「ケアの社会学」を読む・48・人間は許された存在か

   1・正義ほど凶悪なものはない
性悪説」というのか、人間はもともと凶悪な存在であり、それを克服するために社会の制度や倫理道徳が存在する、などといわれたりする。
内田樹先生はこの立場であり、大人になるとはみずからの凶悪な本性を克服して人格を完成させることで、子供とはほんらい的に凶悪で愚かな人間以前の存在だ、といっておられる。
そうだろうか。人間の本性は「凶悪」なのだろうか。
僕は、そうは思わない。
凶悪なのは、正義という社会の制度であって、人間の本性ではない。正義の名のもとに人殺しだってしてしまうのが人間なのだ。内田先生の中に巣食っている「凶悪さ」とは、自分を正義の立場に置いて他人を見てしまう、他人を裁く、という習性なのであり、それだけ心が社会的な制度にむしばまれているというだけのことであって、それが人間の本性だとはいえない。まあ内田先生は、無意識(潜在意識)の部分がひといちばい制度に汚されている、といえるだけである。
おそらくそれは分裂病の症状であり、人間の本性が凶悪であるであるのなら、分裂病はけっして治らない。
人間は、「正義」の場に立たなければ、凶悪になんかなれない。そうやって「許さない」とか「殺してやる」とかと思ってしまうし、そうやって他人の悪口が幻聴として聞こえてきたりする。
凶悪な心とは、他人を裁く心である。自分が他人を裁いているから、他人から裁かれるという被害妄想も起きてくる。分裂病者の被害妄想は、たちまち他人に対する凶悪な攻撃性に反転する。
しかし人間はほんらい、ちょっと気を許して社会的な自分を見失うと無限にお人よしになってしまう存在である。
だから、結婚詐欺とか、人に騙されるということが起きる。第三者の他人から見たら、どうしてそんなことにも気づかないだろう、とあきれるほどかんたんに騙されてしまったりする。
母親は、人殺しをしたわが子をすでに許している。
人間は、他者を「許している」存在である。そして他者に「許されている」という自覚を持つことができない存在である。人間は、存在そのものにおいて、他者に許しを乞うている。他者に許しを乞うことが、「他者を許す」という態度にほかならない。
母親が人殺しをした息子を許しているとき、息子に許しを乞うている。この世に生まれてこさせなければ、息子は罪を犯さなくてもすんだのである。
人がこの世に生まれてくることはひとつの過ちであり、誰にとってもこの世に生きてあることはしんどいことであり、受難なのだ。
自覚的根源的には誰も許されていないし、誰もがしんどい「受難」としての生を生きている。
しかし、社会の制度は、それに従うことによって「許されたもの」の立場に立たせてくれる。そうして正義を振りかざして他人を裁き、凶悪になってゆく。
内田先生も上野千鶴子氏も、どんなに反体制的なことをいおうと、つねに「許されたもの」の立場で発言しておられる。正義はこちら側にある、と。
彼らは、つねに正義の立場で考える癖がついているから、自分のなかの「凶悪さ」も意識させられてしまう。人が正義の場に立って他人を裁くということをしている社会だから、分裂病という病理も生まれてくる。
人が凶悪になるのは、人間だからではなく、正義の立場に立っているからだ。
人間は、根源において、正義の側に立っている「許された」存在ではなく、「許しを乞うている」存在なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   2・直立二足歩行という受難
生き物がこの世に生まれてくることは、ひとつの受難である。
われわれは、人類の生贄としてこの世に存在している。
因果なことに生贄として生きることが生きることの醍醐味になっており、魅力的な人はみなどこかに生贄としての気配を漂わせている。
上野千鶴子とか内田樹という性根そのものがブスやブ男である人間たちが「上機嫌で生きる」などといっても、そんなところに人間の本性や魅力があるわけではない。
人間が二本の足で立って群れをつくっているということは、胸・腹・性器等の急所をさらして他者と向き合って存在している、というそれ自体受難=生贄として生きてあるかたちにほかならない。それは、生き物として、攻撃されたらひとたまりもない姿勢であり、おたがいが許し合わないと生きていられない。
生き物が正面から向き合うことは、戦う態勢である。しかし人間は、二本の足で立ち上がることによってそれを、許し合い抱きしめ合う関係に変えていった。
猿には、必ず順位関係がある。彼らの関係は、それが確認され、けっして正面から向き合わないところで成り立っている。
しかし人間は、たがいに向きあいながら、たがいに許しを乞い合い許し合っている。と同時に、たがいに隙を見せ合っているのだから、たがいにいつ相手を攻撃しようとするようになるかわからないし、いつ攻撃されるかわからない、という緊張関係をはらんでいる。緊張関係をはらんでいるから、けんめいに許しを乞い合い、許し合ってゆく。
やくざの集団は、普通以上に深い絆で結束している。なぜなら、誰もが人を殺しかねない存在であり、誰もがいつ殺されるかもしれない存在だからだ。だからこそ、仏以上に許しを乞い合い許し合って結束している。
人間は、人殺しをする存在だからこそ、誰もが他者に許しを乞い、許し合って関係をつくっている。
しかしそれは、殺そうと思えばいつでも殺してしまえるし殺されるかもしれない関係なのだから、「許されている」と思うことは、けっしてできない。ただもう、「許す」=「許しを乞う」ことができるだけである。「許す」=「許しを乞う」ことをしなければ、人間の関係は成り立たない。それによってはじめて人間の関係は成り立っている。
人間は、「許されている」という自覚を持つことができない「受難」それ自体を生きている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   3・連携と結束のダイナミズム
二本の足で立って他者と向き合っている人間存在は、けっして「許されている」存在にはなれない。「許されている」存在になれないからこそ、より切実に他者に許しを乞い他者を許している。
人と人の関係は、一方通行である。一方通行だからこそ、よりダイナミックに連携し結束してゆく。
人と人の関係の連携と結束のダイナミズムは、たがいに「許されたもの(=承認されたもの)」になることではなく、あくまで一方通行の関係として、誰もがひたすら他者に許しを乞い他者を許してゆくところで成り立っている。
人間は、他者を許している存在であるが、許されている(=承認されている)と自覚する存在ではない。
一方通行であることにこそ、人間の関係のダイナミズムがある。
たがいに自分のことを忘れて他者にときめいてゆくときに、もっともダイナミックな連携と結束が生まれる。
人間にとって、他者との関係において自分を意識することは、二本の足で立って他者の前に胸・腹・性器等の急所(弱み)をさらしている自分を意識することにほかならない。まずそういう前提があって、そこから他者と関係してゆく。それは、自分を忘れて他者にときめいてゆくことだ。
他者の意識が自分の中に流れ込んできて自分を意識させられることは、ひとつの危機であり受難である。人間にとって自分を意識することは、無力な自分が危機にさらされて存在している、と意識することである。
西洋人は、いつも「アイラブユー」といっているのだとか。そういうことは、いわなければ相手に届かない。相手が何も表現しないのに勝手に感じてしまうのは、いつだって、相手の悪意である。何も表現しなければ、悪意がある、と感じてしまう。
だから分裂病者は、何も表現しない他者に自分に対する悪意を感じて、自分に対する悪口という幻聴を捏造してしまう。
弱みをさらして二本の足で立っている人間においては、他者の意識はつねにみずからの存在の危機=受難として流れ込んでくる。
たとえば、貧乏でブサイクな人間が、みずからの存在の仕方を自覚するなら、他者に祝福されているとは思えないだろう。どうしても「バカにされている」とかそういうふうに思
ってしまう。それと同じで、人間は、根源において他者に「祝福されている」とか「許されている」と思うことが不可能な存在の仕方をしている。
人間にとって、自分を意識することは、他者の前に弱みをさらして存在している自分の危機を意識することである。他者の意識が自分の中に流れ込んでくることは、自分を意識させられるということにおいて、危機=受難なのだ。
たとえ他者が祝福していても、自分を意識させられる、ということにおいて危機=受難なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
   4・他者の意識が自分の中に流れ込んでくることの危機=受難
赤ん坊は、自分がかわいい存在だということなどわかっていない。だから、知らない人から「かわいい!」と愛想をふりまかれても、ただもう自分を意識させられることの居心地の悪さに浸されるだけである。
お母さんが相手なら、お母さんから流れ込んできた意識(=微笑み)を投げ返すことによって自分を忘れるというトレーニングをしているからそれはそれで大切な体験になっているが、知らない人にときめき返すことは、たぶん1歳くらいになってからできるのだろう。
他者の意識が自分の中に流れ込んでくることは、それを投げ返すことが、同時に自分に張り付いた意識も一緒に引きはがす契機になる。
赤ん坊は、「かわいい!」と愛想をふりまかれることがよろこびなのでではない。それは、たとえお母さんが相手でも、受難なのだ。しかしお母さんが相手なら、その愛想(=微笑み)を投げ返すことができる。そのときはじめて、自分に張り付いた意識も同時に引きはがすという体験としてひとつのよろこびになる。
そのとき赤ん坊は、お母さんを許している。そして、お母さんから許されている(=微笑まれる)体験は、けっしてよろこびにはなっていない。つまり、お母さんから「許されている」と自覚することはできない。あくまで、自分がお母さんに向かって微笑むことがよろこびなのだ。
お母さんだって、赤ん坊から微笑まれることをいちいち「許されている」と自覚していたら、ぐずって泣かれるときには「許されていない」と悩まなければならなくなる。そうやって育児ノイローゼになってゆく。
あくまで一方的に赤ん坊の微笑みにときめいているだけの方が、健康で自然な関係なのだ。
人間にとって、他者の意識が自分の中に流れ込んでくることは「受難」なのだ。受難は受難なのだけれど、その受難を契機にして、赤ん坊は、世界や他者にときめくことを覚えてゆくのかもしれない。そうして、いままで見えていた世界の画像が鮮明なかたちになってくるのかもしれない。
他者の意識が自分の中に流れ込んでくることは、「受難」なのである。だから、赤ん坊のときにこのことを強い恐怖として体験してしまったために、大人になっても人の顔の識別がうまくできない、ということもまれに起きてくる。
また、内田先生が自分の中の「凶悪」な心を意識していることも、他者の悪意が自分の中に流れ込んでくることに対するルサンチマンというかトラウマがあるのだろう。でなければ、凶悪な心を潜在意識として持つことは不可能である。それは、人の心の普遍ではなく、分裂病の病理なのだ。
根源的には他者の意識が自分の中に流れ込んでくることは受難であり、そうやって他者に「許される=承認される」ことを自覚することがみずからのアイデンティティになるということはあり得ない。
・・・・・・・・・・・・・・・
   5・「許されている」と自覚することの不可能性
人間は他者を許している存在であるが、他者から許されてあると自覚している存在ではない。
他者から許されてあると自覚すること、すなわち他者の意識が自分の中に流れ込んでくることは、ひとつの存在の危機であり受難である。
だから人間は、根源において「他者から許されている」と自覚していない。ただもう自分の方が他者を許しているだけである。
二本の足で立って生き物としての弱みを他者の前にさらしている人間存在は、他者を許していないと生きられないし、他者から許されていると思うことは自分が弱みをさらしていることを意識させられることなのだから、それは危機=受難以外の何ものでもない。
人間は同情したがる生き物だが、同情されたがっているわけではない。
人と人の関係は、つねに一方通行である。一方通行だからこそ、人間の連携と結束はダイナミックになる。
つまり、連携していても、連携しているという満足がなく、つねに連携していこうとする。
許していても、許されているという満足がなく、ひたすら許し続ける。
人は他者を許し続けながら、けっして「許されている」という満足を持つことができない。二本の足で立ってたがいに正面から向き合っている人間どうしは、そういうかたちでしか関係が成り立たない。
人と人は「寄生」し合っているのであって、「共生」しているのではない。われわれは、けっして他者から「許されている」と思うことはできない。心はつねに一方通行で、他者に向かいながら、他者から向かってくることはない。というか、他者の心が向かってくることを受難として受け止め、投げ返すことによって関係が成り立っている。他者から許されているというと事態を、他者を許しているという態度によって上書きし消去している。
人は、けっして「許されている」と自覚しない。
人間は許されている存在であると同時に、許されていると自覚していない存在でもある。観念的制度的に許されていると自覚することはあっても、存在の根源においては、許されていると自覚していない。
許されていると自覚できないで、許し続けている。
人と人は「共生」しているのではなく、「寄生」し合っている。他者を許すことすなわち他者にときめくことは、他者に寄生してゆくことである。
人は、他者を許し他者にときめくことはしても、他者に許されときめかれることがうれしいわけではない。他者に許されときめかれることを消去し上書きしてゆく行為として、他者を許し他者にときめいている。
他者を許し他者にときめいているとき、人は、他者に許されときめかれているとは思っていない。
人間は、他者に寄生し寄生されている存在である。これが、問題だ。人と人の関係は、つねに一方通行である。
人は老人を介護せずにいられない存在であるが、老人が介護されたがっているわけではないし、老人に介護される権利や資格があるわけでもない。
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/