「ケアの社会学」を読む・49・みじめでしんどい命

   1・上機嫌で生きている、と自慢されてもねえ
人間は、根源において「許されている」存在ではない。誰もが他者を許しつつ、それでもなお誰もが「許されている」という自覚を持つことの不可能性を負って生きている。
生きてあることは、そういう受難なのだ。
上野千鶴子とか内田樹という性根そのものがブスやブ男である知識人が、他者に「許されている=承認されている」という立場で「上機嫌」であることを吹聴してくるのと出会うと、ほんとにうんざりさせられる。
そんなところに人間であることの証しがあるのではない。
人間は許しを乞い続ける存在であって、「許されている」と自覚する存在ではない。
ルサンチマンの強いブスやブ男ほど「許されている=承認されている」という立場に立ちたがる。彼らはその立場に立たなければみずからのルサンチマンが解消されない。自分が幸せの真っただ中にいると確認しつつ、それを吹聴せずにいられない。それは、他者に「許されている=承認されている」存在でなければ生きられないという強迫観念だ。
彼らは、受難という人間の本性を生きることができない。
社会の制度性は人を「許されている=承認されている」という自覚とともに生きさせてくれるが、裸一貫の人間として他者と向き合えば、そうした自覚を持つことの不可能性の中で許しを乞い続けるしかない。
赤ん坊も子供も若者も、みな裸一貫の人間として「許されている=承認されている」という自覚を持つことの不可能性=受難を生きている。
今やブサイクな大人ばかりが、正義を手にした何ものかになったつもりで騒々しく野暮ったい幸せ自慢を吹聴している。
上機嫌で生きている、と自慢されてもねえ、あんたのお里が知れるだけなんだよ。内田先生も上野氏も、頭の中は空っぽだし、センスも悪いしねえ。
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   2・制度性としての「自分」という意識
それは、どうしようもなく野暮ったくて下品だ。
野暮ったくて下品であるとは、不自然である、ということだ。そうして、何か子供じみて、知性というものが感じられない。
こういう「幸せ」してます、という顔をしたがるのは、何も上野氏や内田先生だけじゃなく、現代の「勝ち組」の人種に共通の態度かもしれない。
「幸せ」にならないと生きたことにならない、という強迫観念でもあるのだろうか。そしてそういう「自分」にすごく執着している。
意識が、つねに「自分」に向いている。「幸せな自分」をつくってというか演じて生きている。
誰もが幸せになりたがっている世の中なら、他者の関心を自分の中に引き込むためには幸せぶるのがいちばんだと思っているらしい。
幸せであることはともかく、他者の関心を引こうとすることの野暮ったさと下品と不自然がある。
彼らは、人間存在の与件としての「すでに見られている」という意識を喪失して、見られたがっている。それは、野暮で下品なファッションセンスと同じだろう。もてないブスやブ男の悪あがきと同じだろう。
知性とは「何?なぜ?」と問うてゆく意識のことだろう。人間は、そうやって世界を問いながら、自分に張り付いた意識を引きはがしてゆく。
まあ自分を探求する知性というのもあるのだろうが、彼らは、世界や他者に対する問いを喪失している。自分の中に入ってくる情報をそのままためこむことには勤勉だが、「何?なぜ?」と問いながら情報を展開してゆく能力がない。
自分にこだわり自分は人とは違うという意識に居座ってしまうと、世界に対して「何?なぜ?」と問うてゆく思考力や想像力などの知性が停滞してしまう。
意識が自分に向かって滞留していれば、他者に対して「何?なぜ?」と反応してゆく心の動きが希薄になり、彼らは、他者の関心を自分の中に引き込もうとすることばかりしている。彼らは、自分を基準にして人間を考える。「人間の基準は自分ではなく他者である」とは思っていない。
まあ内田先生も上野氏も、他者の関心を自分の中に引き込むことには熟練しているから人気者にはなれたが、研究者としての評価とはべつだ。意識が自分の中に滞留していると、そういう才能の限界がある。二人とも、かっこつけることだけはいっちょ前だが、いってることの程度は低いもんね。
一般人の世界でも、「自分は人とは違う」という気になっている人間にかぎって思考のレベルが低く、才能がない。
才能とは、世界や他者の関心を自分の中に引き込む能力ではなく、世界や他者に対して豊かに反応してゆく能力のことである。すなわち、意識を自分から引きはがして世界や他者の反応してゆくのだ。
「上機嫌」だかなんだか知らないが、大人が幸せぶりっ子ばかりしていると、子供の情操も知性も豊かに育たない。
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   3・世界が存在しなければ「自己=自分」は発生しない
ようするに彼らは、自分はこの世界の他者や神から「許された」存在であると思いたいのだろう。幸せで上機嫌であるのは、「許された」存在であることの証しだ、と思っているのだろう。
人は、この社会の制度に順応してゆくことによって、許された存在になる。この社会の制度は、人々の許された存在であろうとする欲望を培養する。
そうして人々は、この社会の制度から離れたところで、たがいに許されない存在として許しを乞い合いながら恋をしたり友情をはぐくんだりしている。
しかし現代社会においては、恋や友情までも制度的になってきている。
制度的になるとは、自分に執着しているということだ。みずからを許されたものとして、許されないものを差別化してゆくことだ。
誰もが、自分にこだわり、自分をなんとかしたいと思っている。自分をなんとかするのがこの世に生まれてきたことの仕事だと思っている。
たしかにわれわれは、先験的に自己意識を持ってしまっている。意識は、自己と世界との関係としてはたらいている。だから、自分をなんとかしようとするかといえば、そういうことではない。世界との関係として自己が発生するのであって、はじめに自己があり、その自己が世界と出会うのではない。世界が存在しなければ、自己は発生しない。
はじめに世界が存在するのであり、世界を認識し世界に反応する装置として自己が発生する。
だったら、なぜ自分をつくらねばならないのか。自分は、すでにある。自分は自分との関係としてあるのではなく、世界との関係としてある。それを、「無意識」というのだろうか。われわれは、そういう世界との関係の中にある自分はどうにもできないという思いもある。体が勝手に反応してしまう、などという。
人を好きになることは、体が勝手に反応してしまうことだ。そういう「体が勝手にしまう」体験を豊かに持って生きていたい、という思いが誰の中にもある。そういう人が、豊かに生きてあることを味わっているし、そういう人こそ魅力的だ。
われわれは、どこかしらで、自分などというものは無意識のところですでに決定されている、と思っている。
「ありのままの自分」、という。それが「ほんとうの自分」だ、とも。
作為的観念的につくった自分などたかが知れているし、魅力的じゃない。
内田先生は、人間の本性は自己をつくり上げようとすることにある、という。それは、詭弁だ。
自己は、すでにある。その有り合わせの自分で生きていようとするのが人間であり、その有り合わせの自分こそ豊かな自分であり、誰だってその有り合わせの「ほんとうの自分」に遡行しようという思いはある。
また、どんなに気取ったところで、誰もその有り合わせの自分から逃れられない。
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   4・誰だって人間でしかないのだ
まあ人それぞれ生まれ育ちの違いはあるだろうが、根源としての「自分=自己」にそう大差があるはずはない。それは、人間として生き物としての「自分=自己」だ。
人間なら、脳の性能にそう大差はないのだ。べつに成功者や偉人として生きようと、失敗者や身体障害者や老人としておいしい思いが少ない生き方をしようと、たいした違いではない。
違いをつくろうとするから、目くそ鼻くその違いをたいそうなことのように考えてしまう。しょせんは、誰も人間以上でも以下でもない。生き物以上でも以下でも以外でもない。
世の中には、内田先生や上野氏のように、ご立派な自分や幸せな自分や上機嫌な自分になりたい人はたくさんいるのだろうが、けっきょくは誰だって人間でしかないのだ。
われわれは、その人間でしかないことの根源のかたちが知りたいと思う。
そして、その人間でしかないかたち(=本性)は、内田先生のいうように、凶悪でも愚かでもないのだ。その人間でしかないかたちに対する信憑が持てないお育ちの悪いやつらが、不自然に自分をつくろうとしてゆく。つくればつくるほどみっともないだけなのにさ。
大人になれ、などというが、われわれは、おまえらみたいな鈍くさいインポ親父にならねばならないのか、騒々しい田舎っぺのブスにならねばならないのか。
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   5・進化の契機
この世に生まれてきたこと、すなわち生きてあることは、みじめでしんどいことだ。
みじめでしんどいことであってはいけないのか。
内田先生や上野氏のようにご立派で幸せで上機嫌でも、ブサイクな鈍くさいインポおやじであるだけだし、ブサイクな騒々しい田舎っぺのブスであるだけじゃないか。
人間なんか、みじめな存在なのだ。みじめな存在として生きることによって、文化や文明を発達させてきたのだ。それが、人間が直立二足歩行することの本質であり、いまなおわれわれはその与件の上にこの世の中を生きてある。
内田先生や上野氏はご立派で幸せで上機嫌だから、そんな自分を守ろうとして、もはや自分が上書きされることはない。
われわれはみじめでしんどい自分しか持ち合わせていないから、つねに自分を上書きしてゆかないと生きていられない。
考える=知性とは、「何?なぜ?」と問うて知識を展開し上書きしてゆく行為である。そういういとなみは、みじめで無力な自分を生きているところでなされている。だから無力な子供は、いつも「何?なぜ?」と問うてくる。
人間とは、自分を上書きしてゆく生き物であり、それが文化や文明の発達の契機になっている。
ホメオスタシスとは、幸せで安全な状態にフィードバックする作用ではなく、自分が上書きされる作用である。生きられない自分が生きてしまう作用である。そうやって生物の進化が起こる。
生き物は生きられない生を生きるのであって、生きられる(=死なない)存在になるのではない。われわれは、つねに死んでしまう命を生きてあるのだ。
死なない命などというものはない。もしも人間が永遠に生きることのできる科学を獲得したとしても、それでも「命」とは死んでしまうはたらきであることに変わりはない。これは、言葉の問題というより、科学的な事実なのだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がったのは、生き物としての本能にしたがって生きられない(=死んでしまう)存在であろうとしただけである。
生きることは、死んでしまう存在であることだ。生き物は、みずからの命のはたらきにしたがって生きてある。生き物は、生きられる存在になろうとするのではない。死んでしまう存在であり続けようとするのだ。
生き物に、生きようとする衝動などない。死んでしまう存在でなければ、生きてあることの醍醐味などないのだ。死んでしまう存在であり続けようとするのだ。死んでしまう存在としてもがき苦しむから、進化ということが起きる。
象は、あんな鈍くさくてばかでかい図体になりたかったはずもないが、死んでしまう命をもがき苦しんだ結果としてあんなになってしまったのだ。
生き物は、進化しようとして進化するのではない。生きてあることはひとつの受難であり、ダイナミックにもがき苦しんだものが進化するのだ。
生き物のホメオスタシスは、機械のフィードバックの機能よりも、もう一段高度なはたらきなのである。
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   6・思考とは、命の危機を生きることだ
内田先生と上野氏がそろって好きな言葉は「上機嫌」と「生き延びる」である。しかし、生き物の命のはたらきは、「生き延びる」とか「フィードバック」という言葉では説明がつかない。生き物に生き延びようとする衝動などはたらいていない。作為的に生き延びようとする観念をかきたてて生きた結果としてご立派でお幸せで上機嫌な生を獲得したと自慢しても、けっきょくはインポおやじや騒々しい田舎っぺのブスになってしまっているだけである。それはもう、人間としての品性の問題であると同時に、思考力や想像力の希薄であることの当然の帰結でもある。
彼らの思考は、ただのフィードバックでしかなく、テキストを上書きしてゆくインスピレーションがない。
どうしてみじめでしんどい生であってはいけないのか。そりゃあ誰だってそんなふうに生きたいとは思わないが、それでも、みじめでしんどい生を生きるところから豊かな思考が生まれてくるし、豊かな命のはたらきが起きている。
命のはたらきは、命の危機において生まれてくる。
すべての生き物は、命の危機を生きている。
おまえらの上機嫌の、そのアホづらはなんなのか。教育者とか社会のオピニオンリーダーという立場であろうとするなら、そんないじましいことばかりいっていないで、人類の生贄としてもがき苦しんで生きて見せろよ。
生き物の命は、根源において、みじめでしんどいものなのである。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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