「ケアの社会学」を読む・51・生き延びられない

   1・命の仕組みはうまくできているわけではない
生きてあることはしんどいことだ……ということは肯定されるべきだ。
内田樹とか上野千鶴子とか、「上機嫌で生きている」と自慢する連中なんか、ほんとにアホだなあと思う。
人間が上機嫌では生きられないことは肯定されるべきだ。
「命の仕組みはうまくできている」などという。
僕は、うまくできているなんて、ぜんぜん思わない。
放っておいたら死んでしまう命が、うまくできているはずないじゃないか。うまくできていないから、放っておいたら死んでしまうのだろう。
放っておいたらすぐぎくしゃくしてくる。そのぎくしゃくしてくることに反応してもがくことを「命のはたらき」という。
そのとき命は、みずからの命の不完全性にもがいているだけであって、生きようとしているのではない。本質的に生きられない仕組みである命に、生きようとするコンセプトなどあるはずがない。
ただ、もがけば結果的に生きてしまうだけのことだ。
現在までの地球の歴史で、滅びていった種は無数にいる。命の仕組みに生きようとするコンセプトなどないから滅びてしまうのだ。命が、生きようとするはたらきであるなら、滅びてしまう種などいない。
その種が生き延びるかどうか、その種の生き延びようとする意志の問題ではなく、自然界のなりゆきなのだ。
生き延びようと思おうと思うまいと、われわれは「酸素を吸う」ということしかできない。たまたま現在の地球は酸素を吸う生き物を生かす環境になっているだけのことだ。われわれが生きられるかどうかは地球の環境が決定しているのであって、われわれの意志によるのではない。
生き延びるかどうかを種自身に決定できる能力はないし、生き延びようとする意志(欲望)もない。
命は、生きるための仕組みではない。うまく生きられないでもがく仕組みなのだ。うまく生きられないのが命の基礎的なかたちなのだ。
命とは、「生きられない」状況の中でもがいているはたらきであって、「生きられる」状況では「はたらき」が起こらない。命とは「生きられる」状況にフィードバックしようとするはたらきではなく、「生きられない」状況であり続けるはたらきなのだ。そうでなければ、原初の人類が二本の足で立ち上がったことも、住みにくい地球の隅々まで拡散していったことも説明がつかない。
したがって、生き物に生きようとする衝動=本能などというものはない。これは、何度でもいう。ここのところで引き下がるつもりはない。上野氏や内田先生の常套句である「生き延びる」なんて、ほんとに愚劣で薄っぺらな思考の物言いだ。
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   2・知的な人間はこの国の未来について考えるのか
この先の日本が生き延びるためにどんな方策を講じればいいのか……という議論が世間ではお盛んらしい。
僕は、あまり興味がない。そして、人間が生き延びようとする欲望を第一にして生きている存在だとは思っていないから、いちばんいい答えの通りに動いてゆくとも思わない。
だから、いちばんいい答えを提出した人間をべつにえらいとも思わないし、そんな答えを提出したがる意欲というものがよくわからない。
ともあれ近ごろは、猫も杓子もどうしてこんなにもこの社会(=国家)のことが気になり、この社会(=国家)をいじくりたがるのだろうか。
遠くの親戚より近くの他人、というではないか。国のことより町内会のことや目の前の友情の方が気になるのが、この国の伝統的な心性であったはずである。
だからわれわれは、明治時代になるまで国歌も国旗も持たなかったし、いまだにそんなものに対してあまり興味がない。
われわれにとって国家は、「海に囲まれた日本列島」として先験的に存在するものであって、われわれがつくるものだとは思っていない。国家=浮世(憂き世)が存在することはわれわれの嘆きであって、希望ではない。
国家とは、生き延びようとする欲望の上に成り立った存在であるらしい。それに対してわれわれは「いまここ」に立ちつくして存在している。
われわれは、国家の生き延びようとする欲望から追いつめられて存在している。われわれは、国家の存在を嘆き、国家の存在を受け入れて暮らしている。だから国歌や国旗に執着することは、あまり健康なことだとは思っていない。国歌や国旗を憎んでいるわけではないが、国歌や国旗などどうでもいいと思っている。それは、生き延びようとすることなどどうでもいい、という感慨でもある。そういう感慨をもとにして、この国の伝統的な文化をはぐくんできた。「あはれ」とか「はかなし」とか「わび」とか「さび」とか……。
国歌や国旗は、国家が生き延びようとすることの象徴である。だからわれわれはそれに馴染めない。われわれにとって国家は、われわれの手で生き延びさせるものではなく、われわれの運命として先験的に存在している。われわれはその運命を嘆きつつ受け入れている。
われわれは、生き延びようとする欲望を第一のものとして生きてきた民族ではない。それが「遠くの親戚より近くの他人」という感慨であり、生き延びる未来よりも、目の前の「いまここ」に深く豊かに反応してゆくことを生き方の作法として文化をはぐくんできたのだ。
われわれは、生き延びるということそれ自体がどうでもいい民族なのである。だから、外交交渉がいつまでたってもうまくなれない。だから、原発反対運動が、いまいち盛り上がらない。
われわれは、国家を背負って立っているようなえらそうな顔をして国家の未来を語る態度を、うさんくさいと思う。と同時に、そういうことに対するはにかみをなくしてそんな態度をとりたがる人間がたくさんいる世の中になっている。
というか、そういうえらそうな態度をとることに対するはにかみを持ったナイーブな民族だから、そういうえらそうな態度に、かんたんにしてやられる。
だから、たいして考える才能もないネット社会のプチインテリたちだって、すぐそういうことをいいたがる。
現在のこの国では、政治状況や社会状況を語ることが他人に対して優越感を持つためのもっとも有効な方法のひとつらしい。
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   3・人間は、生き延びようとする存在ではない
それでもわれわれは、どこかしらで「国家も生き延びることもどうでもいいことだ」という感慨とともに暮らしている。
人間とは、たぶんそういう生き物なのだ。
冒険家は、これ以上進んだら死んでしまうかもしれないと思いつつ、ときに頭の中を真っ白にして「どうにでもなれ」と思って進んでしまったりする。そういう瞬間のひとつやふたつを体験しないで冒険が成し遂げられるはずもない。
スポーツ選手は、これ以上激しく動いたらけがをするかもしれないと思いいつつ、ときに頭の中が真っ白になって体が勝手に動いてしまうときがある。そういう瞬間を体験しないで一流にはなれない。
50万年前以降のネアンデルタールが氷河期の極北の地に移住して死と背中合わせで暮らしていていたことだって、人間には普遍的に「生き延びるなんてどうでもいいことだ」という感慨がそなわっているからだろう。
そして人間のそうした普遍的な感慨によって、文化や文明のイノベーションが起きてきた。
生き物には生き延びようとする衝動などないし、人間は、とくにそういうことがどうでもいいという感慨を持ってしまう生き物なのだ。
しかし、だからこそ、生き延びようとしてあれこれこの世界をいじくろうとする人間がこの社会でのさばってしまう。
人間は生き延びようとする衝動が希薄な生き物だから、生き延びようとする観念衝動をたぎらせることができる人間がこの社会でのさばることになる。そこがなやましいところだ。
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   4・この生を上書きしてゆくということ
彼らがなんと言おうと、それでも生き物に生き延びようとする衝動=本能などはたらいていない。
この世に生まれてきたことはひとつの受難であり、生きることはしんどいことだ。そしてそれでも生き物は、「生きられる」状態にフィードバックするのではなく、「生きられない」状態でもがき続ける。もがきながら、生を上書きしてゆく。
いまここを生きられる生き方は、未来を生きられる生き方ではないのである。未来には未来の生き方をしないと生きられない。30歳と同じ体の扱い方を60歳になってもできるわけはない。昨日の空気の吸い方と今日の空気の吸い方は、体調や気分によって微妙に違う。われわれは、そのつどそのつど生を上書きしている。
この生にフィードバックできる安定した状態などない。生き物は、そのつどそのつど「生きられない」状態でもがいている。
遠くの親戚を思うことは、安定した「生きられる」状態にフィードバックしようとする衝動である。しかし日本列島の住民は、そんなことは思わない。「いまここ」の「生きられない」状態を嘆いているから、目の前の他人にどうしてもときめいてしまう。そうやって、つねに生を上書きしてゆこうとする。だから日本人は「新しもの好き」なのだ。
生きることは「生きられない」状態の中でもがくことであって、「生きられる」状態にフィードバックすることではない。
僕は、「上機嫌で生きる」ことを自慢している人間よりも、生きてあることの嘆きを深く豊かに味わいつくしている人の方を信用する。なぜなら、人類の文化や文明のイノベーション(=上書きすること)はそういうところから起きてきたのだから。
「上機嫌で生きている」と騒々しく自慢するブスやブ男なんて、うんざりだ。「上機嫌で生きている」からおまえらの思考はどうしようもなく薄っぺらで、そのセンスはどうしようもなく野暮ったく下品なのだ。おまえらは、人間の自然・生き物の自然を生きることができていない。安定した状態にフィードバックしようとするだけで、「上書き」してゆく知性や感性がない。
社会の正義や倫理道徳がそのまま人間の自然だと思っているとしたら、考えることが薄っぺらすぎる。おまえらがどんなに社会の正義や倫理道徳を説いても、それでも人間は、人間の自然にしたがって生きてあるのだ。正義や倫理道徳を超えて何かを「上書き」してゆくのだ。
だからわれわれの生きてあることはしんどいものになってしまう。生きてあることに深く嘆き悲しんでいる人こそ、もっとも豊かに人間の自然を生きているのであり、人間の真実に目覚めているのだ。
人間の自然は、騒々しいブスやブ男であるおまえらのもとにあるのではない。
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   5・いちばん気になること
まあ僕としては、このシリーズを書いたからには、上野シンパの人と「介護とは何か」とか「老いるとは何か」とか「人間とは何か」ということを議論したかったですよ。だから「騒々しい田舎っぺのブスがなにいってやがる」と何度も書いて挑発してきたわけで、誰かひとりくらいは教祖様の名誉を守ろうとして抗議してきてくれると思ったのですけどね。
悪いけど、「田舎っぺのブス」で検索すると、グーグルでもヤフーでも、このページのことがいちばん最初に出てきます。それでいいのですか。
まあ、このページに書いてあることなど程度が低すぎて相手にならない、ということなのでしょうね。
「ケアの社会学」に書いてあることは、そんなに高度ですか。上野氏は、「介護とは何か」とか「老いるとは何か」とか「人間とは何か」ということを、ほんとうに深く誠実に考えているでしょうか。そういうことに対する上野氏の基本的なスタンスを僕は問うているわけです。
介護について考えることは生き物がこの世に存在することの根源にまでさかのぼって考えることだ、とひとまず僕は思ったわけですよ。そこのところで、上野氏を擁護する人と議論がしたかった。
まあ上野氏がブスであることも性格が下品であることも、どうでもいいですよ。僕だってもっと下品な人間なのだから、そんなところで争おうという気持ちなんかない。
ただもう今は、生き物がこの世に存在することの根源について考えたいだけです。
生き物の命は、うまくできているんじゃない。すべて不完全なものでしかない。こんな不完全な命を抱えてこの世に存在しなければならないなんて「受難」以外の何ものでもないではないか、ということを考えたいわけです。
その思いを抱えて人は、介護し介護されているのだろうし、人と人の関係の基本だってそこにあるのではないだろうか。
まあ、この国の政治状況や社会状況がどうとかこうとかといっている人たちにとってはどうでもいいことかもしれないが。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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