているのなら、「はたらき」なんかなくていい。
命は、はたらき続ける装置であって、調和するための装置ではない。調和することは、はたらきが止まることだ。命は、けっして自然と調和しない。調和しようともしない。はたらき続けようとする。調和しないことがはたらくことだ。
命のはたらきとしての「意識」とは、違和感のことだ。意識は、いつまでも世界と調和したままの「上機嫌」ではいられない。意識とは、違和感として嘆き悲しむはたらきのことだ。
「上機嫌で生きる」なんて、基本的に鈍感で思考の薄っぺらな人間の生態のことだ。
あなたが上機嫌で生きられないとしても、何も心配することはない。嘆き悲しむことは、ひとつの生命力であり、命のはたらきである。人間の知的な才能のひとつである。
われわれの社会は今、「上機嫌で生きる」などとほざく人間ばかりがのさばって嘆き悲しむことをきちんと肯定できる思想を喪失してしまっているから、自殺する人が絶えないのだ。
あえていおう。上野千鶴子とか内田樹という存在は、この社会に巣食う「ガン細胞」なのである。「ガン細胞」だから、勢いよく増殖するのだ。この社会に自殺者が絶えないことの元凶として増殖し続けるのだ。
「上機嫌で生きる」ことがこの社会の合意になってしまったら、この社会の嘆き悲しむ人たちは生きていられない。いわゆる「勝ち組」と呼ばれる人種たちの「上機嫌で生きる」という合意が、この国の自殺者が絶えないことの元凶になっている。
あなたたちは、嘆き悲しむ人たちの嘆き悲しむことそれ自体をなぜ肯定できないのか。嘆き悲しむ人たちに対して、なぜ「上機嫌になれ」と脅迫するのか。そうして嘆き悲しむことのできないみずからのその鈍感さと意地汚さを、なぜそうもあからさまに合理化・正当化しようとするのか。
人間なんか、生きてあることそれ自体に嘆き悲しんでしまうような存在の仕方をしているのである。それが命のはたらきの基礎であり、そういうはたらきを特化したところに「人間」という種が成り立っている。
われわれは誰もが人間という種の生贄としてこの世に生まれてきたのだ。この世に生まれてくることは、そういう不幸であり受難なのだ。人間は、そういう不幸であり受難であるかたちを生きようとする。いや、すべての生き物が、この世界の生贄としてこの世界に存在している。
人間という種が存在するために必要かつ有効なのは、嘆き悲しんでいる人たちであって、「上機嫌に生きる」などとほざいている鈍感で低脳なやつらではない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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